スネイプ教授に貰った安らぎの水薬は、飲まずとも効果をもたらした。ベッドサイドテーブルに置いた瓶を眺めるだけで良い夢を見れそうな気分になって、にっこり休める。元々不眠に悩まされていたわけではないから尚更だ。
寒さのピークが過ぎてもまだまだベッドから抜け出すには覚悟が必要。時計と睨み合いながらぼんやりとした頭が冴えるのを待って、二度寝したい欲求をやり過ごすとようやく身体を起した。時間をかけるのはここまでで、身支度には同年代の女性の平均ほどもかけていないと思う。
欠伸を噛み殺し寝室から出れば、テーブルに薔薇とカードがある。そこでやっと今日がバレンタインだったと思い出した。
午前中は呪文学と薬草学の授業サポートに呼ばれ、それが終わる頃には程よい空腹感に支配される。ムーディに会って食欲が消え去らないうちに食事を終えてしまいたかったが、生憎昼食には少し間があった。
コツリ、コツリ、と人の疎らな廊下を歩く。
多少の賑やかさはあれど、やはりロックハートの盛り上げには敵わないなと今年も感じてしまう。彼は今何をしているのだろう?そろそろサインを書けるようになっただろうか?
私は彼の杖を奪ったままだ。しかもそれは今シリウスが持っている。謝罪を兼ねて、いつか羽根ペンを手土産に彼を見舞いたい。私に一目惚れしていたと暴露した彼のことだ。面倒なことにはなるだろうが、それを差し引いても楽しめそうな気がする。無邪気で無垢な少年の彼になら、ファンだったと伝えるのも良い。きっとサインを山ほどくれるだろう。
その光景を想像してみた。人目を忍び、クスリと笑う。とても邪険にしてしまったが、嫌いではなかった。貰った孔雀の飾り羽根は今も部屋に飾ってある。
思いに耽り、背後からの足音に気付けなかった。いつかのように、ぐいっと腕を引かれ、否応なく振り向かされる。
「エバンズ先生!僕、あなた探していました!」
シュティールだった。誰かからの伝言で探していたわけではないのは明らかで、独特の熱を帯びるブルーに真っ直ぐ射抜かれる。
「ホグズミードの彼は……恋人ですか?」
しばらくは姿を見せなかった彼が近頃は挨拶に来るようになって、その度にモゴモゴともどかしく悩んでいたようだった。それが、これか。
午前の授業が終わり人通りもある廊下でする話ではない。興味なさげに通る生徒や角で囁きあう恋人たちも、何事かと耳を傾けているに違いない。私はシュティールを空き教室へ案内した。
扉近くを陣取って、腕を組む。威圧的な空気を出すリリーとは対照的に、シュティールは打ち拉がれ、既にリリーの答えを聞いたかのような絶望顔だった。
「往来のある場所であんなこと言い出すなんて、シュティールらしくないよ」
「僕、ずっと考えてました。先生のこと、諦めようって。でも、どうしても、出来なかった」
握った拳に力を込めて、シュティールが半歩前に踏み出す。
《呪い》にどこまでの力があるかは分からない。でも彼の執着に少なからず加担しているのは確実だ。そして私はそんな彼に甘えてしまい、己の心の安寧のため利用していた。彼のためを思うのならば、絆される前に一切の関わりを絶つべきだった。代表団でお客様だから、既に断ってはいるからと言い訳をして、ズルズル関わり続けていた。
言わば彼は被害者で、悪いのは私
「廊下での質問だけど、あなたの言う彼が私にとってどんな人物であろうと、あなたへの返事が変わるわけじゃない」
「僕は、先生がずっと好き。それでも良い?」
「それは……」
ふっと顔を上げたシュティールは懇願するように眉を潜める。握った拳を緩め、私の右手の甲に触れた。言い澱む私を窺いながら、彼の両手が優しく私の手を包む。彼の手はしっとりと冷たく、僅かに震えていた。
振りほどけるはずがない。それが彼のためにならないのだと分かっても、彼に自分を重ねてしまい、グワングワンと揺さぶられる。でも、このままではいけない。私はもっと、彼に真摯になるべきなのだ。
「シュティール、私はあなたに言わなければ……謝らなければならないことがあるんだ」
私は初めて《呪い》のことを他人に打ち明けた。そうなった経緯は省いたが、効果に差はあれど他者を惹き付けてしまうこと、シュティールの心にも作用してしまっているであろうことを告げる。
彼は目を見開いて、パクパクと言葉を忘れたように口だけを動かしていた。そしてたっぷり間をおいて、喉の奥に燻った言葉を捻り出す。
「僕を諦めさせたくて言ってるわけじゃない、ですね?」
「聖マンゴ魔法疾患傷害病院に行けば記録があるよ」
信じがたいと揺れる瞳。シュティールは両手で包み込んだ空間を狭め、私の手の僅かな機敏から真偽を読み取ろうとしているかのようだった。
「ごめんなさい。もっと早く打ち明けるべきだった。あなたをこんなにも振り回さずに済んだのに、私――」
「先生」
繋がれた手を引かれ、後悔の渦巻く思考を止められる。
「謝るのは僕の方。想像していたよりずっと、僕は負担になってた。ごめんなさい。でもね、先生。誰もが先生を好きになるわけじゃないなら、やっぱり僕が先生を好きになったのは、僕の気持ち」
「ごめんなさい」
負担なんてそんなこと、あるはずがない。私は利用していたのだから。首は横に振りつつも、洩れるのは謝罪ばかりだった。
