リリーはイースター休暇をホグワーツで過ごす。
授業関連の仕事がなくなったとしても魔法薬材料の貯蔵を増やすため、薬草を摘んだりエキスを抽出したりと暇にはならない。これに関して言えば仕事ではないし頼まれたわけではないのだが、スネイプとの貴重な接点ともなればリリーは喜んで作業を引き受けた。
それに今年度は新たに研究したいことが増えた。半巨人用の治療薬だ。呪文の開発はリリーの得意とするところではないため、幾分かマシな魔法薬で取り組もうと決めた。
《本》によると今年の夏、ハグリッドは巨人たちを探しに旅に出る。そして弟分を連れて帰ってくるらしい。その弟分というのが厄介で、心は穏やかだとしても身体は立派な巨人族。他の生き物に対する力の加減があやふやなうちはハグリッドですらも繰り返し怪我をするという。
リリーはそんなハグリッドの助けになれればと、秋の終わりから魔法薬の研究に取り組んでいた。といっても専ら理論重視で大鍋にまでまだ辿り着けていない。実践へ移すのはイースター休暇が初めてだ。そのために地下牢教室も借り受けた。
学術書や論文を探しては見たものの魔法族に巨人族を治療しようという考えすらないようで、どれもちっぽけで普遍的なことばかりが載っていた。
皮肉にも一番役に立ったのは反巨人族の本。骨格、皮膚、血液、様々なデータが載っている。非常に気分の悪いことに毒に対する施行データまでもが載せられていた。
リリーは煎じるものを傷薬に定め、完成目標をハグリッドの出発までと決めていた。百パーセント完璧な煎じ薬は期待していない。ただ少しでも治癒の役に立つものが出来たなら、お守り代わりに持っていってほしかった。無事に戻ると《知って》いても、自己満足だとしても、リリーの意思は変わらない。
動機が動機なだけにスネイプに助力を頼む気にもなれず、リリーはここ数ヵ月一人で粘っていた。
加えて第三の課題の用意もある。ハグリッドが主体となって動いているが、迷路の生け垣や障害となる魔法生物の準備にはリリーも一枚どころではなく噛んでいる。
であるから、忙しいのだ。尋常ではなく。そんな折にシリウスが手紙を寄越した。
『手紙のやり取りはあっても生身で誰とも関わらず過ごすのは気が狂いそうだ。私を助けると思って来てほしい』
リリーは誰かに「お人好し」と評された記憶がある。基本的に頼られれば嬉しくなるし、応えたいと思ってしまう。リリーはシリウスに返事を書いた。
『禁じられた森で薬草採集を手伝ってくれるなら、一緒にいても良い』
トントン拍子に日取りが決まり、尻尾を回すほど大きく振りながら駆けてくる大きな黒い犬に、誰かに見られたらどうするつもりかと背筋が凍る思いだった。
「リリー、もうカゴ一杯じゃないか?」
「そうだね、もういいかな。ありがとう、シリウス」
長年のアズカバン暮らしを感じさせないほどシリウスの優秀さは健在だった。首席を務めたジェームズ・ポッターと並んで抜きん出ていた彼は薬草にも明るい。薬草の見分けはもちろんのこと、上質なエキス作りに欠かせない葉の選別も申し分なかった。
「あー、これをスニベルスのやつが使うってのが気に入らねぇんだよなぁ」
禁じられた森の拓けた場所で、春の柔らかな陽射しの降り注ぐ中ふかふかの雑草に寝転がる彼は、人の姿をしているのに大きな尻尾を揺らすのが見えるようだった。スンスンと花の香りを確かめながら、鬱陶しそうに蝶を払い除けている。
「その呼び方やめて。彼はセブルス・スネイプ教授」
「あ?良いだろ、何でも。泣きみそには違いないんだから」
「聞いてて気分が悪い。改めないなら帰る」
リリーはカゴを掴み立ち上がった。本当に帰ろうとするリリーに焦ったシリウスががばりと身を起こす。
「ちょ、本当に帰る気かよ、待てって、止めるから。な?良いだろ、これで。あいつの話はやめだ」
彼を持ち出したのはそっちだろうと思いながらリリーが足を止める。振り返ると、シリウスが自分の隣をポンポンと叩いた。ここに座れ、という催促だ。
「真面目に薬草摘み手伝ったら、私の気晴らしにも付き合う約束だろ?」
リリーがチラリとカゴを見て、ため息をついた。
半巨人用傷薬の研究も行き詰まっている。彼の魔法薬学の成績は知らないが雑談のネタとして話してみるのも悪くない。このまま地下牢教室へ戻って一人頭を悩ませるよりは良い案が飛び出すかも。
僅かな期待を胸に、リリーはシリウスの隣に腰を落ち着けた。ゴロリと再びシリウスが横になる。が、彼の頭は何故かリリーの太股の上にあり、モゾモゾとしっくり来る位置を探し蠢いていた。リリーはギョッとすればいいやらゾッとすればいいやら一瞬固まって、ペチリと彼の額を叩く。
「退いて」
「結構固いな…ちゃんと食ってるのか?」
「シリウスには関係ないよ。退いて」
「…これは、どういうことだ?」
不意に届いた第三者の低い声に動く気配のなかったシリウスの重みが一瞬で消える。シリウスはローブに手をかけ低い座ったままの姿勢ながらいつでも飛び出せるように構えていた。
一方リリーは直ぐ様気づいた声の主に警戒の必要はないと判断していた。ただ、どくどくと跳ねたまま大袈裟な収縮を繰り返す心臓は、後ろめたさや言い訳の準備に脳への働きを強めていた。
