59 退職


シリウスを見送ったあと、リリーはルーピンの待つ部屋へと戻った。ベッドに横たわる彼の呼吸は落ち着き、何か考え込むような目で遠くを見ている。

リリーが一歩踏み出したとき、ぎゅっと何かを踏みつけた。正体不明のそれは、目を凝らすと少し離れた位置に捲れたような布を付けている。


透明マントだ


沸き上がる感動を胸に秘め、リリーがそっと足元を掬い上げる。するりと持ち上がった見えない布。裏返せば内側は普通のマントのようだった。リリーはそれを丸めてポケットへと突っ込む。


「リーマス、歩けそう?」

「あぁ、戻らないと」


リリーが青白いルーピンの顔を覗き込むと、柔らかな睫毛に彩られた瞳が揺れた。 まだ覚束ない足取りの彼に肩を貸してやる。時刻は7時を回っていた。


「校門から帰ろうか。その方が肩も貸せるし歩きやすい」

「分かった」

「私と一緒に」


ルーピンが頷き、リリーが身体を捻る。無人になった屋敷にはバチッと特徴的な音だけが残された。




「ハリーたちは元気だよ。シリウスの無実とペティグリューの罪を訴えてた。でも――」

「仕方ない。すべて私のせいだ。この1年、こんなことが起こらないよう君たちは私に薬を作り続けてくれたのに。私は自分でそれを台無しにしてしまった」


いつもは馬車で通る道を二人で歩きながら帰った。離れてそびえるホグワーツ城は不届き者を罰しようと威厳たっぷりに睨み付けているような気がする。ざわざわと揺れる木々でさえ噂話に興じているようで、リリーは表情を曇らせた。


「君は私を責めるものだとばかり思ってた」

「リーマスが十分に悔いてないならそうする」

「いくら後悔しても、し足りないよ。……ごめん」


謝るのは私の方

ごめんなさい、リーマス


私はこうなることを知りながら、何もしてあげなかった。挙げ句、こうして肩を貸して罪悪感を紛らわしている。結局私は自分のためにしか動いていない。

暗い雰囲気のまま大きな樫の扉の前に着いた。


「私はこのまま医務室へ行くよ。色々あって入院中だったんだ」


リリーの告白にルーピンは「えっ!」と驚きを貼り付けたような顔をした。そして「まさか自分が」と青ざめていく。不安に歪めた表情でじろじろと怪我を探し視線を巡らせた。


「大丈夫、無傷だよ。ちょっと吸魂鬼とやりあっただけ」


やり合うと言うよりは一方的にやられたわけだが、このくらいの見栄は許されたい。


「そっか……良かった。いや、良くはないよね。もっと休んでないと」

「リーマスに気づかれないくらいには平気だよ」


過剰に心配したがるルーピンに、リリーがムッとして返す。


「リーマスは部屋へ戻る?」

「その前に校長室へ行くよ」


気乗りはしないが行かねばならない。そんな雰囲気でルーピンが答えた。顔を伏せその表情は隠される。


「あとで部屋へ行くから、一緒に朝食を摂ろうよ。屋敷しもべに頼んどく」

「遅くなるかもしれないよ」

「ならシャワーを浴びて行けるね」


リリーはクンクンとローブを嗅ごうとして、ルーピンに貸したままだと気づく。彼女に引く気がないことを悟ると、ルーピンは諦めたように笑って首を縦に振った。


「交換しようか」


突然の申し出にルーピンが理解できるはずもなく、キョトンと間抜けな顔でリリーを見やる。彼女はニッと口角を上げると貸していたローブを剥ぎ取った。そしてルーピンが何か言おうとする前にポケットから丸まった透明マントを取り出して、ふわりと彼に被せる。


「君は知ってたんだね、このマントのこと」

「まぁね。この向こうは朝食を終えた生徒がいる。たぶん、リーマスはこっそり入るべきだよ」


頭だけを出したルーピンがコクりと頷く。目を左右に動かし軽く息を吐くと、真っ直ぐリリーを見た。


「あ、あと杖。拾っておいた」

「ありがとう」


彼は辞職を願い出る。そしてシリウスがアニメーガスだと隠していたことを謝るのだろうか。ダンブルドア校長を裏切っていたと。信頼に背いてしまったと。

樫の扉を開けて中へと入る。「ルーピン」や「狼人間」といった単語が漏れ聞こえるこの中を、彼は一体何を考え通っているのだろう。




マダム・ポンフリーにどっさり貰ったお小言をシャワーで洗い流してスッキリさせる。厨房へ遠回りしてからリーマスの部屋へ着くと、少し肩の荷を下ろしたような彼がいた。


「さっき食事を持ってきてくれたよ」

「じゃあ食べようか」


カチャリカチャリとフォークがお皿にぶつかる音を聞く。誘っておいて無言はダメだろうと分かりながらも、リリーはなかなか切り出せないでいた。言いたいことはたくさんある。