「僕が何を言っても、先生は魔法のせいにしてしまう。でも僕は本当に、エバンズ先生に会えて良かったと思う。先生はとても楽しい時間をくれた」
彼の一言一言が、丁寧に紡がれるすべてが私に溶けていく。大きく息をして奥歯を噛みしめても、溶けたものがトロリと流れ、頬を伝った。
私に泣く権利なんてないのに
「先生はとても魅力的。それはその魔法のせいだけじゃない。ね?泣かないで先生……僕は抱きしめちゃ駄目なんだよ……」
片手は繋いだまま、離したもう一方でシュティールが掬うように私の頬をくすぐった。
バタン
突如、教室の扉が開く。長年使われていないこの部屋に用がある者などいるはずがない。しかし長年使い込んだ黒衣を纏った人物が、目を見開きそこに立っていた。
扉の側で話し込んでいたため至近距離でお互いと顔を合わせる。全員の時間が止まったようだった。
「スネイプ教授……」
リリーがポツリと呼ぶと、途端にスネイプの眉間に力が入る。彼の凍てついた暗い視線がリリーの頬を滑り、繋がれた手へと落ちた。指はわなわなと動き、掻き毟りたい衝動を抑えているようだった。
「良識に欠ける行動だとは思わないか?」
言葉は私に向けられていた。反論のしようがない。
「僕のせいです!僕が――」
「エバンズ、ホグワーツの品性を疑われるような行動は慎みたまえ。また噂の的にでもなりたいのかね?」
スネイプはシュティールの存在をまるきり無視して、視界にも入っていないかのように振る舞った。自分の言葉を聞く気が全くないのだと分かると、シュティールは眉間と共に繋いだ手にも力を入れる。
リーマスとのことに引き続きこんなところまで。天文台塔から突き落とされたように急降下していく気持ちは、シュティールからぎゅっと握る痛みが伝わり救われる。
「あと少しだけ、お時間をください。彼とはきちんと話を終える必要があります」
ハッとシュティールがこちらを見たのが分かる。けれど私はスネイプ教授から視線を逸らさず、強い意思をもって見つめ返した。
「――っ、警告はした。あとは勝手にしろ」
開いたままだった扉は、開け放たれたときよりも大きな音を立て、閉まった。衝撃の余韻が収まって、おずおずとシュティールが切り出す。
「あの人、エバンズ先生と初めて話したときも、トーナメントのときも来た。とても怖い顔。あの人も、先生のこと……?」
そうだったら良いのに
リリーは微笑みとも苦笑とも取れない曖昧な笑みで返す。シュティールはそれを細めた目で見つめた。
「彼は私を見てないよ。とても良くしてくださるから全く影響がないとは言えないけど、あなたの好意とは別物」
私とエバンズは天と地ほども違う。
明るくていつも周りを照らしていたエバンズ。美しく、魔女としても一目置かれていた。そして自らを犠牲に子供を守った気高さ。何もかもが違う。
「でも先生は彼のことが――」
シュティールはその先を言わなかった。しかし声には確信が含まれている。そしてそれは、正しい。
リリーはひくりと頬に言い当てられた動揺を表して、曖昧な表情を崩さぬように貼り付けた。
シュティールはまたしばらく距離をおくことにすると言った。私がスネイプ教授を追うのを見ているのが辛いからだと彼は苦笑したが、きっと私のためだろう。慰められ、気を使わせたなどとつくづく情けない。
午後の授業を終えて夕食までの空き時間、私はのんびりと寛ぐ生徒たちを横目に地下へと向かっていた。ヒヤリと下がる温度にマントを引き寄せる。
私はシュティールとの話を優先してスネイプ教授の忠告を断ち切った。明日になればわだかまりは消えてなくなるとしても、放置したままなんてできない。したくもない。
謝罪と、お礼と、報告。シュティールとは一応、片は付いたし、もう品性を疑われるようなことはしない。
コンコンといつもの調子で扉を叩く。名乗ろうと肺を膨らませ、音に変えずに吐き出した。
名乗って開けてもらえなかったら?
顔も見たくないと、帰れと言われてしまったら?
扉を叩き閉めたときの彼の嫌悪に満ちた顔が過った。
「誰だ」と帰ってきた声に無言を貫いて、また軽くコンコンと扉を叩く。もう声は返ってこなかった。ここへ来て名乗らずにいる者などいるのだろうか。それはもう後ろめたい人物であると、私であると言っているようなもので、この静寂は拒否を示すのでは。
自分の短慮ぶりに辟易して、ノックした腕をだらりと下ろした。夕食時に彼の様子を窺ってから出直そう。くるり背を向け扉に別れを告げた。
スネイプはノックをして名乗らない相手にピンときた。そのまま様子を窺っていると、向こうもまた無反応を貫く。また居座る気ではと扉を開けば、何のことはない、彼女は去る途中だった。
「まだ居たのか」
遠ざかる背に紐でも付いていたのかと思うほど、喉からスルリと言葉が飛び出した。今にも消えようとした姿にかけるには不自然すぎるその言葉にも、彼女は弾かれたように反応する。
パタパタと駆け戻って心底安堵したような笑みで「はい」と返したその姿に、痺れるような快美を感じた。明日になれば元通り。水に流れた振りが罷り通るにも関わらず、彼女はやって来た。空虚な支配欲を擽りかねない行動に、はね除けられて感じたはずの憤りは霧散する。
そしてごく自然に、扉は大きく開かれた。
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