雪解けが始まり、寒さの中にじめじめとした嫌な纏わりを感じる2月。
去年はあんなに楽しかったバレンタインも、主催がいなければ通常通り匿名カードの投げ売りだけ。リリーの元には去年とは違うカードと花が届けられていた。けれどそんなこと、リリーにとってはどうでも良いことだ。
今日は出掛ける用事がある。それもスネイプ教授と。一緒にホグズミードを歩くのは1年振りだった。
無理を言って薬材料の買い出しに付き合わせてもらうだけだと言うのに、リリーの心はピョンピョン球根よりも跳ね回る。
しかし地下の私室をノックして出てきた男は最悪だった。スネイプの眉間は既に限界まで寄せられ、どす黒いオーラは人を遠ざける以上の効果があるに違いない。
リリーはあまりの不機嫌さに心当たりがあった。
「バレンタインのホグズミードを歩きたくなければ、後日にしますか?」
「いや、行く」
盛大なため息で出てきたスネイプは相変わらずコウモリのようだった。マントを翻し重い足取りを大股で進ませる。「ハッピーバレンタイン」と小声で呟けばしっかり聞こえたらしく、冷たい闇色がリリーを睨み付けた。
「今日は何を買いに行かれるんですか?」
「君が見て分かるようなら教える」
小馬鹿にしたような笑いでスネイプがリリーを見た。見て分かるようなら説明はいらないだろうとリリーが視線で抗議する。
グチョリグチョリという溶けかけた雪を踏む不快さに耐えながら校庭を抜け、ピンクを散らせたハイストリート通りへ入る。生徒がいないため賑やかさに欠けるホグズミードは、それでも凍てつく風を跳ね返す活気があった。
長い足を俊敏に動かし人混みを縫うスネイプに、リリーはどうしても追いかける形になってしまう。置いていかれずに済むのは目的地が分かっていることと、彼が後ろを気にしてくれているお陰だった。
「かなり貴重な品物で無くなる前に買わねばならん」
僅かに立ち止まりリリーが追い付いたのを確認すると、スネイプは言い訳めいた言葉を残して再び速度を上げた。
時折邪魔なイチャつくカップルに舌打ちしているのが後ろからでも分かる。その度にリリーはクスリと笑いを漏らしてしまうのだが、先を急ぐスネイプには聞こえていないようだった。
薬問屋が近付くにつれ、マダム・パディフットのけばけばしさが色濃くなる。必然的にカップルも増え、この辺り一帯だけ濃密な異質さを感じる空気が充満していた。
鮮やかな気配に飛び込む漆黒はとても浮いていて、チラチラと訝しむカップルの視線も浴びている。
それも路地を曲がる度に薄まり、目的の薬問屋は一年前に見たのと変わらぬ陰湿さを纏っていた。
カランコロンとカウベルを鳴らし、入店を知らせる。奥からは赤ん坊を抱いた女性が現れ、これにはスネイプもギョッとし半歩身を引いた。
「店主は?」
「主人は腰をやっちゃって。頼りないでしょうけど今日は私が引き受けてるんですよ」
人好きのする笑顔でカラカラと女性が笑う。おおよそこの店には似つかわしくない人柄に、スネイプが面食らった。それでも目的は果たしたい。スネイプは意を決して女性と赤ん坊に歩み寄り、口を開いた。
「ご主人から手紙を頂いた。貴重なものが手に入ったと」
「あぁ!伺ってますよ。お名前は?」
「セブルス・スネイプ」
「スネイプさんね。そちらは?」
出される品物を一目見ようと近付いていたリリーに女性が声をかける。
「いえ、私は――」
「連れだ」
スネイプが答えた。品物がまだあることと、どうやら気を利かせた店主が取り置きしていたらしいことを知り、スネイプの機嫌が僅かに戻る。
「そうでしたか。あー、この子を預かっていただいても?」
