次に目を開けたとき、私は医務室に寝かされていた。一気に意識が覚醒し、慌てて身体を起こそうとすると、優しくベッドへ押し戻される。
すぐ側に人がいたとは気づかず目を見開いて窺えば、肩に乗る手と同じくらい優しいブルーの瞳に見つめ返された。
「ダンブルドア校長っ!」
「心配ない。みな無事じゃ」
逸らされた視線を追えば、こんもりと膨らんだベッドが三つ。
「シリウスは?」
「別室に移されておる」
ホッとして、身体中から力が抜けていった。目を閉じて沸々と沸いてくる達成感に浸るように、深くゆったりとベッドへ沈み込む。
良かった、やり遂げた
「もうじきコーネリウスが来よう。その前にわしは当事者に話を聞いておきたい」
「はい」
「何か伝言があれば、わしが責任をもって預かろう」
ドキリと胸が騒いだが、すぐに緊張を解く。私は今真っ先にシリウスの安否を確認したばかりだし、この1年、コンタクトを取り続けていたことくらいお見通しだろう。彼にバレて困ることなど何もない。
「では、無事で良かった、と」
「うむ、承知した」
最後にダンブルドアはリリーにチョコレートを手渡して、にこりと目を細めた。医務室を出ていく後ろ姿を見ながら、リリーはパキリとチョコレートを口にする。ふわりと鼻に抜ける甘さが思考を蕩けさせていった。
食べ終わる頃には目を開けているのも辛くなってしまって、リリーは眠りへと落ちていく。無理矢理引きずり込まれるのとは違う、光へ誘われるような温かな眠りだった。
リリーは怒鳴り声で目が覚めた。無理に叩き起こされたときの頭の重さが霞をかけるように覆う。必死に回転させた思考は声の主がスネイプだと主張する。低い地響きのような声がガンガンと轟いていた。
リリーがやっと音を言葉として認識できるようになったとき、
「白状しろ、ポッター!」
スネイプの悲痛な怒声が医務室中を震撼させた。
けれどリリーはふぅと満足げに息を吐く。これはシリウスが無事に逃げおおせたに違いなく、ポッターたちは無事にやり遂げたことを示していた。
真夜中を過ぎ、リリーはみんなが寝静まるのを待った。マダム・ポンフリーが事務室から出てこなくなるまで耐えて、忍びの地図を取り出す。杖はサイドテーブルに置かれていた。
「われ、ここに誓う。われ、よからぬことをたくらむ者なり。……ルーモス(光よ)」
フリットウィック教授の部屋にシリウスの名はなかった。ダンブルドア校長は校長室でうろうろとまだ起きていて、側にはスネイプ教授の名も漂っている。
窓の外には朝日が昇る直前の先走った濃い青が一面に広がっていた。ブルーアワーだとかそんな名前が付いていたはず。ぼんやりと眺めている間にも色は豊かにその濃淡を変化させていく。
杖明かりが必要なくなった頃、リリーはベッドを抜け出した。念入りに地図を確認して、誰にも見つからずに外へ出る。
リーマスを迎えに行きたい
禁じられた森を探し歩く前に、まずは叫びの屋敷を確認しよう。《本》ではそこに置き忘れた透明マントを彼が拾って来ていたから、上手く行けば会えるはず。
ホグワーツの敷地を出てから姿をくらました。現れたのは、いつもシリウスと過ごした部屋。
「リーマス!シリウス?!」
そこにいたのはボロボロのローブを身体に絡ませ喘ぐリーマスと、起こしかけた身体を再び横たえる大きな黒い犬。姿が戻ったばかりなのだろう。苦しそうに呻くリーマスの声に心が痛む。
リリーはローブを脱いでルーピンにかけた。そして肩を擦りながら彼を抱き締める。
「リーマス、お帰り」
少し、リーマスが笑ったような気がした。
「まだ歩けそうにはないかな。ベッドで横になるといい」
リリーは腕を解き、古びたベッドへ杖を振る。最低限使えるように整えると、ルーピンに肩を貸そうと側に跪いた。
「リリー、私がやる」
いつの間にか姿を戻したシリウスがリリーと逆側の隣にしゃがみこんだ。シリウスは痩せた身体のどこにそんな力があるのかと思うほど軽々とルーピンを支えてみせる。
