季節は春となり今や夏へ片足を突っ込んでいて、森や山々は青々と力強さを見せつけていた。芽吹いた若い香りは城の中にまで届き惰眠を誘う。真冬の極寒から守られていた温室の草木も一斉に背を伸ばし、剪定や追肥を今か今かと待ち望んでいた。
イースター休暇も終わり、OWL生やNEWT生は試験へ向けて追い込みをかけ始めている。クィディッチ優勝杯獲得に浮かれていたグリフィンドール生も、いつまでも騒いではいられない。
リリーは今年も自生する薬草の摘み取りと乾燥を買って出ていた。去年教わった通りに葉を選び、カラッとした陽に当てる。
日に日に太陽が幅を利かせて、午後の授業を終えてもまだ日没には時間があった。澄みきった滑らかなブルーからキラキラと温もりが舞い落ちる中、リリーは広げた薬草の隣に寝転んで目を閉じた。
ふわりふわりとリリーに降りて、じわりじわりと熱を譲る。それは足や手の先から広がって、やがて背中にまで到達した。
ふと影が差して、リリーの顔への温もりが遮断される。
向かってくる足音は私に用事だったのか
何となく、理由なんてないが、この影の主がスネイプ教授のような気がして、もし本当にそうだったら嬉しいと期待を込めて目を開けた。
「リーマス……」
「誰だと思ったんだい?ガッカリって顔してる」
「もう、適当に言ってるでしょ」
悪戯っ子のように笑うルーピンを窘めて、リリーが身体を起こした。隣に座ったルーピンがリリーから日向ぼっこの名残を払う。もう少し乱暴にしたって壊れやしないのに。慎重に優しく掠めるからどうしてもスマートとはいかない。
「私はそんな繊細な人間じゃないよ」
「僕からすれば人間はみんな繊細だよ」
「確かに、リーマスはとっても繊細だよね」
リリーがニヤリと笑えば、ルーピンが困ったように眉尻を下げた。
「君のそういうところ、良いと思うよ」
「どうもありがとう。ところで、用事があるんじゃなかった?」
「用事?ないよ。あまりにも気持ち良さそうに寝てたから、私も仲間に入れてもらおうかと思ってね」
ごろりと寝転んで目を閉じたルーピンの目の下には、長年の生活で染み付いてしまった隈がある。リリーは二度杖を振ってホットタオルを作った。
「リーマス、タオル乗せるよ」
「タオル?」
確認しようと目を開きかけたルーピンに、リリーは問答無用とタオルで目を覆う。
「これ気持ち良いね」
ルーピンがふっと力を抜く。
「眠れないのは、毎日?」
緩んでいたルーピンの頬が少し強張った。起きようとする彼をリリーがやんわり肩に触れて制する。ポン、ポンと寝付く子供にするように肩を叩けば、再びルーピンの身体が脱力していく。
「眠りにつくときの、微睡んで意識が消えてく感覚が怖いんだ。嫌なものを想像する」
『嫌なもの』。それは恐らく満月の夜に迫る恐怖。
眠れる薬は多々あれど、どれも根本的な解決は望めない。今は脱狼薬で意識は消えずに済んでいるが、刻み込まれた感覚はなかなか消え去ってはくれないものだ。
「でも今なら眠れそうな気がする」
「夕食は食べ損ねたくないから1時間で起こすよ」
ルーピンは淡く微笑んで、それきり黙った。もぞもぞとしっくり来る体勢を探し、本格的に眠りについていく。
たとえ1時間でも彼にとっては貴重な睡眠のはずだ。自然に目を覚ますまで寝かせてあげたいが、日が落ちれば途端に風が冷たくなってしまう。
やがてルーピンの胸が規則的に上下し始めた。リリーは大きく欠伸をして彼の隣に寝転んだ。目を閉じてもルーピンのように眠気は襲ってこなかった。
シリウス・ブラック対策でこの時間に生徒は外に出てこない。さわさわと木々の囁きや鳥の囀ずりまでもが透き通って聞こえる。
考えなければならないことは山ほどあった。イースター休暇に励んだ魔法薬のこと、読み終えたばかりの論文のこと、そして何より6月のバックビーク処刑日に起こってしまう事件のこと。
夕食前にエバンズが薬草を届けに来るはずだった。