奥の棚を見上げた女性が困ったように眉を下げる。スネイプは拒否を顔に出して後ずさった。
リリーとて子供が得意とは言えないし赤子を抱いたこともない。首が座り機嫌良く母親を見つめているとは言え、自分で大丈夫だろうか。
そんなリリーの不安をかき消すように女性が微笑む。
「この子ベッドは嫌いで。品物を用意するほんの数分だけ、お願いします」
ひょいと赤ん坊がリリーに差し出される。遊んでもらっているつもりなのか、キャッキャッとはしゃぐ赤ん坊は可愛いと思えなくもない。
早くしろと言わんばかりのスネイプをじとりと横目で見て、おずおずと赤ん坊を受け取った。
レタス食い虫よりもふにふにで、薬問屋にいるにも関わらずミルクのような甘い香り。真ん丸の目には母親と同じブラウンを備え、リリーの頬を触るぷくぷくとした手は温かい。
母親からリリーに渡っても赤ん坊はご機嫌そのものだった。邪魔にならないように少し母親から離れてみても、赤ん坊は楽しそうに笑っている。緊張したのは最初だけで、慣れてしまえばこの重みにも愛しさを覚えた。
私にも母性があったとは
意外な場所で意外な発見をし、リリーはクスリと笑う。赤ん坊はそれを気に入ったようで、元気に手をばたつかせた。
「終わったぞ。返しておけ」
リリーが赤ん坊の面倒を見ている間に支払いまで済ませたスネイプが呆れたように声をかける。カウンターの向こうで母親である女性がにこにこと嬉しそうに微笑んでいた。
リリーは何だか恥ずかしくなって、ぎこちない笑みを返す。
リリーが一歩カウンターに近づいたとき、スネイプが一歩カウンターから離れた。避けるような動きにリリーはニヤリと口角を上げる。一歩、一歩、わざとスネイプの近くを通るようにカウンターへ歩み寄った。
狭い店内では逃げ場もなく、スネイプが忌々しそうに顔を引き吊らせて鋭い視線をリリーに向ける。
リリーが赤ん坊を母親に返したとき、カランコロンとカウベルが揺れた。先程まで側にいた影はなく、リリーが慌てて後を追う。
「酷いですよ、置いていくなんて」
「用が済んだから出たまでだ」
路地を曲がる前に追い付いて隣に並ぶ。
「赤ちゃん、お嫌いですか?」
「君もそうだと思ったが?」
分かりながら押し付けたとは意地が悪い。しれっと返すスネイプにリリーが心で悪態をつく。
「赤ちゃんは人を虜にする魔法を持って生まれてくるらしいです」
「初耳だな」
「自分が生き残るために、周りの庇護欲を掻き立てる可愛さがあるんだとか」
昔読んだ本を思い返しながらリリーが言う。スネイプは鼻で嗤うだけだった。馬鹿馬鹿しい。少なくとも自分はそんなもの持って生まれてこなかった。
「教授、少し休んでいきませんか?」
三本の箒の看板が見えたとき、チラリと時計を確認してスネイプ教授の腕を引く。特別バタービールが飲みたいわけでも疲れたわけでもなかったが、この貴重な時間を少しでも引き伸ばしたい気分になった。
しかし勝算はない。スネイプ教授は一刻も早くこのバレンタインムードから逃れたいだろうし、手に入れた貴重な材料(結局何かは分からず仕舞いだった)をコレクション棚に並べたいに違いない。
「NO」と即答されるはず。リリーは殆んど諦めた顔でスネイプを窺い見た。
「良いだろう」
しかし返ってきたのは「YES」。リリーは思わず頬に手を伸ばし、ぎゅっと力を込める。
「痛い……」
「何をしている」
スネイプが三本の箒の扉に手をかけたところだった。促すようにスネイプが扉を開けて、リリーはエスコートされるまま入店する。
「バタービールか?」
「え、あ、はい」
「適当に座っていろ」
リリーが呆気に取られているうちに、スネイプはカウンターへと姿を消した。
一体何が起きているんだろう?
