クィディッチ・ワールドカップ翌日の日刊予言者新聞を私はホグワーツの私室で受け取った。トーストをかじりながらふくろうの差し出すポーチに5クヌート入れてやると、私の皿からベーコンをくすねて斑模様を大きく広げる。
『クィディッチ・ワールドカップでの恐怖!マグル一名死亡か?!』
丸まった新聞を広げて真っ先に飛び込んできた一面。
「マグルが、死亡……?」
含んだままのトーストの咀嚼も忘れ、リリーは舐めるように新聞へ目を通す。
魔法省の失態……闇の魔法使い野放し……マグル一家見世物に……うち一名死亡の疑惑……闇の印……
『死亡』
その単語だけがやけに目についた。
《本》では怪我人もなく、況してやマグルの死亡などなかったはずだ。ならば、理由は一つ。
私の影響
しかし――
内側からズズズと何かが競り上がる。リリーは迫り来る高波に耐えきれず、すんでのところでゴミ箱へと駆け寄った。
「……っ、う……はぁ……」
「リリー・エバンズ?」
リリーが胃を空にして顔を上げると、寝室を掃除していたはずのドビーの大きな目玉がすぐ側にあった。リリーは言葉を返すのも億劫になり、心配そうに覗き込む彼に「大丈夫だ」と片手を上げてローブの裾で口元を拭う。
ドビーはオロオロと体を捻ったり手をバタつかせたりしたあと、水の入ったゴブレットを差し出した。ぎこちなく口角を歪めて、リリーはそれを有り難く受けとる。
ゴクリ。冷たい水が焼けつく喉を洗い流していく。朝食を出しきったというのに未だキューッと痙攣を繰り返す胃はシクシクと痛み、第二波をリリーにもたらした。
もう何も出すものがない。そう思ってからも抱えたゴミ箱はなかなか手放せなかった。
「リリー・エバンズは医務室へ行かなければなりません!」
ドビーが指を鳴らすとふわりとリリーが浮き上がる。綿に包まれたような心地の良い浮遊感。
あぁ、昨夜玩ばれたマグルたちはとてもこんな気分ではなかっただろう……
リリーには医務室へ行く気がなかった。
行ったところでマダム・ポンフリーはまだ休暇中。それにダンブルドア校長以外に知られたくもない。落ち着いたら報告へ行かなければ。
「ドビー」
掠れた声に咳き込んで、それだけを吐き出せた。くりくりの目と合って、リリーはごねる子供のように首を横に振る。
ドビーが彼女と扉を交互に見て再び指を鳴らした。ソファに寝かせるように下ろされて、リリーはゆったりとその白藍に身を預ける。
あれだけ衝動的な吐き気に見舞われて、刺す痛みをやり過ごし、人一人の命を奪いながら、私の目は乾いたままだった。
悪化に巻き込まれたのがポッターでなくて良かった
純血よりも、マグルよりも、私にとって重要なのは選ばれし男の子。
名前も知らないマグルに死をもたらし、その家族が嘆き絶望する様子を想像した。しかしそれ以上に、予想外の悪化の中にあってポッターが無事であったことに対する安堵が大きく占めていた。
私はそういう人間なのだ
何て気持ちの悪い……
自分の軽はずみな行動でまた人命に影響を与えておきながら流す涙もない。競り上がってきたのは醜い自分の人間性を突き付けられたからに他ならなかった。
リリーは大きく息をして、目元に腕を被せる。杖を出す気力もないが、光を避けるにはこれで十分だった。簡易的な闇の中で何度も澱んだ空気を吐き出していると、いつの間にかドビーの気配は消えていた。
言わないだけで一人になりたい気分ではあった。度々私と感覚のズレを見せる彼だが、幸いにも今回は一致させた。
誰に気兼ねすることもなく、深呼吸を繰り返して眠りを呼ぶ。たとえ一時でも痛みを忘れることができるなら、今はそれが逃げでも構わなかった。
今だけは……
何の前触れもなく、屋敷しもべ妖精が真横に現れた。緑の目玉でこちらを見上げモジモジと体をくねらせる姿が面妖で、私は眉間に力を入れる。
「セブルス・スネイプ、ドビーはあなたにお願いしたいことがあるのです」
「エバンズに言えば良いだろう」
指先を弄り続ける小柄な存在を邪険にして、大鍋の変化を逐一書き留める。
一昨日閃いた調合の些細な変化を試したくて今日は朝から研究室につめていた。昨日は下準備に1日費やしてしまったため、やっとこぎ着けた実証に気を逸らせていたところだ。
誰にも邪魔をされたくない。だというのに、去る気配のない存在は元より近い距離を更に詰め寄ってくる。
「そのリリー・エバンズを助けてほしいのです」
告げられた「お願い」に私は初めて手を止めた。すべて読み取ってやろうとグリグリと穴が開くほどに自分の映った目玉を睨み付ける。
「エバンズに何があった?」
屋敷しもべ妖精の精神構造は人間のそれとは異なるらしく、複雑怪奇な様相を呈していた。散り散りになったアルバムを集め回るような、ゴミ箱を引っ掻き回しているような不快感。ちらつく元主、ルシウス・マルフォイの蔑む目が更にそれを煽った。
「リリー・エバンズは苦しんでいます」
モジモジと言葉を探す間を取りながらドビーが説明を始めた。
「ドビーには分かりません。リリー・エバンズは医務室へ行くことを拒否しました」
「マダム・ポンフリーは休暇中だ。医務室へ行っても意味はないだろう。私が診る」
ドビーの記憶に部屋で蹲り嘔吐するリリーを垣間見て、スネイプは部屋を出た。平素より大きな一歩の回転を早め、ズンズンと階段を、廊下を、リリーの私室へと向かって進み行く。
目的の扉が見えたとき、屋敷しもべ妖精の特権を駆使して先に移動していたドビーが中から顔を出した。そしてスネイプを見つけるや潜めきれていない彼なりの小声で「シー!シー!」と音を出す。
「リリー・エバンズは寝ています!」
スネイプがドビーの目の前に立つ。中を窺えば、ドビーは扉を大きく開いて道を開けた。
部屋の主が寝ている間に忍び入る。そのことに躊躇ったのは一瞬で、これは治療の一貫であり中から招かれたことに変わりはないと思い込むことにした。
初めて見る彼女の部屋は随分と質素で、図書室のような壁一面の本が人となりを表していた。年に一度帰る程度のスヒナーズ・エンドもこのような様相ではあるが、ここは比べ物にならないくらい明るく清潔で並んだ本も些か賑やかさがある。
入り口に足を向けてソファに横たわる彼女の目元は腕で隠されていた。ゆったりと上下する胸元は確かに寝ているときのものだ。落ち着いた息を確認し、隣のテーブルへ意識を移す。
少しかじられただけのトースト、投げ出されてクシャリと折れた新聞。一面の闇の印が左腕をざわざわと掻き立てる。断ち切るように視線を外した先、彼女が蹲っていた場所にはゴミ箱があった。
「エバネスコ(消えよ)」
トーストに異常はなく、原因の解明には至らなかった。彼女自身の身体にあるのか、原因は身体ではないのか。それは彼女に聞かなければ分からない。
しかし彼女は昨夜この場に居合わせた
スネイプの闇色の目が再び新聞の一面を捉えていた。
念のため安らぎの水薬を煎じてドビーに渡しておけば良いだろう。そう判断して部屋を見回すが、ここに招いた張本人の姿はなかった。スネイプが舌打ちをする。
「……ん……ぃ……」
起きたのかと思った。寝言というにはくぐもって呻く声。彼女は魘されていた。顔色は悪くなる一方で、青白い中に引かれた紫の唇からはボソボソと続けざまに何かが洩れる。
スネイプはリリーの側に跪き、その口元へ耳を寄せた。
「……ごめ、なさ……ごめんなさい……」
繰り返されていたのは謝罪だった。何度言葉にしても許しは得られないようで、ただひたすら同じ言葉を繰り返す。
『彼女はきみと同じじゃ』
ダンブルドアの声が聞こえたような気がした。
彼女は私と同じ
そう認識すると、途端に彼女に自分が重なって見える。何度も何度も謝罪して、それでも許されることのなかった過ち。私の過去は別け隔てられたまま、永遠に途絶えてしまった。
リリー……
「ポッター……」
ドキリと心臓が大きく跳ねた。あまりにタイミングが良すぎて心を覗かれたのではと思うほどだった。彼女がポッターと呼ぶのはリリーの息子、ハリー・ポッターだ。
彼女が許しを乞うのはあの子なのか?
