68 分不相応


波は衝動的なもので、あれ以降繰り返すことはなかった。つまりは完全に回復している。けれど相変わらず気持ちは沈んだままで、ストレスが挿げ替わっただけな気もする。

目の前にゴブレットを据えてウンウンとリリーが呻吟する。回収しようとするドビーの手を遮って自分が返すと言い張ったことに後悔していた。

スネイプ教授が自らの関与を伏せてドビーに薬を託したと言うことは、この件に関して言及するつもりがないということだろう。私さえ素知らぬ振りをすれば、常々してきたように今朝を忘れて振る舞える。

でも、それでいいのだろうか?わざわざ調合してもらったというのにお礼もしないでいつも通りとは。

スネイプ教授に甘えてそっとこの件に蓋をすべきだという心に、良識が反対を唱えた。




後ろ手にゴブレットを持ち、コンコンと地下の一室をノックする。研究室か私室かを悩んで、研究室を選んだ。私の勘は当たっていた。


「何か用か?」

「え、あ、今、大丈夫でしたか?」


戸惑ったのは言葉を見失ったからではなくて、扉から顔を出したスネイプ教授の鼻先に煤を見つけたから。もしかしてすごく悪いタイミングでノックして、この煤の原因になってしまったのではという考えが、一瞬で頭を駆けた。


「問題ない」


ムスッと不機嫌さを全面に押し出して、それでも教授は扉を大きく開けた。部屋へ一歩踏み出して、あまりの悪臭に身を反らす。ぶわっと私を追うように纏わり付く臭いが鼻と喉を刺激する。

この臭いは消してしまって良いものなのか。リリーが杖を出すのを躊躇っていると、気だるげにスネイプが杖を振った。そして感覚を麻痺させていた自身の鉤鼻にもトンと触れる。

綺麗さっぱり引いた臭いに安心してリリーは中に進み入る。テーブルにはホグズミードの隠れた薬問屋がお似合いのグロテスクでヌラヌラとした広口瓶が何本も並べられ、臭いの元凶とおぼしき大鍋を取り囲んでいた。


「あ、そうだ。鼻に煤が付いてますよ」


トントンと自分の鼻を指差してリリーが教える。ここだと指した場所を的確に捉えてスネイプが袖で拭うと、薄く鼻全体に煤が広がった。まるで子供のお遊びだと、リリーは笑いそうになるのをぐっと堪える。


「任せていただけますか?」


杖を取り出しリリーが問うと、渋々といった様子でスネイプが縦に首を振った。杖を向けても無防備に受け入れてもらえたからには、多少の信用はあるのだろう。リリーは口元に安堵の笑みを浮かべた。


「テルジオ(拭え)」


綺麗になった鼻を見て、リリーが手柄顔で杖をしまう。スネイプがもごもごと口を動かしたがリリーには聞き取れなかった。


「これを返しに伺いました」


スネイプの様子を気にすることなくリリーが差し出したのは例のゴブレットだった。スネイプはしらばっくれようか悩んで、確信めいたリリーの目に無意味さを悟る。


「飲んだのか?」


ゴブレットを受け取って、空を確かめたスネイプが言う。言外に「飲む必要があったのか」と問えば、リリーはコクりと頷いた。


「ありがとうございました」


リリーが深々と頭を下げる。


「あと、ご迷惑をお掛けしました」


同じ姿勢のままリリーが続けた。


「私は君が目に余る行動さえしなければ、口を出すつもりはない。が、ただ一つ、助言をしておいてやろう」


ピクリと震えたリリーの肩を見下ろして、スネイプが言葉を区切った。


「分不相応なものは抱えるな」


『分不相応』リリーは心の中でスネイプの言葉を繰り返した。


そんなこと、始める前から分かっている


ずっと必死にやって来た。私には荷が重すぎたとしても、分けあえる人などいないのだ。それは目の前の男も同じなはずで、でも彼にはすべてをやり遂げる心と能力がある。


私が強くなるしかない


目を覚まして感じた不甲斐なさが増していく。

私にはもう道を選んでいる余裕はない。分不相応な荷を抱えたままでもこの道を走り続けるしかないのだ。例え血豆が潰れようと、動く間は足を止めてはいけない。

ぐっと両手を握りしめ、襲い来る得体の知れない何かをやり過ごした。安らぎの水薬はどのくらい効果が続くんだっけ、なんてどうでも良いことに思いを馳せても、顔を上げることなど到底できなかった。


「座れ」


スネイプがリリーの背後に丸椅子を呼び寄せて尊大に言う。しかしリリーはふるふると首を横に振りその申し出を断った。

腰を据えて話すことなど何もない。涙腺が落ち着けば今すぐにでもここを離れたかった。頭の中はぐちゃぐちゃで、教授と話せばボロを出してしまう。縋ってすべて打ち明けてしまいたい気になってしまう。


そんなの、ダメだ


「エバンズ」


ぎゅっと心臓を鷲掴む柔らかな声に思わず顔を上げそうになった。一体どんな表情をしてこんな風に私を呼んでいるんだろう。これ以上惑わせるのは止めてほしい。


「以前君は私の吐露を黙って聞いていたことがあっただろう。もし、君が望むのなら、同じことを私も――」


言い切る前に、リリーが再び首を横に振った。ブンブンと勢いのあるそれは、明確な拒否。スネイプは口を噤まざるを得なかった。


今日はやけに教授が優しい。ズブズブと甘えてしまえたらどんなに良いか。

ダメだ、やっぱりここにはいられない。例え涙がこぼれても、出ていこう。お礼は言ったし目的は果たした。こんなことなら初めから来なければ良かった……。

ふうっと息を吐いてゆっくりと身体を起こす。けれど視線は教授の靴先に向けたまま。


「失礼しました」


声は震えなかった。努めて冷静に落ち着いた振りをして、クルリと扉へ向き直る。そしてそのまま早足で立ち去った。






スネイプは研究室に一人残され、片手を扉へ伸ばしたまま固まっていた。

掴み損ねた彼女の影がまだそこにあるような気がしてぐっと拳を握る。当然ながら、手に触れるものは虚空のみ。


掴んで、それで?そのあとは?


自分はどうするつもりだったのか。握りしめたままの手を見つめ、ゆっくりと解く。零れ落ちるものなど何もないその手から、確かに何かがするりと抜けた。

私はいつも言葉を間違える。それでも彼女は私の意図を上手く汲み取ってくれていた。だが今回は違う。


私が、私が言いたかったのは――


彼女が拒否した丸椅子に腰掛けて、感触を確かめるように掴み損ねた手を握ったり開いたりと繰り返した。

申し出を拒否した彼女が甦る。決してこちらを見ることなく、大きく首を振る彼女。不意にドクンと脈打ち慌てて拳を強く握りしめた。痛いのは心ではなく手のひらなのだと。

しかし手のひらに食い込ませた爪を嘲笑って胸の痛みが強まった。


「エクスペクト・パトローナム(守護霊よ来たれ)」


痛みを幸福で塗り替えて、銀白色に輝く光を喚ぶ。現れた牝鹿はすべてを見透かすような目をしていた。彼女が寄り添うように近付いて、そっと拳へ頭を寄せる。


「リリー、教えてくれ。私はどうなってる?醜くもまだ生を貪っているのは君のため……そうだろう?」







Main



「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -