60 見送り


ルーピンの馬車が到着したと職員室に知らせが入った。リリーが立ち上がり、羊皮紙を抱え上げる。ホグズミード日の今日は城がひっそりとしていた。

リリーは玄関ホールの樫の扉を出て適当な場所に座り込む。待ち人はもちろん、ルーピンだった。


「リリー?」


ギギギと重苦しい音がして、中からルーピンが出てきた。別れを言った人物の姿に目を丸くして、すぐに何かあったのではと心配そうな表情に変わる。


「見送りはいらないだろうけど、渡すものができてね。これ、私が闇の魔術に対する防衛術を代理したときに出した課題」


リーマスは狼人間で、その彼が退職するときいて、かつての課題の提出が増えた。朝から私を探していた生徒はみんなこの課題を出しに来てくれていた。


「君が課題まで出していたとは知らなかったな。でも私にはもう――」

「自分が狼人間をどう思うか書いてもらったんだ。今日提出が相次いでね。ほとんどリーマスへの手紙だよ」


リリーが差し出すと、ルーピンは怖ず怖ずとそれらを受け取った。


「ハーマイオニーが教えてくれたよ。君の授業は狼人間にとても友好的だったと。だから私の正体を見抜いたあとも、自分は誰にも告げずにいたんだってね」

「彼女は優秀な魔女だね」


朝にも歩いた道を今度は門へ向かって歩き出す。


「ごめん」


不意に立ち止まったルーピンが深々と頭を下げた。空の水槽に入れられた羊皮紙がガサリと傾く。


「君が狼人間について授業をしたと聞いて、私は裏切られたと思った。何でもないような振りをして、どこかで君を信じられなくなっていた」

「今は?」

「君が何者だろうと、私は私の見てきた君を信じるよ」


ルーピンはリリーがシリウスを知っていたことを含めてそう言った。リリーは了承とお礼を兼ねて口角を上げる。そして深い呼吸を一つ。そうしなければ喜びと感謝が目から溢れてしまいそうだった。


「ねぇ、リーマス。たった1年だったけど、あなたはとっても良い先生だったよ」

「君がそう言うなら、そうなんだろう」


「ハリーも私を訪ねてくれたしね」と続けてルーピンがくしゃりと笑った。


ルーピンを乗せた馬車に手を振り見送る。カタコトと揺れながら次第に遠ざかり、やがて指先ほどにまで小さくなって、リリーがようやく踵を返す。

一人きりの帰り道は自然の音に溢れていた。立ち並ぶイチイが風を受けて枝葉をゆったりと動かす。姿の見えない鳥たちは四方で愛を語り囁きあっていた。




リリーの足は自然と地下に向く。扉を開けた男は拒むことなく引き入れた。彼のため息と眉間のシワにリリーがクスリと笑う。


「ルーピンさんが出発しました」

「当然だな」


鼻をならしてスネイプがソファにふんぞり返る。事務机にはやりかけた仕事が残っているがとうに集中力は切れていた。


「責めに来たのではないのか?」


リリーは穏やかに座ったままだった。訝しんだスネイプの眉が上がる。


「責めに?」

「違うなら、いい」


ふいっとスネイプの目線が逸らされた。

彼は責められたかったのだろうか。後悔などしていないだろうに。それにもっとピリピリとしていると思っていた。そう思いながらここに足を運んだ私もどうかしている。


「私も、仕方ないことだと思っています。薬を飲まずに飛び出した彼が悪い」


リリーが悲しげに顔を歪ませる。しかし目が合うとニコリと笑ってみせ、スネイプは面食らった。


「チョコレートは食べたのか?君も吸魂鬼の影響を受けただろう」


リリーの笑顔に一種の不気味さを感じ、スネイプが話題を変える。


「食べました。食べないとマダムがベッドから出してくれませんよ」


職務を全うせんと躍起になる校医のありがたい心配性を思い出してリリーがクスクスと笑った。笑顔は同じはずなのに、今の彼女の笑みにスネイプはふっと気が軽くなる。

だからだ。核心に向け、一歩足を踏み出した。


「何故湖にいた?」


リリーはどきりと心臓を大きく収縮させた。咄嗟に目を伏せ、スネイプの追及から逃れようと目まぐるしく頭を働かせる。


「それは――」


スネイプが杖を取り出し、リリーは一層鼓動を速める。早く何か言わなくては。そう思うのに、なかなか言葉が出てこない。


「教授の帰りを外で待っていたときに――」


とうとうスネイプが杖を振った。無言呪文では何が起こったのか判断できず、リリーは言葉を止めてそわそわと周囲を窺う。

やがてカチャリカチャリと陶器の擦れる音がして、振り向くと、真っ白なティーポットとティーカップが二つ迫ってきていた。ティーポットがテーブルに着地するとスネイプがひょいと持ち上げカップへと注ぐ。


「ただの世間話だ。気張らず話したまえ」


まさか紅茶を振る舞われるとは


初めてのことだった。

リリーは当惑しカップから立ち上る湯気を目で追った。上げた目線の先でスネイプが紅茶の香りに目を細める。真っ黒な出で立ちに真っ白なカップがちぐはぐで、でもとても様になっていた。

