87 グリンデローの角


本当は鰓昆布を試してみたかった。しかし貴重なそれは盗まれたスネイプ教授の分を確保するのがやっとで、もう一つとなると何ヵ月も先になると言われた。

譲ってくれやしないかとそれとなく話してはみたが、スネイプ教授にその気はないらしい。私もどうしても鰓昆布がほしいわけではなかったため、粘ることなく諦めた。


そして私は今、湖の畔にいる。

イースター休暇半ばの、そよそよと風の心地好い日だった。太陽は真上で燦々と夏草を鼓舞し始め、湖面の輝きが鬱陶しいくらいに瞬いている。髪を突き抜け頭皮までもを焼かんとするその陽に手を翳し、束の間の日陰を作り出した。

リリーは変身術より安全で確実な泡頭呪文を唱え、ローブを脱ぎ捨てた。更にもう一枚脱ぎ捨てれば窘められないギリギリの軽装となり、湖で遊んでいた生徒たちから囃し立てるような声が上がる。

対岸はなだらかな傾斜になっているがダームストラングの船も停泊しているこの場所はいきなり深い。生徒たちに手を振って、リリーは湖の中へと飛び込んだ。


初めて入った湖は上から見下ろしていた通り失敗した魔法薬のように濁っていて、手の届く範囲がやっと見える程度しかない。生き物を感じさせない静寂がドクドクと脈打つリリーの鼓動だけを知らせていた。

リリーは特別泳ぎが上手いわけでもダイビングの経験があるわけでもないが、そこはそれ、杖があればなんとでもなるものだ。鰭の代わりに杖を後ろへ噴射させ、お目当てを探す。

お目当てはグリンデロー。もっと言えば、グリンデローの角。

彼らの角に利用価値は期待できないとスネイプは言った。しかしそれは人に対してのみ。巨人向けの魔法薬理論を構築していたリリーには思うところがあった。彼女のような人物が調べたという論文をやっとのことで探し出したところ、希望が見えた。このところ行き詰まっていた研究を進められるかもしれない新星だ。試さない手はない。

巨大な水草がたゆたう中を、底へ中心へと向かって泳ぐ。いつ何時水草から生き物が飛び出してくるか分からない。常に気が抜けなかった。


「ひっ!」


空気を溜めた泡の中でくぐもった自分の声がした。ぬめりと足裏を撫でたものへ警戒心を持って振り返ると、巨大な軟体動物の触手が玩ぶようにリリーをつついている。ホグワーツに生息する大イカは穏やかで忌避すべき存在ではない。彼女は仕返しとばかりに触手を擽り返した。

リリーの行動が大イカに伝わったかは別として、一頻り未知との接触を楽しんだあとは更に奥へと進んだ。やがて牧草地のような、人の背丈ほどもない水草の生い茂る場所に出た。

ここが第二の課題でポッターの見た場所なら、きっとグリンデローもここにいる。リリーは一層警戒を強くして辺りを見回した。

5分ほど浮かんでいただろうか。未だグリンデローが襲ってくる気配はなく、時折小魚が脇をすり抜けるばかり。リリーはこれでは埒が明かないと、牧草地の中へと舞い下りた。

右を見て、左を見る。そしてもう一度右を見たとき、目と鼻の先に牙を剥き出しにして唸るグリンデローの姿があった。近すぎる距離にビクリと肩を震わせたが、グリンデローもピタリと動きを止めていた。惹き付ける《呪い》は彼らにも効果があるらしい。

珍妙な間だった。

先に動いたのはリリーだ。失神呪文でも食らったようなグリンデローの角をむんずと掴み、その半分より少し下に杖を滑らせる。するとナイフで切られたかのように角が切り離された。

痛みはないはず。しかしそれを攻撃と捉えたグリンデローは豹変した。当然だろう。《呪い》は万能ではない。黒板を引っ掻いたような喚き声がして、どこに隠れていたのか、何十ものグリンデローがリリー目掛けて次から次へと飛び込んできた。まさに閃光。避けることは叶わず迎え撃つ。

しかしリリーは少しばかり角を頂きに来ただけで、彼らを傷つけたいわけではない。脆い彼らの指を慎重に引き剥がしながら、隙を見て角を切り取っていった。

どれだけ格闘したのだろう。リリーは泡頭の空気が薄くなってきていることに気づいた。激しい動きで予想よりも酸素を消費してしまったらしい。リリーは浮上しようと上へ上へ水を掻く。

