71 義務感と庇護欲


2ヶ月はあっという間に過ぎ去った。特筆すべきものが何もないと言うことが私にはとても嬉しかった。

相変わらずムーディの魔法の目は不気味に動き回っていたが個人的に声をかけられることはなく、授業にだって呼ばれずに済んでいる。安らぎの水薬を飲んだのもあの一度きり。

食は細くなったがやつれてはいない。寧ろドレスに見合う体型になれて好都合だった。マクゴナガル教授の厳しい目にも不健康だとは映っていないのだから、私はうまくやっている。


ボーバトンとダームストラング両校の代表団到着予定の掲示が出てからは、城中が浮かれっぱなしだった。そわそわと噂話に花を咲かせる生徒を横目に、私はフィルチさんと一緒になって城中の清掃に精を出した。

清掃、授業、雑務、尻尾爆発スクリュート観察日記の付き添い。やることが多いのは有り難い。手持ち無沙汰で時間を持て余してしまう方が恐かった。そんなときは決まって余計なことを考え始めてしまう。




大広間を歓迎の色で染め上げたあと、私は地下へと転がり込んだ。


「これが言っていた論文だ」


パサリと紙束をしならせスネイプがリリーへと手渡す。


「いつもありがとうございます」

「構わん。我輩の名で取り寄せた方が早い」


恩を押し売る様子もなく、興味なさげにスネイプは手元の羊皮紙へと意識を戻した。


「まだ何か?」


目的の論文を受け取りこなすべき仕事もない地下で、紙束を抱えたまま佇むリリーに怪訝な目が向けられる。


「いえ、何も。失礼しました」


ぎゅっと寄せられた眉間に見送られ、リリーは地下を後にする。


スネイプ教授と私との関係も、特筆すべきものはない。何も変わらない。少なくとも表面上は。

与えられる仕事も例年通りだし、こうして業務外の手助けもしてくれる。差し入れを持ち込めば一緒に紅茶だって飲む。

しかしどこか壁が増えたような、分厚くなったように感じることが増えた。今までが奇跡だったのだと言われればそうに違いないが、近づいた距離感にすっかり慣れてしまった心は物足りないと貪欲に叫ぶ。

「私、何かしましたか?」なんて突っ込んで行ける勇気があれば苦労しないのに。一晩経てばなかったことにしてもらえる環境に甘えきってしまっていた。

或いはただの自意識過剰で、私には関係のないことがスネイプ教授の壁に影響を与えているのかもしれない。

例えば、ムーディ。正しくはクラウチJr.なのだが、それはスネイプ教授の知る由のないことだ。《本》から推測するに、たとえ左腕に印を持つ者でも打ち明けられてはいないはず。例のあの人の元へ馳せ参じるその日まで、死喰い人から彼への信頼は極めて薄いだろう。

正体はさておき、ムーディとスネイプ教授の間にも軋轢は存在する。元闇祓いと元死喰い人。溝の深さは想像に難くない。

彼は今、全方位に神経を尖らせピリピリしているのかも。2ヶ月かかってようやく思考の終着を捉えた。

自分が安心できる場所だからと勝手に押しかけて甘えていた。まただ。これだから私は成長しない、強くなれないのだ。


ため息をついて、足元を追っていた目線を玄関ホールへと向ける。シンと静まり返った場所でたった一人、最も会いたくない男が佇んでいた。


「ムーディ教授、どうかされましたか?」

「いや。おまえこそどうした?スネイプにいびられでもしたか?え?」


コツッコツッと右足が地面に触れる度に音を鳴らす。

考え事をしていたとはいえ、この独特の音に気付かなかったとは。魔法の目がどこまで見透せるものなのか分かり得ないが、私が来ることくらいは分かっていただろう。

待ち伏せられていたのかもしれないと思うと、心臓が早鐘のように脈打った。


「いいえ、まさか」


にこりと微笑んで、右手の紙束を差し出す。


「お願いしていた論文を受け取りに伺っただけです」

「ほう、論文。おまえのことは誰でも好きに使って良いと聞いているぞ。そうだな?」


受け取りはしないで匂いまでも嗅ぎとるつもりなのか、ズイッと黒目が文字を追う。義眼はしばらく白目を見せていたが、ギュルリと私を捉えた後、私の背後へとそのブルーを流した。


「はい。都合と内容次第にはなりますが、何かご用事でしたか?」

「いや、確認しただけだ。今はな。そのうち頼むことがあるかもしれん」


ないことを祈る。が、そう正直にも言えないため一層口角を上げて頷いた。


「エバンズ」


背後から私に安らぎをもたらす声が聞こえた。魔法の目が追っていたのは彼だったのかと納得して振り返る。


「スネイプ教授、何か?」


地下から這い上がるようにぬっと出てきた彼は眉をピクリと僅かに上下させ、私とムーディを交互に見やる。


「明日の授業について漏れがあった。来い」


一方的に伝えて、スネイプは踵を返した。リリーはどうしたものかとムーディを窺い見たが、彼の傷だらけの顔からは何も読み取れない。


「あの、ムーディ教授――」

「やつにいびられたらわしに言え」


そう残して去っていった彼の意図が掴めなくて、ポカンと間抜けな顔で見送った。声に情などこれっぽっちも含まれてはいなかったから、スネイプ教授を攻撃する理由を探しているのかもしれない。

ぎゅっと口を固く結んで、余計なことは言うまいと身を固くした。


「リリー・エバンズです」


ノックと共に名乗れば、少し前までいた部屋へと通される。ため息になり損なったような息が目の前の男から漏れた。


「あの、授業の漏れと言うのは?」


事前に与えられていた内容を思い返しながらリリーが問う。


「座れ」


スネイプがくいっと顎を動かしソファを指した。用件があるときは単刀直入に本題から入る彼にしては珍しい指示だった。事務机を挟んで座った彼と立ったリリーはよくある構図だが、仕事でソファに向かい合うのはそうそうない。


