リーマスが帰る前日、ダンブルドア校長から手紙が来た。『スネイプ教授の都合がついたためもうしばらく家でゆっくりするように』と書かれた手紙に私は流石に遠慮しようと辞退の返事を出した。
しかし当日の朝になってダンブルドア校長から『地下から出ようとしない彼の休息のためでもある』という主旨の返事をもらった。校長の意図を測れやしないが、そんな風に書かれてしまっては首を縦に振るしかない。
「セブルスが私を見て何と言うか……。また巻き込んでしまったら悪いね」
「気にしないで。それにたぶん、去年ほどにはならないよ」
店舗代わりの一階で、私はリーマスと二人で来客を待つ。外では太陽が名残惜しくどっぷりと彼方へ沈み込もうとしていた。
「来る」
警告音と共にポツリとリリーが呟いた。ルーピンの提案でかけた侵入者避け呪文がきちんと機能していることに安心し、じっと扉に注視する。
やがてカランコロンとカウベルが奏で、軽やかさとは無縁ののっぺりとした黒衣が姿を現した。
「ご足労いただきありがとうございます、スネイプ教授」
「ダンブルドアの指示だ」
スネイプなりの気遣いに微笑んで、リリーは数歩歩み寄る。ずんずんと奥へ進むスネイプはカウンターの向こうに佇むひょろりと縦に長い男に気付くと足を止めた。
「丁度仕事を辞めた友人がいて、ダンブルドア校長が呼んでくださったんです」
リリーが二人に視線を走らせわざとらしい笑顔で説明する。
「ほう、そのご友人がどのような理由で退職なさったのかは存じ上げないが、想像するに……自業自得では?」
軽蔑した目をルーピンに送って、スネイプが笑顔を崩さないリリーに向く。
「そうだね、うん、自業自得だよ。私は帰るから、リリーをよろしくね、セブルス」
「待て、貴様は暇をもて余しているだろう。我輩が帰る」
言うなり踵を返したスネイプの腕をリリーがむんずと掴む。突き刺すような漆黒の目に見咎められるがリリーはくっきりと刻まれた彼の眉間のシワを数えるだけの余裕があった。
「私には時間があっても体調が安定しなくてね。こんな身体じゃなければよろこんで引き受けてるよ」
口を開いたのはルーピンだった。スネイプはバッと勢いよく腕を引きリリーの手をほどく。
しかしもう帰ろうとはしなかった。
「じゃあね、リリー。楽しかった」
「私も。来てくれてありがとう、リーマス」
当分会えないだろうからと別れのハグをして、カランコロンとルーピンが帰っていった。
次に彼に会う日があるならば、それは闇が色濃くなった時だろうか
心にズシンと重みがかかり、リリーは押し潰されてしまわないよう指先に力を入れた。踏ん張って、拳を握って、着実に近付いてくる未来へ思いを馳せる。
「残念だったな」
横顔に切なさを携えたまま扉を見つめて動かなくなったリリーに痺れを切らし、スネイプが嫌味たっぷりに口火を切った。そうしてようやくリリーの瞳にスネイプが映る。
「残念、ですか?」
見当がつかずリリーが首を傾けると、スネイプはそっぽを向いて階段へと歩き出した。家主を従える姿は奇妙だが、リリーは黙って彼に倣う。
「我輩よりルーピンに残ってほしかったのだろう?」
祖父の部屋を前にして、ポツリとスネイプ教授がそんなことを口にした。彼の言いたいことを咀嚼しきれず説明を求めるが、彼はいつもの不機嫌さで口角を下げるだけ。
勝手に階段は登っても部屋にまで入る気はないようで、私が左腕を伸ばして扉を開けた。スルリと大きな影が滑るように動いて部屋へと消える。
「恨むなら、不運な人狼とダンブルドアにするんだな」
最後にそう残して、スネイプは自分勝手に扉で会話に蓋をした。
リーマスが帰ってしまうのは残念だ。でもそれはここに来ている理由を考えれば仕方がない。体調を崩した彼に護衛は務まらないし、私はそれに不満を言うほど子供でもない。
それに、どちらかを選ばなければならないなら、私は――
口に出せない思いは丁寧に心へ詰め込んで、奥深くへと沈めきる。
スネイプ教授は嫌われ者役が身に染み付いてしまっている。だから自分よりもリーマスの方が、なんて言うのだ。そのリーマスは『私なんか』『私のような者が』と卑下するし、シリウスを絶対的な恒星だと思い込んでいる。
