5月上旬。
外はすべてが夏色に変わり、ホグワーツで過ごす者の装いも様変わりした。休日ともなれば制服を脱ぎ捨てた生徒たちが思い思いの服装に身を包み、明るい色を纏って城中を闊歩する。
しかし変わらない者もいる。地下は上ほど暑苦しくもなく、その地下の主は陰鬱とした黒装束に身を包んでいた。頑なに肌を晒そうとしないスタイルに意見するものは既にいない。本人はいたって涼しげで、暑そうに顔をしかめるのはそれを見せられている方だった。
スネイプは地上の喧騒から離れ一人地下の私室に籠っていた。試験へ向けて増やした課題の採点に追われて固まった筋肉の凝りを解す。関節を出鱈目に回し、何となく楽になるまで繰り返す。ぐっぐっと肩を押しては気持ちの良いポイントを探した。
気を抜けば曲がっていく背を伸ばし、腰を捻った。視界に入った右後ろには薬草採集用のカゴ。エバンズが来てからめっきり自分で使う機会の減ったそれに最後に触れたのはいつだったろうか。
生徒のやる気を感じない課題に嫌気が差してきたこともあり、スネイプは立ち上がった。おもむろにカゴを掴むと廊下へと出る。
そろそろ温室の薬草が摘めるはずだ
フィールドワークを積極的に行いたいとは思わないが、嫌いでもない。陽の元より地下の方が落ち着けはする。しかし年に何度かくらいは意味もなく陽を浴びたいと思うこともある。
今日はたまたまその珍しい日だった。
並んだ温室の一つを前にすると、中で影が動いた。十中八九薬草学教授のポモーナ・スプラウトだろう。考えなしに出て来てしまったが、授業中でないなら好都合だ。
スネイプは一瞬躊躇ってから、折角ここまで来た上に自分が遠慮する理由は何もないと意を決した。
キィ、と高音を響かせ戸が軋む。温室内は外よりも快適だった。きちんと管理されていれば当然のことだ。
外から見たうごめく影の正体は戸を開けてすぐに気づいた。入り口に背を向けて鼻歌混じりにハサミを操り剪定する女は、予想した人物よりもほっそりとしていて幾分か縦に長い。
「エバンズ」
「ひゃっ!」
スネイプは気付く様子のない鼻歌に、ハサミを下げたタイミングで声をかけた。ビクリと大袈裟に肩を揺らしたリリーはギギギと立て付けの悪い戸のように首だけを後ろに向ける。
「スネイプ教授、いつから……?」
「サビの辺りから」
歌に興味のない自分でも一度ならず耳にしたことがある有名な曲。入ったばかりのメロディを思い出しながら律儀に答えてやれば、彼女は呻きながら顔を背けた。
「もっと早く声をかけてください」
赤く色づいた頬をチラリと見せ、恨みがましい声でリリーがぼやく。スネイプはハサミを降ろすまで待ってやったのは誰のためだ、と言いかけた口を吐息に変えて吐き出した。
どう思われようとどうでもいい。それにいつもにこにこと笑顔を張り付けている彼女の崩れた顔を見るのは、非常に気分が良かった。
「仕事か?」
記憶ではここにハーブは植えられていなかった。側を通るついでに彼女の手元を覗き込む。
青々とした葉を誇らせ力強い茎を太陽へと伸ばしたハーブたち。ミント系やレモンバーム、ローズマリーなどが雑多に並べられ、お互いに干渉することなく育っている。
「個人的に場所をお借りして、趣味のハーブを育ててるんです」
強い香りを放つ葉に顔を近づけリリーが大きく息を吸う。ペパーミントの爽やかさが鼻に抜け、顔を綻ばせた。
スネイプは目的の薬草前に辿り着き、丁寧に葉の大きさを確認しながら摘み取りを始める。
「それよりも」と背筋を伸ばしたリリーが切り出した。
「スネイプ教授はお仕事ですよね?お手伝いします」
持っていたハサミを杖に変え、リリーがスネイプに歩み寄る。両手それぞれに呪文を唱えて剪定で着いた汚れを落とした。最後には手に鼻を近づけ名残がないかを確かめる。
「結構。我輩一人で事足りる」
「お忙しい時期なのでは?」
「君は我輩に地下から出るなと?」
スネイプの声には心証を害した様子が滲み出ていた。その背中越しに慌ててリリーが否定する。
「我輩とてたまには身体を動かしたくもなる。君は趣味を楽しみたまえ」
最後のは嫌味だったが、リリーには響かなかった。『身体を動かしたい』という言葉がスネイプから飛び出たことが余程意外だったらしく、数秒の間を置いて笑いを堪えているような音が洩れる。スネイプはギロリと冷たい闇色をリリーに向けた。
「もし良かったら、明日一緒に森へ薬草摘みに行きませんか?以前教えていただいた、セストラルの縄張り近くへ」
スネイプの射るような視線から逃げて、表情を繕ったリリーが延長線上にあるであろう方角を指す。
「そこまでの暇はない」
「そう、ですよね」