スネイプは自身の好む色に染め上げた研究室で苛々と足を鳴らす。別段急いでいるわけではないが、人を待たせているわりには遅い。
とうとう耐えきれなくなって、提出させた魔法薬の採点もそこそこに扉に不満をぶつけて飛び出した。
途中、大広間へ向かう生徒たちと出くわした。スネイプの黒いオーラに誰かが何かやらかしたに違いないとこぞって道を空けていく。
大きな樫の扉を出て、山吹色への見事なグラデーションを披露する西陽に背を向ける。野菜畑を過ぎた頃、スネイプは広げられた薬草の近くで横たわる影を見つけた。城の影に紛れ一つだと思ったそれは、近づくと二つになる。
探していた人物と顔も見たくない男。手を繋いでいるのかとギョッとしたが、5メートルほどの距離になって目の錯覚だったと分かる。忍んで歩いたつもりはないが両者共ピクリとも動く気配はない。
私が待っていると知りながら呑気に寝ていたのか
さてどう起こしてやろうかと、忌々しい顔色でスネイプがリリーを覗き込む。
その時。
パチリ、目を開けたリリーと目が合った。お互いがお互いに驚き目を大きく開ける。
「本物だ……」
リリーがポツリと溢した。スネイプは怪訝そうに眉を潜めるが、リリーからは影になりその表情までは汲み取れない。
「人を待たせておいて昼寝とは随分なご身分だな」
ハッと息を飲む音がリリーから洩れる。慌てて身体を起こし時計を確認すると「しまった!」と頭に手を当てた。そして隣で未だスヤスヤと昼寝にしては深すぎる眠りにつく男を揺すった。
「リーマス、時間だよ」
すっかり冷えてしまったタオルを除けて、ルーピンの覚醒を促す。もぞりと動き出したのを確認して、リリーはスネイプを見上げた。影そのものである男の顔との距離が縮まり、今度はその表情が読み取れる。
「申し訳ございません、スネイプ教授」
座ったままでリリーが項垂れる。そしてスネイプが何か言う前に乾燥させた薬草の回収を始めた。空のカゴを開けて杖を振れば吸い込まれるように薬草が飛び込んでいく。
「たった10秒の仕事に君は何時間かけたのかね?」
トゲトゲとした声がリリーの背中に刺さる。
「セブルス、私のせいだよ。私がリリーに甘えてしまったんだ。ごめん」
目を覚ましたルーピンがリリーとスネイプの両方に謝った。しゅんと項垂れる二人はさながら教師に怒られる生徒のようで、スネイプは苦々しくため息をついた。
スネイプはリリーから薬草の詰まったカゴを取り上げるとローブを靡かせ踵を返す。大きな歩幅でずんずんと歩き、あっという間に城の影に消えていった。
「ごめんね、リリー。用事があったのは君の方だったのか」
「気にしなくて良いよ。まさか取りに来るほどだとは思わなくてビックリした」
「急がないって聞いたはずなのに」とぼそぼそ続けながら、リリーが心臓に手を当て大袈裟にドキドキを表現する。ルーピンは目を細めて優しく笑うと、立ち上がって汚れを払った。
「久しぶりにぐっすり眠れたよ、ありがとう」
リリーに手を差し出しながら、ルーピンが言う。
「それは良かった。怒られた甲斐がある」
ニヤリと笑って肩を竦めたリリーがその手をとった。ぐいっと力強く、けれど優しく引き上げられる。
「さて、夕食だ。リーマスは何が食べたい?」
「それはもちろん――」
禁じられた森から迫る青紫に背を向けて、茜を目指して二人で歩く。リリーは燃えるような西陽に手を翳し、長く伸びた影を振り返った。
私の歩いた道はまだまだこんなに長くはない。真っ黒でもいい。真っ直ぐに伸びて、最後に振り返ったとき、これで良かったんだと自分を褒めてあげられるように、《本》の結末を残したい。
ルーピンに呼ばれてリリーが前を向く。横目に見た夕陽はもう殆んどが隠れてしまっていた。
闇の時間がすぐそこに迫っていた。
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