スネイプは二人の様子を思い返してみるが、理由は皆目検討がつかなかった。そもそも仲違いしている風ではない。自分よりも遥かに教師と生徒という関係を良好に保ち続けているではないか。
モゾリとソファでリリーが身動ぐ。起きてしまったのかとスネイプはギョッとして、咄嗟に身を引いた。リリーの腕がバランスを崩し、顔からずり落ちる。スネイプはそれを反射的に受け止めた。
横向いたリリーの顔を滴が伝って落ちる。夢から戻る様子のないその姿にスネイプはホッと胸を撫で下ろした。
いや、悪夢なら、起こしてやるべきか
しかしそれは自分の役目ではない。未だ戻らない彼女贔屓の屋敷しもべ妖精を探し出して押し付けてやろう。
掴んだままの腕を彼女へ戻そうとして、はたと気付いた。彼女の細い指が自分の袖を握っているではないか。
なるべく衝撃を与えないようそろりそろりと腕を引く。彼女の指にあまり力は入っていないようで、慎重に動けば抜き取れそうだった。
「……ごめんなさい……」
尚も彼女は謝罪を口にする。夢の中でくらい、好きに変えればいいものを。しかし自分にも覚えのある夢に、嘲笑えはしなかった。
スネイプはおもむろに腰を下ろす。ひんやりとした石畳がスラックスを通して伝わった。
横を向けば苦しみの中でもがき続けるリリーがいる。スネイプは捕まれていない方の袖口でそっと涙を吸い取った。ついでにと眉間に現れた彼女に似つかわしくないシワを伸ばすように撫でる。
『彼女は何の覚悟もなく突然背負わされてしもうた。故に、脆い』
再びダンブルドアの言葉が脳裏を過る。
「君は一体何を抱えているんだ……」
夢を見ていた。悪い夢。つらくて気持ち悪くて悲しくて悔しくて。内容は覚えていないけど、そんな夢だったような気がする。
でもある瞬間、目線の少し上に光が現れて、私を包んでいった。恐れていたものはすべて吹き飛んで、残ったのは春の日だまりを彷彿とさせる柔らかな温もり。
目が覚めたとき、私は寝室のベッドにいた。首を捻れば30センチも離れていない距離に大きな緑のボールが二つ浮いている。
「リリー・エバンズは元気になりましたか?」
パチパチと消えたり現れたりするボールが不安げに揺れる。
「ありがとう、ドビー。もう平気。元気だよ」
微笑んでみせればピョコピョコと跳ねる彼に胸がほかほかと温かくなった。ズレ落ちそうな彼の三角帽子に手を伸ばす。
「…………?」
伸ばした手には三角帽子の代わりにゴブレットが握らされていた。
「リリー・エバンズはこれを飲まなければなりません!」
「これは?」
寝転んだまま渡されては香りを確かめることすら叶わない。
「安らぎの水薬です!」
「ドビーが、これを?」
手元に注意しながら身体を起こそうともたついていると、ドビーが背中をぐいっと押した。タプンと跳ねた煎じ薬は確かに安らぎの水薬のもので、立ち上る銀色の湯気もそれを示している。
「リリー・エバンズの代わりにドビーが医務室へ行ったのでございます!」
ドビーに安らぎの水薬を盗ませてしまうほど分かりやすく動揺していたとは情けない。隠し通すつもりなら、もっと強くならなければ。戦闘だけではなく心も強くあらねばならない。
「有り難くいただくよ」
ドビーは何度も頷いて、飲み込んでいく煎じ薬の行方を目で追っていた。
サイドテーブルにゴブレットを置いたとき、もやっと曖昧な違和感が芽生えた。取るに足りない些細なものだったが、首を傾げてハッと息を呑む。
医務室のゴブレットはよく見たし覚えているがこれは違う。でもこのゴブレットにも見覚えがある。この1年、何度も煎じ薬を注いできた。
「スネイプ教授のゴブレット……」
ビクリと震えたドビーの肩が、何よりも真実を物語っていた。
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