リリーは言ってしまってから愚問だったと打ち沈む。責めたわけではなかったのにスネイプは自分が悪いことをしたようなもやもやと居心地の悪さを感じた。
「……君はセストラルが見えるか?」
スネイプの問いは世間話にしては唐突すぎて、リリーは意図を汲み取れずに不安を表情で返した。言ったスネイプ本人も口を開いてから後悔し、考える間を置いて続ける。
「他意はない。君は祖父を亡くしていたな」
「私が看取りました。ですからセストラルは見えますよ」
「そうか」
リリーに死を嘆く暗さはなく会話を打ち切りたい雰囲気もなかったが、スネイプはそれきり黙ってしまった。
何か話を広げたくて切り出した話題ではない。ただ何か言わねばならないと、胸の奥で燻る正体不明の靄がスネイプを突き動かした。
妙な沈黙に今度はリリーが先に耐えきれなくなった。
「歳を重ねるとその機会は増えてしまうものです。スネイプ教授も……」
「あぁ、見える」
口をつぐみ途切れさせたリリーにスネイプは努めて平然とした声色で返す。
自分の場合は家族を看取るなどとそんな穏やかなものではない。この手で、奪い取ったモノだ。
摘み取った葉を指先に残したまま動きを止めていた手を見つめ、顔も思い出せない相手を思う。そして手向けるように葉をカゴへ入れた。
ジリ、と痛覚に直接火を押し当てたような痛みが左腕に走る。幻覚に違いないその責め苦は生々しく尾を引いて、いつまでも身を焼き続けていた。
「誰もセストラルが見えないままなら良いのに」
消え入りそうに震えるリリーの声に、スネイプが弾かれたように首を回らす。リリーは先程指差した方角をじっと見つめていた。
その横顔は今にも泣きそうに歪み、重すぎる苦痛を背負っているように思えた。スネイプは目を逸らせず、また声をかけることもできず、ただただリリーが自分の視線に気付くまで待つしか出来なくなる。
一体、彼女には何が見えている?
外界から隔離された空間を揺らす風はない。留まり続ける湿り気を帯びた空気が二人に寄り添っていた。
やがてリリーの顔から表情が消える。残るのはすべてを見透かし、諦め、蓋をした、空虚さ。スネイプはその表情に記憶を掠めるものがあった。
それはリリーが笑顔を作り出して温室を出ていってからも引っ掛かり続ける。
スネイプは記憶の糸を手繰るように温室を出た。
ゆったりといつもの倍ほどの時間をかけて校庭を横切る。無人の湖は日光をキラキラと反射させ、大イカのシルエットがゆらゆらと漂っていた。
気づけば湖の畔。昔、自分がまだ染み一つ付いていなかった頃、よく通った木の側。城から死角になるそこは風の通る木陰で、誰にも邪魔されずに本を読めた。
そうだ、確かに彼女はここにいた
スネイプが15年振りに木の根本に座り込むと、途端に記憶が鮮明になって甦る。
初めて彼女を見たのは三度目の組分けの時だった。
新入生は皆一様に浮かれたような緊張したような面持ちでいるのが常。しかし彼女はそのどちらでもなく、ただぼんやりと他から離れるように俯いていた。
一人浮いたような様子に柄でもなく自分と似たようなものを感じ、スリザリンへの拍手に釣られる以外は興味もない彼女を目で追っていた。
次に彼女に気がついたのはNEWT試験を控えた頃だった。
図書室でも談話室でも日頃のツケの精算に喚く人間から離れようと湖へ向かうと、気に入っていたこの木陰に彼女がいた。自分以外にここを知る者がいたのかとその日は譲ったが、それ以降頻繁に彼女をここで見かけた。
いつも一人で一心に本を見つめ、近くで騒ぎが起こっても、目の前を虫が横切っても、旋風が迫っても、顔色を変えたところは見たことがない。
あの日特等席を奪った後輩は、あんなに笑い、人と関わりを持とうとする人間だっただろうか。自身と似たタイプだと子供心に感じたのは間違いだったのだろうか。
話したことは愚か目が合うことすらなかったように思う。自分でも覚えていたことに驚きを隠せない。
しかし彼女の感情を消し去ったような横顔は、過去を思い出すには十分すぎる材料だった。
去年彼女の祖父が残したアルバムを開いてしまったときはピクリとも気にかからなかったのに。記憶の中の彼女はあのときの写真と同じ表情をしていた。だがそれでも幼い彼女はまだ抑えきれない感情を残していた。
遠くで授業の終わりを知らせるベルが鳴る。
スネイプは懐かしい場所に別れを告げた。
ざわざわと追いたてるような風がスネイプの漆黒のローブを煽り、何処からか舞い落ちた樫の葉が肩を掠める。
地面へ着く寸前、吹き上げる突風に拐われ飛翔した濃緑の葉は、とうとう光に吸い込まれ姿を消した。
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