リリーがよく噛んだベーコンを飲み込んで、カボチャジュースで喉を潤す。深呼吸をひとつすると、気配に気づいたルーピンが顔を上げた。


「忍びの地図、勝手に持ち出してごめんなさい」

「いいよ。君がセブルスを呼びに行ってくれたんだってね」


ルーピンの言葉に勝手に責めを汲み取って、リリーが打ち萎れる。


「透明マントと一緒にリーマスからポッターへ返してあげて」


草臥れた地図をテーブルに置き、彼へと寄せる。しかしルーピンは首を横に振り、側に置いていた透明マントを地図に重ねた。


「私には渡せない。ここを辞めることにしたんだ。荷造りが終わり次第出ていくから、もうハリーに会うことはないよ」


やけにあっさりとした口調でルーピンが言った。これが当たり前だというような、こうなることは分かっていたような、諦めばかりの声。


「辞めることはポッターの耳にも入ると思う。彼なら会いに来てくれる」

「どうかな。私はシリウスじゃないから」


僻みでも妬みでもない、彼は自分を無価値だと信じきっている。そんな気がして、私は奥歯を噛み締めた。


「君は何をどこまで知ってるんだ?」


リーマスの問いかけはあまりにも唐突で、私は何も身構えることができずにただ呆然と見つめ返すしかできなかった。真っ直ぐ捕らえて放さない彼の目は真剣そのもの。曖昧に誤魔化してしまいたくないと私に思わせる。しかし正直に話すわけにはいかない。


「漠然としてて何の話か分からないよ、リーマス」

「シリウスと随分親しげだったね」

「そうだね。シリウスに食事を提供したりもした」

「食事を?どうして?学生時代に仲が良かったなんて記憶、私には……」

「それは言えない。でもこれは、ダンブルドア校長がリーマスに私の護衛を頼んだのと同じ理由だよ」


偉大な魔法使いの名は強力だった。今回の事件での負い目もあるのだろう。リーマスは「そう」とだけ呟いて、それきり口を閉ざしてしまう。


「部屋に戻るよ」


最後のオートミールを飲み込んだリリーが言う。


「この1年、とっても楽しかった。手紙を書いたら返事をくれる?」

「満月じゃなければね」


肩を竦めておどけてみせるルーピンに、リリーがプッと吹き出した。

それが原因でここを去ると言うのに、全く。


「またね、リーマス」

「まぁ、また」




部屋へ戻ると、扉の前でグリフィンドール生がそわそわと行ったり来たりしていた。手には丸めた羊皮紙をいくつか握り絞めている。


「私に何か用かな?」

「エバンズ先生!」


安心した顔で駆けてきた彼女は私に羊皮紙を押し付けると、いくつか言葉を残して去っていった。場所を移して職員室にいても、私を訪ねる生徒がポツリポツリと続いた。

教授方に最後の挨拶をしに来たリーマスはいつもの穏和な笑顔を封印し、真剣な瞳で深々と頭を下げていた。心臓が握り潰されそうに痛くて、私は彼から目を背けてしまう。

自分のせいで死ななければ、怪我をしなければいいと思っていた。自分のせいでなければ。《本》の予言は絶対で、それから逸れなければ起きうることは仕方ない。

そう思っていた。

酷く利己的な考えだ。私にはみんなを救う可能性がある。私だけが。

シリウスを吸魂鬼から庇ったとき、《本》から大きく外れることよりもただシリウスを失いたくないという気持ちが占めていた。リーマスとだって、こんなに深く関わる必要なんてなかった。ほんの少し《本》に描かれていない彼らを覗き見ることが贖罪だと。


でも支えたいと思った

共に在りたい

友としてシリウスを、リーマスを

そして愛する者として、スネイプ教授を


いつだったか、シリウスが私に言った。駒を見るような目をすると。きっとそれは正しい。あのとき私が腹を立てたのは図星だったからだ。

共に在りたい心と《本》を知る者として予言を遂行させたい心がせめぎ合っている。

リリーは生徒から集まってきた羊皮紙を抱きしめた。


これは、共に在りたいと願う心がもたらしたもの







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