ルーピンは弱々しくも頻りにリリーとシリウスを交互に見た。彼の中で二人は初対面で、リリーはシリウスを殺人鬼だと誤解したままのはずだった。
そんな様子を察したリリーが「大丈夫」と微笑めば、彼は分からないなりに納得したようで、大人しくシリウスに運ばれていく。
「悪いね……」
「あ?何が?」
ようやく捻り出したルーピンの言葉は謝罪だった。でも言いたいことは他にあるはずだ。きっとシリウスには伝わっているのだろうが、それでも。
「リーマス。ありがとう、だよ」
「……ありがとう」
「当然だろ」
ベッドへ寝かされたリーマスが照れたように淡く笑う。つられて私たちまで笑ってしまい、青春ごっこのような温もりが広がった。
リリーはルーピンに貸したローブのポケットをまさぐって地図の奥に隠れた巾着を取り出した。いつもシリウスへ物資を届ける際に使っていたものだ。持ち歩いていたのが幸いした。
そこからタオルを呼び寄せて、ルーピンの額を拭う。
「もう遠くへ逃げたのかと思ってた」
視線はルーピンに向けながら、リリーがシリウスに話しかける。
「孤独な友を置いて行くほど薄情じゃないんでね」
ベッド脇に腰掛けたシリウスが、心外だとばかりに眉を上げる。
「リーマスには私が付いてる。早く出発しないともう大分明るいよ」
シリウスがチラリとルーピンを窺った。返事の代わりにルーピンは片手をあげ、大丈夫だと微笑む。親友の後押しにシリウスは頷くと、ギシリと音を立てて立ち上がった。
「久々の外を満喫出来ると良いが」
「そうだね。さ、バックビークはどこ?あなたと二人、目くらましをかけてあげるよ」
「こっちだ」
ぐいっと腕を引かれ、シリウスに抱き止められる。突然のことに固まっていると、ぎゅうっと狭いところへ押し込められるような感覚がして、姿くらましだと理解した頃には視界が開けていた。
「出入り口がないからな。人狼専用の強固な造りだ。ま、それも10年以上放置されて大分弱ってきてる」
コンコンとシリウスが古びた木造を叩いた。リリーはすぐ側に繋がれていたバックビークに近付いてお辞儀をするが、頭を上げる前にバックビークからその美しい毛並みを擦り寄せてきた。
「餞別をあげるよ」
バックビークに跨がったシリウスに巾着を渡す。
「旅支度をしたわけではないから大したものは入ってないけど、タオルとか薬とか、あると便利でしょ?」
「助かる」
「あとこれも」
リリーは巾着の中へ杖を向け、呼び寄せ呪文を唱えた。飛び出てきた杖をキャッチして、シリウスへと渡す。
「貸してた杖。本当は友人のものでね。訳あって預かってるんだ。だから絶対いつか返すこと」
「良いのか?」
「良いわけないよ。人のだって言ったでしょ?でも彼は今魔法使うどころじゃないし、シリウスには必要になる」
「必ず返す」
これで良いのかなんて自信はない。でも逃亡中に彼がどんな生活をしていたかなんて大して《本》に書かれてはいないし、彼の生活に少しゆとりが出たくらいで咎める者はいない。
そう自分に言い聞かせて《本》をなぞるだけの暮らしに目を伏せる。たまにはほんの少しくらい善人ぶったって良いはずだ。こうやってどこかで均衡を取らないと、心がおかしくなりそうだった。
「自分で目くらましをかける?」
「いや、頼む。元々こそこそ隠れるのは苦手な質でね」
「じゃあ、ヒヤッとするよ。定期的に呪文の効果を確認しておいて」
リリーが杖を振れば、忽ちそこには誰もいなくなる。
「いつか、君がこれほど親切な理由を教えてくれるか?」
何もない空間からシリウスの声が降る。
「いつか、ね」
視線を感じ、澄みきった青空目掛けて微笑んだ。
「行くぞ!」
すぐ側でバックビークの翼の風を感じた。鉤爪が草花を散らし一段と強い風を受ける。遠くでバックビークの別れの挨拶が聞こえた。
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