リリーはカップが傾き、男性特有の喉元がゆっくり上下するのを見つめる。


「飲まないのなら片付ける」


低く声にトゲを付けてスネイプが言った。


「いえ、いただきます!」


はっと我に返り、リリーが取っ手を摘まみ上げた。カップで隠されていたソーサーの中心には白百合が一輪。心を鞭打たれたような衝撃が走った。

耐えきれずに向かいのソーサーを覗く。彼がカップを置く直前、チラリと見えたのは赤い花弁。百合には見えなかった。

たまたま彼はひっそりと花の描かれたものを使っていて、たまたま百合がその中の一つにあった。それだけだ。そうに違いない。


そうであってほしい


リリーはぐいっとカップを呷る。一口で半分ほどを飲んで、目隠しするように百合にカップで蓋をした。淹れたての紅茶は呷るには早すぎて、火傷の痛みにじわりと視界が揺れる。


「一気に飲みすぎだ。もう少し味わおうという気はないのか?」


呆れてスネイプがため息になる寸前の息をつく。リリーが謝ると、スネイプは「それで?」と一気に話を引き戻した。


「湖の畔に三人が倒れているのに気付いて駆け寄った、それだけです。何も出来ませんでした」

「何も?」

「お恥ずかしい話、守護霊の呪文は下手くそなんです。私の弱い盾くらいじゃ歯が立ちませんでした」

「私が気づいたとき、吸魂鬼は持ち場に戻るところだった。君がやったのではないのか?」

「私にはそんな強い幸福、ありません」


自嘲してリリーが笑う。乾いた音が虚しく溢れて消えた。


「では一体誰が――」

「運が良かったんです」


スネイプが呟くように洩らしたのは質問ではなかったが、リリーはハッキリと言い切った。

運が良かったのは間違いない。あの時ポッターが間に合わなければ、私たちの魂が無事だったとは思えない。


「君はシリウス・ブラックの言い分を聞いたか?」


聞きたいことは他にもあると、スネイプが話を続ける。リリーが「はい」と答えると、彼は紅茶を一口含んだ。世間話に邪魔な感情をすべて飲み込んで、潤った喉を震わせる。


「どう思う?」


彼の得意とする質問だった。漠然と大きく投げ掛けて、相手の反応を観察する。戸惑うだけか、思い当たる節があるのか、それは何か。記憶を吸い上げようと目を合わせてくる。

でも今日は違った。彼に無理矢理ほじくり返してやろうという意図はないように思えた。リリーは不思議に頭を傾ける。

スネイプはそれを漠然とし過ぎる質問に対する困惑だと受け取った。癖になっている広い問い掛けを明確にしようと口を開く。


「君は信じようと思えるか?」

「はい」


即答だった。スネイプには考える間もない返答が考えるまでもないと言っているように聞こえて、顔をしかめる。


「第一に、彼の裁判はまともに執り行われた形跡がなく、公での弁明の機会は設けられませんでした」


スネイプが口を挟む様子がないと分かるとリリーが続けた。


「第二に、彼がホグワーツに忍び込んだ両日共に怪我人を出していません。そして何より、彼に一番復讐したいであろうポッターが彼を庇っています」

「それは錯乱の呪文で――」

「本当にそうお考えですか?」


スネイプの反論に被せてリリーが問い掛ける。彼はぐっと息を詰まらせ、苦虫を噛み潰したような顔をした。


「彼がいれば記憶を見るなり真実薬を飲ませるなり出来たのかもしれませんが、今となっては……」


リリーは見送ったときのシリウスの言葉やバックビークの羽ばたく風を思い出していた。そしてスネイプを見据えたまますっかり温くなった紅茶を飲む。

はぁ、と大きすぎるため息をスネイプが洩らした。眉間を執拗に押し解し震える息は、爆発しそうな感情を頑なに押さえ込もうとしているように見えた。


「スネイプ教授」


地の底から掬い上げるような甘い響きに、スネイプが顔を上げる。


「ぶつけてください。私は校長先生や魔法大臣ではありませんから、ただ、聞いています」


スネイプの瞳の奥には失意、苦悩、不満があった。躊躇うように揺れる漆黒に、リリーが微笑んで頷く。


リリーはただ黙って聞いていた。真っ直ぐにスネイプを見つめ、彼がテーブルを叩こうと、歯を剥き出し咆哮しようと、決して目を逸らさず、時には頷いたりして彼の吐露を手伝った。

ついにリリーへの想いは巧妙に隠されたままだった。


スネイプは吐き出しきるとソファへと深く沈み込む。ぐったりと背をつけ指先まで力を抜いた。

憤り満足するまでぶちまけることがこんなに体力を使うことだったとは。息を落ち着けながら目の前で微動だにしない彼女を窺う。

ずっと目があっていたはずなのに、初めて目があったような感覚に襲われた。途端に罪悪感のような気不味さと羞恥のような居た堪れなさが込み上げてきて、スネイプは片手で目元を覆う。

ごそりと彼女の身動ぐ音がした。


「部屋へ戻ります」

「あぁ」

「紅茶、ご馳走さまでした」

「あぁ」


スネイプはその姿勢のまま、そう返すので精一杯だった。リリーが出ていってからもしばらく動けずに、石像のように固まっていた。

残ったのは妙にスッキリとした心と疑問。後悔していないことが不思議で、それが疑問となって残り続ける。

魔法にかけられたようにするすると抑圧され溜め込んでいたものが飛び出していった。紅茶が自分の用意したものではなく、彼女が杖を握りしめていたなら、そう思っていたかもしれない。


しかしこの吐露は間違いなく自分の意思だった


スネイプは1時間ほどそうして終わりのない思考の螺旋に身を浸し、ようやく杖を振り上げる。並んだ二つのカップがなくなると、自室は何もなかったような表情をみせた。







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