差し込む光が一段と強くなって、グンッと勢いよく下へ引っ張られた。バタ足はグリンデローの細長い指によって一纏めにされる。そこへ次から次へと仲間が飛び付いて、すがり付く幼子のように離れようとしない。

傷付けたくないなどと悠長なことを言っている場合ではなかった。リリーは遠巻きに泳ぐだけの小魚にグリンデローを襲ってもらおうと杖を振り上げる。


「オパ、グッ!」


しかしそれは腹部への新手の衝撃に途絶えてしまった。圧迫の正体を確かめようと下へ動かした頭は、またグンッと引かれる衝撃に無理矢理前へと向く。お腹への圧迫が増し、背中へも耐えがたい水圧。

リリーは高速で移動していた。

杖だけは離すまいと力を込め、流されそうな泡を頭に留まらせることだけに集中する。

箒に乗って目一杯飛ばしたときのようなスピードに、いつしかグリンデローたちは引き剥がされていた。長いようで実際には1分もない移動は突然ピタリと止まる。リリーはようやく圧迫の正体を目の当たりにした。

人間の頭より大きな目玉が、じっと彼女を見つめていた。


「ありがとう」


自信はないが、大イカは自分を助けてくれたのではないだろうか。リリーは目玉の少し上辺りへ腕を伸ばして強めに撫でてやった。それが正解だったのか、大イカはするりと触手を離し、また濁りきった湖の奥へ姿を沈めていった。


湖面から頭を出して岸に片腕をつく。泡頭呪文を解いて杖と共にグリンデローの角の入った巾着を陸に投げ出すと、目の前に手が差し出された。


「シュティール……」


久しぶりに真正面から顔を見た気がする。ダームストラングの船から見ていたのだろうか。気まずそうに笑う彼の手を取ると、グイッと畑の人参のように湖から引き抜かれた。ベッタリと服が気持ち悪く纏わり付く。


「ありがとう、シュティール」

「な、先生!」


リリーは感謝の意に相応しい笑みを浮かべたというのに、シュティールは責めるような声色と共に杖を出した。そして彼女に向けて呪文を唱える。リリーは知らない呪文にピクリと眉を跳ねさせたが、自身を包む気持ち悪さの緩和によってその効果を知った。


「ありがとう」

「どういたしまして」


リリーが再び礼を言うと、ぎこちなくカクンと頭を下げ、逃げ去るようにシュティールが離れていった。

呪文にも地域性や流行りがある。彼の呪文はイギリスでは広まっていないものだろう。リリーはすっかり乾いた袖を撫でた。そして苦笑する。呪文の詳細は計り知れないが、乾いているのは外側だけ。下着はまだしっかり水分を含んだままだった。

そつのない彼がこんなミスをするとは。下着が透けるような服だったわけでもないのに動揺した彼は、まだ《呪い》が消えたわけではないのだろう。バレンタイン以降、偶然すれ違う度に挨拶をする程度の関係になった私たちだが、


なるほど、彼はまだ……


《呪い》の根深さにため息をつきながら杖と巾着を引き寄せる。ふと、ふわりと頭が軽くなった。今度は髪が乾いている。またシュティールかとダームストラングの停泊する方向を窺うが姿はない。代わりに視線の合う生徒から同情的な目を向けられた。


「これが教師のやることか」


左から苛立ちと呆れの含んだ声がして、リリーがギギギと首を回す。


「こんにちは、スネイプ教授。……ありがとうございます」


彼が杖を握っていることに気付くと、髪に触れリリーがにこりと微笑んだ。スネイプが彼女の髪から枯れ草を引き抜く。


「今度は何をしていた?」


『今度は』とは。まるでいつも何かやらかしているようではないか。リリーの口角が下がる。


「グリンデローの角を取っていました」


巾着を開いて見せれば、スネイプは今日一の眉間のシワを作り、両手を腰へと当てた。


「利用価値はないはずだが?」

「利用価値は見つけ出すものですよ」


リリーは笑みをにんまりと含むものへ変える。スネイプは関わりたくないと怪訝な顔をして、表情の通り踵を返した。







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