「どういうことだ、と聞いている」
再度同じ問いかけを繰り返しながら、黒衣を揺らめかせスネイプが一歩前へと進み出る。呼応するようにシリウスがジリと地面を強く踏みつけた。
この状況で辛うじて幸いだと言えるのは、どちらも杖をまだ取り出してはいないということだ。スネイプもローブに手をかけ指先をピクピクと動かしてはいたが、すんでのところで耐えていた。
「二人とも、先ずは落ち着いて下さい。落ち着いて、話をしましょう」
リリーは二人を刺激しないよう、ゆっくりと立ち上がる。じっとりと汗をかいた両手を掲げ、自分は無害だとアピールしながら二人の間へと辿り着いた。
「お互いを、絶対に攻撃しないでください。もし万が一我慢ならなくなったときは、杖を私に向けてください。良いですね?」
スネイプも、シリウスも、とても良いとは返事ができなかった。相手の代わりに自分を攻撃しろというリリーに眉を潜め、どちらともなく両手を下ろす。もし彼女を避けて攻撃したとしたら、杖を構える間もなく彼女は身を張って庇うのだろうという気迫を感じた。
リリーに怪我をさせるのは二人の本意ではない。
「ありがとうございます」
リリーはホッと安堵を頬に浮かべ二人を見比べる。
この状況を作り出してしまった責任をリリーはヒシヒシと感じていた。ハグリッドにばかり気を割いて、もう一人ここへ来る可能性のある人物への対策が頭から抜け落ちていた。ハグリッドよりも会わせるべきでなかった人物だ。
「シリウス・ブラックが冤罪だったということはスネイプ教授もご存知ですね?」
スネイプはリリーの向こう側にいる人物を睨み付けたまま反応を返さなかった。鼻で笑ったシリウスをたしなめるようにリリーが睨み付ける。
「シリウスがここにいることはダンブルドア校長もご承知です」
細かく言えばホグズミード村外れの洞窟であってホグワーツ敷地内ではないが、リリーには些細なことだった。それにスネイプが何を言おうとダンブルドアは話を合わせてくれるだろうという自信がリリーにはあった。
「彼はポッターを守るためにここにいます」
今度はスネイプが鼻で笑った。リリーにとってスネイプは上司のようなもので、シリウスのように睨み付けて黙らせるなんてことはできない。
「逃亡犯に何ができる?こそこそ嗅ぎ回ってダンブルドアに尻尾を振るのが精々だろう」
「スニベルス、貴様っ!」
「シリウス、止めて!」
再びローブに手をかけたシリウスをリリーが制した。そして懇願を滲ませた瞳をスネイプへ向け、努めて落ち着いた声を作り出す。
「スネイプ教授、シリウスには彼にしかできない役目があります」
そんなものがあるものか、とスネイプが片眉を上げて嘲笑を浮かべた。
「二人には二人にしかできない役目があって、どちらもポッターに必要だとダンブルドア校長はお考えです。だから二人ともここにいる」
いらないのは、私だけ
リリーは口にこそ出さなかったが、その思考は影となって彼女に落ちる。
「エバンズ、」
「スネイプ教授、彼を今日ここへ呼んだのは私です。彼の行動すべてに責任を持ちますので、どうか今日は収めていただけませんか?」
スネイプを遮るようにしてリリーが願いを告げた。さわさわと木々の囁きだけが場を掠める。
シリウスは口を挟まなかった。リリーがシリウスを庇うような態度だからか、二人を観察する絶好の機会だからかはリリーには分からないが、静かにしている分には都合が良い。
しかしシリウスにとって都合の良いリリーの態度が、スネイプにとっても良いものであるはずがなかった。スネイプは強火にかけ続けた大鍋のように煮え繰り返るはらわたからひっきりなしに吹き零れる熱に必死になって耐えていた。ここに彼女がいなければ、彼は迷いなく杖を抜いただろう。
「…ダンブルドアには報告する」
「はい、構いません」
スネイプは熱湯に爛れた心を庇いながら、やっとのことでそう口にする。真っ直ぐスネイプを見据えるリリーの目には彼の苦手とする強い光が宿っていた。
薄暗く足場の悪い森の小道を石畳のようなスピードでスネイプが歩く。鳥の鳴き声も、羽ばたきも、小枝を踏み折る音も、彼には届かない。
森を抜け、校庭を歩き、樫の扉を開けて地下へと降りる。すれ違った生徒は彼に気づくなりみな道を譲った。故に、スネイプは私室のソファに沈み込むときになって初めてその足を止める。
校長室へは行かなかった。彼女にはああ言ったものの、それが無駄足となることは明らかだった。
ダンブルドアは以前『リリーに何か思うところがあるのなら、それはすべてわしの命で動いていることと考えよ』と言っていた。エバンズも『ダンブルドア校長もご承知です』と言った。ならばもうこれは自分が口を挟んだところでどうにもならない。ダンブルドアに窘められ、苦虫を噛み潰すだけだ。
結局わざわざ森へ足を運んだ目的も果たせず苦い思いだけをして帰ってきてしまった。スネイプは身体中の空気をため息として吐き出し、ぐったりとソファに背をつける。
彼女はまた、自分ではない側についた
何てことのない、過去を省みれば当たり前だとすら思える事柄が、痼となってスネイプの胸にこびりついていた。
← →