6月。
リリーが忙しいのは試験準備と後片付けだけで、試験時間中はゆったりと過ごせた。とは言え、最終日のことを思うとのんびりもしていられない。
満月が近付いていく中、脱狼薬が効いているのかリーマスは体調を崩すことなく試験監督を続けていた。彼がここにいられるのはあと少しだということを、
私だけが《知っている》
試験の最終日。
片付けに追われながら、まだかまだかと顔を曇らせその時を待つ。それはポッターらも同じようで、昼食時に見た三人は一様に暗い顔をしていた。
すべての試験が終わり、ハグリッドからは敗訴を報せる手紙が届いた。
どこかで覚悟していたのだろう。ロンドンでの敗訴のように手紙が滲むことも字がはちゃめちゃなこともない。それが余計に痛々しさを強めていた。
友人としては側についていてあげたい。バックビークを死なせやしないと言ってやりたかった。だがマルフォイ氏に働きかけることも過去の判例を洗い出すこともしなかった私にそんな資格はない。
暴れ柳の側で身を隠そうかとも思ったが、リーマスが忍びの地図を見ているはずだ。なら、いっそ。私は階段を駆け上がり、リーマスの私室をノックする。
「リーマス?私、リリー。入って良い?」
少し待ってから、扉が開いた。生気の抜けた顔でふわりと笑みを浮かべる。
「今日は、だめだよ」
「ごめんなさい、体調が思わしくないのは分かってる」
「気になっていることもあるんだ。陽が落ちる前に見ておきたくてね」
ルーピンは隈にギラギラとした瞳を乗せ、残り僅かの生気すべてを注ぎ込んだ視線で室内を見ていた。いや、彼は忍びの地図越しに、かつての友人たちを見ていた。
「一緒に居て貰えないかな」
そう言ってリリーはハグリッドからの手紙をルーピンに渡した。
「一人になりたくなくて」
「私も職員室で聞いたよ。残念だ」
目を伏せる私にリーマスは扉を大きく開けた。肩に優しく手が乗り中へと誘われる。
彼の優しさを、私は利用する。
「ありがとう、リーマス。何かしていたなら続けて構わないから」
「リーマスさえ良ければだけど」と続けながらリリーがソファへ落ち着く。テーブルには大きな古ぼけた羊皮紙と飲みかけの紅茶。ルーピンは曖昧に返事をしながらリリーのためにお湯を沸かす。
「これは?」
リリーの前に湯気のたつマグカップを置いて向かいに座ったルーピンに、普段なら無視されそうな羊皮紙を指差して興味を示してみせる。ルーピンが地図を見ようとしないなら、部屋から出るつもりだった。
「あー……うん、これは……」
言葉を濁しながらルーピンは目をさ迷わせた。言うか言うまいか、迷っている目だった。
「学生時代に悪戯をして回ったやんちゃな友人の話を覚えてるかい?」
「もちろん」
やがてルーピンが心を決めたように羊皮紙を引き寄せる。そして杖を取り出した。
「われ、ここに誓う。われ、よからぬことをたくらむ者なり」
「わ……!」
圧巻だった。インクが染みていくように杖を当てた場所からじわじわとホグワーツが広がっていく。地図が完成する頃には黒点と共に名前がふわふわと揺れ始めた。
「我々の秘密兵器でね。どこに誰がいるかすべてお見通しになる」
穏やかに説明してくれるリーマスの目がギラギラと鈍い輝きを放ちながら素早く地図上を走る。ポッターたちを見守るだけには思えないその視線の先にいるのはシリウス・ブラックか、ピーター・ペティグリューか。
リーマスはどこまで見通しているのだろう
「ほら、リリー。ここにハリーたちがいる。全く……あれほど注意したのに」
窘める口調に対して目には束の間の温もりが宿っていた。ジェームズを懐かしむようにも見える柔らかな視線がハグリッドの小屋へ向かう三つの点を追いかける。
小屋へ入れば三人の名前は消えてしまった。ペティグリューもこの地図を作った一人。彼はどこにいれば地図から隠れ遂せるか熟知していた。だから彼はここを選んだ。
やがてポッターたちが小屋から出てくる。その点は一つ増え、
『ピーター・ペティグリュー』
ルーピンは大きく目を見開いた。かじりつくように羊皮紙へ顔を近付け、今見ているものが信じられないといった様子で瞬きを繰り返す。
そこへ近づくもう一つの名前。
『シリウス・ブラック』
そしてシリウスはウィーズリーとペティグリューを引き連れ、暴れ柳へと消えていった。
「行くところが出来た」
ガタリとソファを倒しかねない勢いでルーピンが立ち上がる。「何処へ」とも「何故」とも聞く気はない。それはルーピンもだった。リリーの反応などどうでも良いと、部屋を飛び出していった。
リリーは一人残された部屋で忍びの地図を眺める。あとを追う必要はない。叫びの屋敷はホグワーツの外にある。であれば、私の影響はないも同然だ。未だホグワーツ外で《本》から逸れた例はない。
ルーピンは早くも二階を駆けていた。一方ここへ来るはずのスネイプは彼の研究室に留まったまま。それはルーピンが暴れ柳に消えても動くことはない。
リリーに選択の余地はなかった。地図を引っ掴むと廊下に乱暴な扉の開閉を響かせる。縺れそうな足を必死に動かし目指すは地下の研究室。籠りっぱなしの男へ今起きていることを伝えなければならない。
「スネイプ教授!」
ノックもせず押し入った扉は思いの他すんなりと開いた。バタバタと足音が響いていたのだろう、セブルスは別段驚く様子もなく手を止める。左手にはゴブレット、右手には独特の煙の立つ柄杓が握られていた。今正に、脱狼薬を持って行こうとしていたのだろう。