「何か、お話があるのですね?」


リリーはムーディと話す時とはまた違う緊張に暴れる心臓を必死に押さえつけ、むっすりと黙ったままのスネイプを見つめる。


「紅茶は?」


やっと開かれた口も本題とは程遠い言葉を紡ぐ。リリーが戸惑いながらも首を縦に振ると、スネイプは杖を出さずに席を立った。まるでリリーの前を避け、なるべく準備に手間をかけようとしているようで、心臓の落ち着きの代わりに眉間に渓谷が築かれる。


心当たりはないような、ありすぎて分からないような


どう対応すべきか思案していると、とうとう紅茶を淹れ終えてしまったスネイプ教授が(そう表現するに相応しい雰囲気を纏い)戻ってきた。

礼を言って目の前に置かれたカップを摘み上げると、顔を覗かせたのはいつもの白百合。あんなに胸を痛めたこの花が、異様な気まずさの漂う空間で唯一変わらないものとして私を和ませてくれる日が来ようとは。


「美味しい……」


手間暇かけたからか茶葉が違うのか私には判別がつかないが、この張りつめた空気に合わない芳醇な味わいにポツリと本音が溢れる。突いて出てしまった言葉に反応はない。チラリと前を窺えば、満更でもない顔をカップで隠す彼がいた。


「君はムーディをどう思う?」


それは何の脈絡もなく切り出された。まるで紅茶に口を滑らせる煎じ薬でも入っていたようで、驚きと疑問と不安が胸中で混ざり合う。


「苦手なのか?」


彼は『目に余る行動さえしなければ口を出すつもりはない』と言っていた。ならば目に余るほど私はムーディを避けてしまっていたということで、それがムーディ自身に伝わらぬはずがない。


だから彼は玄関ホールで待ち伏せていた?

私の様子を探るために?


見る間にリリーの顔色が青く変わる。ふらふらと視線を迷わせティーカップから遠ざけた手を強く握る様は、質問にハッキリとした肯定を示していた。ただ苦手なだけだと言うには無理のある過剰な反応だった。


「エバンズ、何を考えている?」

「……何も」


余裕なく殻に閉じ籠ろうとする彼女の目の前でスネイプが指を鳴らした。跳ねた肩は何も考えていないと言うには信憑性が欠ける。それでも尚、彼女は何でもないのだと言い張って、語ろうとはしない。ざわざわと胸の奥で何かが燻る。


私に信用がないために


そんなこと今更であるし、慣れている。だというのに、何故か彼女には手を伸ばしてしまう。私は今まで他者に必要以上に近付かず、僅かばかりの信頼にすら嫌疑で返してきた。距離を置き、壁を築き、関わりを表面的なもので留めておくのだ。

そうしてきたものが今、脆くも崩れ去った。

否、私が打ち崩した。

思えば初めから、彼女に対しては軟弱な薄壁一枚しかなかった。私が壁だと思い込み信じてきたものはただ彼女の義理立てにより成り立っていたにすぎず、その壁とも呼べないものに、彼女はいつしかドアを取り付けていた。

そして彼女らしい律儀さで、毎度ノックの音を響かせる。まるで地下の私室へ来たときのように。扉を開けるのは、いつも私からだった。

日々侵食されていく領域に危機感を覚え、壁を築き直したのは2ヶ月前のこと。たった2ヶ月。もったのはそれだけだ。


彼女は青白い顔のまま熱心に一点を見つめていた。そこには何も存在しない。しかし立ち去る気配を見せない彼女に安心して、私は再びカップを傾ける。

彼女の目には怯えがありありと滲み出ていた。きっと今なら、目を合わせさえすれば、彼女が抱えるものを読み取るなど容易いだろう。

欲したものが目の前にある。しかし私はそれをする気にはなれなかった。


それはもう、私の欲するものではなくなっていた


私は再度彼女を窺った。その目はかつて見た強さを失い、2年前、私に心を伏せ真っ直ぐに見返してきた人物とは別人のようだった。私がいくら観察しようと視線は交わらない。

マクゴナガルはエバンズが『弱みを見せない』と言っていたが、私は何度かそんな彼女を見たことがある。彼女の家で、職員室で、ここで。弱みに限らず色んな表情を見た。それは信頼から来るものではなかったわけだが。


彼女は巧妙にムーディを避けていた。私がそれに気づいたのは、私もまた、そうだったから。私のような染みがあるなら兎も角、彼女の左腕は象牙のようで、ダンブルドアのお墨付きまである。避ける理由などないはずだ。

確かに彼は親しみやすい人柄ではないだろう。だがそれは私にも言えることであって、彼女はそんなことお構いなしに扉をノックする。

理由はどうあれ、問題は彼女が痩せつつあることだった。クリスマスへ向け意味のないダイエットをしているのかと思えば、気まぐれにここへ茶菓子を持ち込む。

起因がムーディであることにはすぐに察しがついた。だとすれば夏までこの状態が続くことになる。気づいているのかいないのか、マクゴナガルは何も言っていないようだった。

何故私が自立した人間を気にかけなければならないのか。ため息をつきたくなって、微動だにしないエバンズの様子に思い止まる。そして彼女を自分に押し付けるような老魔女と老魔法使いの言葉を反芻した。

これは、この奥で燻り続けているものは、こんな状況を作り出してしまったのは、言葉巧みな二人の誘導による義務感と、何故か芽生えてしまったらしい少しの庇護欲に違いない。

そう強引に結論付けてしまえば、もやもやと釈然としないほの暗さが僅かばかりましになったような気がした。







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