なんて不毛な卑屈の連鎖だろう。シリウス以降は続きそうにないのが救いだろうか。いや、過去に捨て去ったはずの場所に閉じ込められ続ければ、彼とて鈍くくすんでしまう。
少なくとも今日は開きそうにない蓋に別れを告げた。
たった木の板一枚挟んだ向こうにいるのに心はこんなにも遠い。多くの恋する人々が本の中で叫んでいた眷恋を身をもって知ることになるなんて。
それでも明日には元通り。いつしか作られた二人のルールが私にはただひとつの救いで希望だった。
翌日、私は一人で店番をしていた。梱包した本を掴んだワシミミズクを見送って、ふわりと杖を振る。
「エクスペクト・パトローナム(守護霊よ来たれ)」
スネイプ教授が側にいる幸せ。呼べばこちらを向いてくれて、私の言動に反応を返してくれて、ため息も、眉間のシワも、魔法薬に向かう姿も、緩んだ寝顔も、全てが愛おしい。
でも一番は、笑ってくれた顔。嫌味の込められていない溢れ落ちた表情。本当は笑われただけで、見たのは一瞬で、あれきり見ていないけれど、それが私の幸せな記憶。
しかし――
「またダメ……」
浮かんだ銀色がフッと消え、机に突っ伏す。意味もなくくるくると杖先を遊ばせてなかなか姿を現さない守護霊目掛けて宙を突く。
何かいたような気はする。淡い盾よりは幾分かマシ。それでも有体にはほど遠くて、ため息が止まらない。
吸魂鬼と戦う予定はない。ただこれからを考えて、連絡手段の確保は必須だ。いずれ再発足する「不死鳥の騎士団」に入らずとも使えるようにはなっておくべき。
よし、もう一度
「エクスペクト・パトローナム!」
するすると杖先から銀色が紡がれて、ふわりと宙に何かを形作る。
「鳥か?」
「ひゃっ!?」
突然背後に聞こえた低い声に私の肩は大袈裟なほど跳ねた。もちろん漂う銀色は宙に溶けてしまう。振り向けば輝きの欠片もない真っ黒な影がすぐ側にいて、宙を見ていた同じ真っ黒な目を私へ滑らせる。
「足音に気付かぬくらいに集中してあれとはな」
私にとっての幸せの象徴は本を片手に側を過ぎて棚へと消える。
「下手くそだって以前にもお伝えしたはずです」
声は醜く不貞腐れたものになった。
あなたは有体の守護霊が出せる?守護霊は何?どんな幸せを思い浮かべてる?彼は牝鹿の守護霊を出せるし、思い浮かべるのはエバンズに違いない。
浮かぶ無意味な質問を心の中で蹴りつけた。
「幸せって、何でしょうね」
代わりに飛び出したのはこれまた愚問で、どうせ鼻で嗤われて終わるに違いないと杖を弄った。
「幸せは――」
思いの外近くでスネイプ教授の声がした。手を止めて顔を上げると新たな本を抱えた彼が2メートル先に立っていた。
お互い顔を見合わせているのに視線が交わることはない。スネイプ教授は遠く遥か彼方の真っ白な世界に意識を向けていて、私だけがここにいる。
「他人に侵されず自分の内で見つかるものだ」
相変わらず彼は遠くにいて、漆黒に私は映らない。それでも言葉だけは私に向けられていて、その事実が私を甘く包む。
「殆んどが気付いていないだけで、幸せに縁のない者はそうそういない。……君はその稀有な人間ではないだろう」
笑うどころか彼なりの励ましとアドバイスを貰って、私はふにゃりと顔中の筋肉が仕事を放棄してしまった。
去り際に、スネイプ教授がチラリと私を見た。ずっとその姿を追っていた私の目とバッチリ合って、彼はほんの少しだけ、多くが見逃してしまうほど少しだけ口角を上げて、ふわりと笑った。
射貫かれるとは正にこのこと
その微笑みが彼の幸せによってもたらされたものだと頭で理解していても、じんと疼く幸福が消えることはなかった。
今なら守護霊の正体が分かりそうな気がする。そう思って杖を握り直した。
いざ、と胸一杯に幸せを満たしたとき、カタカタと音がして一羽の見知らぬふくろうが飛来した。幸福に待ったをかけるようなタイミング。不吉なものを感じて渋々手紙を受け取った。
「ルシウス・マルフォイ……」
スルリと伸びた高飛車な文字で記された差出人の名前は暗影を投げかける。ハグリッドは処分を免れバックビークが逃げた今、私に何の用があるのだろう。
開けた途端破裂するのではと警戒しながら、私は恐る恐る封蝋に手をかけた。
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