だが遅すぎる
「大変です!ルーピン教授がこれを見た途端外へ!今日は――」
満月です、と言いきる前に地図をスネイプ教授に引ったくられた。彼は鼻が付くほど近づけ舐めるように見回す。しかし既にそこに目当ての名はない。
「ここで途切れてしまって」
横からリリーが暴れ柳を指差した。スネイプはカッと目を見開き、眉間のシワを最大限に寄せる。わなわなと震える手は怒りからだろう。顔に赤みが差したかと思うと、地図をぐしゃりとリリーに押し付ける。
「我輩が行く」
突き飛ばさんばかりの力で渡された地図を何とか受け取ったリリーが体勢を整えた頃には、既にスネイプの影は研究室から消えていた。
リリーは地図上で彼を追う。玄関ホールを横切り、校庭を素早く移動して、彼もまた暴れ柳へと消えていった。
「さてと」
リリーは場所を玄関ホールの隅の方、箒入れの側へ移した。あとはただ、彼らがホグワーツへ戻ってくるのを待つしかない。
忍びの地図をじっと見つめる。試験終了に浮かれる生徒たちは談話室に籠り、教授方は採点に追われて動かない。
とても静かだった。
ゴーストも散り散りになり、ここには絵画もない。みんないるのに、誰もいない。本当はこの地図がデタラメで、私は一人取り残されてしまったのではと錯覚しそうだった。
たっぷり1時間以上待って、はっと息を呑む。暴れ柳の元に再び点が現れた。その数は次第に増えルーピン、ペティグリュー、ウィーズリーと順に名前が地図に記されていく。
リリーは玄関ホールで成り行きを見守り続けた。目に映るのは点だけ。しかし何が起きているか手に取るように分かった。
みんなの動きが止まり、ルーピンから距離を取る。シリウスが立ち向かい、ペティグリューは森へ逃げていった。
ポッターらは時間を巻き戻し、罪のない命を一つならず救う。しかし私はどうだ。先を知りながら変えない選択をし続けている。
ペティグリューは逃げてしまった。
これで闇の復活がまた一歩近づく。
下唇をぎゅっと噛みしめ自分に喝を入れた。まだ何も終わっていない。後悔するには早すぎる。
私には、私の役目があるのだから
地図をポケットに突っ込んで大きな樫の扉を開ける。夏だというのにヒヤリと嫌な冷気がまとわり付いた。吸魂鬼がすぐそばまで迫ってきている。
リリーは人へと戻っていくシリウスを遠目に見た。駆け寄るポッターとグレンジャーに気付かれず倒れたままのスネイプとウィーズリーに馳せ着けると、二人の脈を確認し怪我の具合を診る。《本》以上の怪我はないように思えた。
「アクシオ、スネイプ教授の杖」
持ち主を見失った杖を呼び寄せだらりと投げ出されたままの掌へと握らせる。ついでにとウィーズリーとリーマスの杖も探し出した。一本は持ち主に、もう一本は自分のポケットに。
湖では未だ無数の吸魂鬼が獲物を求めさ迷っていた。リリーは今に引き返して行くはずだと固唾を呑む。
焦りでもない、怒りでもない、毛が逆立つような感覚が妙に凪いだ心でそよぎ始める。 頭の中にグワングワンと反響する警報が、ドスンドスンと心臓にまで打ち響いた。
リリーは数分もじっとしていられなかった。吸魂鬼は屯したまま。こうしている間にもシリウスの魂を吸い出そうとしている。そう思うと身体が勝手に湖へと向かっていた。
リリーが駆け付けたのとポッターが倒れ込んだのは同時だった。吸魂鬼はフードを脱いだおぞましい姿を晒し、ジワリジワリとシリウスの魂を我が物にしようと覆い被さる。
「ダメダメダメ!シリウス!」
楽しいこと、
楽しい思い出、
幸福、
私の幸福は、
「エクスペクト・パトローナム(守護霊よ来たれ)!」
リリーの杖から飛び出したのは頼りない小さな銀の盾だった。寒さと恐怖に震え足をガクガクと揺らしながら、それでもシリウスへとにじり寄る。吸魂鬼を押し退けるように盾を翳せば、シリウスを放してスッと後ずさっていった。
「彼を連れていかないで!」
シリウスにすがり付き懇願を滲ませたリリーが涙を堪える。
ポッター、ポッターは?!
対岸に動く影はなく、勿論牡鹿の影もない。リリーはシリウスと一緒に倒れているポッターとグレンジャーを精一杯引き寄せた。そして自分の身体で庇う。
ふっ、と盾が掻き消える。
遠くで母の声が聞こえた気がした。断末魔のような金切り声、大好きな母の声とは似ても似つかない、でも紛れもない母の声。私はそれをかぶりを振って吹き飛ばす。
「エクスペクト・パトローナム!」
冷えきった湖の畔にリリーの声だけが木霊する。
これが創られた物語なら、私が主人公だったなら。みんなを守って練習の成果を披露できただろう。
でも、これは現実だ。
「嫌、行かないで!シリウス、お願い!」
幸福を求め思考の定まらないリリーの守護呪文は、1分と保たずに退けられる。何度も何度も唱え直すが大して意味があるようには見えず、また、何かを形作ることもなかった。
幸せ、幸せ、
学校で初めて笑った日、
優しい母の笑い声、
呆れ混じりに笑ったスネイプ教授――
ここで終わるのかもしれない。シリウスも、ポッターも、グレンジャーも、私も、みんなみんな私のせいで。もし《本》を読んだのが私でなければ、もっと力のある人だったなら。
お願いポッター、早く来て
「早く!!!」
薄れ行く意識の中、私は銀色のベールに包まれる夢を見た。
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