自分から誘ったくせに、今のリリーには猜疑心しかなかった。これから恐ろしい尋問でも始まるのではないか?親切に流されて気を緩めてはいけないのでは?そう思ってリリーは暖炉からほど遠い奥の席を取る。
数分ほどでスネイプが戻って来た。手にはリリーのバタービールと自分用の恐らくギリーウォーター。ほくほくと湯気のたつ温かなジョッキをリリーの前に置き、スネイプが向かいに座った。
「ありがとうございます」
これは飲んでも良いものか?真実薬でも入っているのでは?そう思わずにはいられなかったが、この状況で飲まないわけにもいかない。リリーは意を決してジョッキを持ち上げた。
凍りついていた指先にじんわりと熱が戻る。甘い香りに誘われて口を付ければ、香り以上の甘さと身体の隅々まで浸透していく温もりに包まれた。
「美味しい……」
大して回数は飲んでいないはずなのに、何故こんなにも懐かしい味がするのだろう。
リリーはほんの少し前までの疑心暗鬼が薄れ、ほっこりと大らかな気持ちで謝罪を込めた視線をスネイプに送る。
「――っ!?」
上げた目線の先でリリーはとんでもないものを見たと目を見開く。あのスネイプが笑っているのだ。嘲笑を含んだいつものではない。呆れ混じりの僅かに口角を上げただけの笑みだが、確かに彼は笑っている。
戸惑うリリーを余所にスネイプは人差し指を自身の口元にやり、トントンと示す。リリーが何のことかと首を傾げるとスネイプはたった一語で説明してみせた。
「泡」
「あっ!」
何のことはない。スネイプ教授は確かに笑ってはいたが、正しくは私が笑われていたのだ。
こんな失態が許されるのもティーンまで。倍ほども生きた私では控えめに言ってもキツい。
リリーは全身に散らばった温もりが顔に集まるのを感じた。急いでハンカチを取り出すと口へ当てる。
「忘れてください……」
「この歳になってまだそんな飲み方をするようなやつを忘れろとは、なかなか難しいことを言う」
スネイプはいつもの意地の悪いニヤリとした笑みに戻っていた。リリーはドッと疲れが押し寄せて、ハンカチに隠してため息をつく。
今度は気をつけよう。細心の注意を払って傾けたジョッキの向こうで、見知った白髪混じりのとび色が揺れた。
「リーマス!」
リリーが立ち上がり手を上げる。スネイプは眉を潜めて背後にいるであろう男の姿を振り返った。
「偶然だね、リリー。セブルスも、珍しい」
「一緒に飲んでいく?」
ルーピンの存在は無視することにしたらしいスネイプが舌打ちをしてグラスを煽る。スネイプが嫌がることは承知の上。リリーは二人でお茶をする空間に早くも堪えられなくなっていた。
「いや、ここで飲むつもりはなくてね。瓶で買っただけだよ」
ルーピンはカランと音をさせ紙袋を掲げる。
あぁなるほど、ポッターへのご褒美用か
リリーは一人納得し、手を振って店を出るルーピンに笑顔で振り返した。席に着き直すとスネイプのグラスは既に空で、早く飲めと視線が刺さる。
置いて行かれる覚悟もしながらリリーはハイピッチでバタービールを飲み進める。 しかしスネイプが席を立つことはなかった。
窓の外にはカップル、店内にもカップル、どこを見ても仲睦まじい二人組に溢れ、スネイプは仕方なく真っ直ぐ前を見た。
目が合えば喉を詰まらせたように顔をしかめる彼女が滑稽で、憐れみから「ゆっくり飲め」と声をかける。すると彼女は嬉しそうに笑い、またちびちびと飲み始めた。
今店を出れば歩く速度から考えてルーピンに追い付いてしまう。彼女はどうしたのかと聞かれれば面倒なことこの上ない。
スネイプは止むなしとため息をついた。
これほど手持ちぶさたも珍しい。ようやく手に入れた材料の使い道を考えながら、ぼんやりと眼前の消える泡の行方を追った。
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