ルーピンが復帰後初の授業を終えた日だった。
「まさか君が狼人間について授業したなんてね」
戸惑いと悲しみにほんの少しの懇願を滲ませたルーピンが自嘲に口を歪ませる。
「責めたいわけじゃない。君は間違っていないからね。今彼らに最も必要な知識だろう。ただ少しばかり、驚いただけ」
ルーピンの自室で向かい合って座るリリーと彼の間には、テーブル以上の距離があるようだった。すっかり湯気の消えたカップを見つめ、リリーはルーピンの言葉すべてを受け止める。
「君はこんな私の受け入れに尽力したとダンブルドアに聞いたよ。セブルスを頷かせてくれたんだってね」
いつまで経っても反応を返そうとしないリリーにルーピンは諦め混じりのため息をつく。そしてだらりとソファの背に身体を預け「何か言ってよ」と小声で洩らした。
「生徒は授業について何か言ってた?」
ルーピンの声が届いたのかリリーがここへ来て初めて口を開いた。視線はカップに向けられたままだが意識はルーピンの方に向いている。
「いいや。あまり、特には」
「そう」
「君が何も言ってこないから授業で何か失敗したんじゃないかって思ってた。だから私から話を振るのは止めたんだ。でも、違ったみたいだね」
ルーピンの声には温もりが滲み出ていた。
その事に気づくと、リリーは顔を上げ薄く微笑んだ。そしてハッとたった今意識を取り戻したように目を瞬かせ、時計を見るなり立ち上がった。
「ごめんなさい。スネイプ教授のところへ行かないと」
「忙しそうだね」
「リーマス」
「何だい?」
「私たちって、まだ友達?」
眉尻を下げて情けなくしょげた表情で子供のようなことを聞くリリーに、ルーピンは目尻のシワが伸びきるほど大きく見開いた。そして指先を擦り合わせながら恐々と窺っているリリーに優しい笑みを向けると、目だけを真剣なものへと変える。
「もちろん、友達だよ」
「ありがとう!」
リリーはすべての苦痛から解き放たれたような満面の笑みを浮かべ、鼻歌を始める寸前の軽い足取りで部屋を出ていった。
時間通り地下に現れた女はニヤニヤと嫌な笑みを浮かべ、馬鹿みたいに機嫌が良かった。いつもなら固く口を結んで行う作業も今日はへらへらと緩んだまま。
女はわざわざ研究室を暖め直すのも手間だからと仕事を私の部屋へ持ち込み、陣取ったソファとテーブルでツンと鼻につく臭いを撒き散らす。嫌味も苦言も受け付けず、何を言っても不気味な笑みを返すだけだった。
「気色の悪い……もっと気を引き締めて取り組んではどうかね?」
「今日の教授は随分とお喋りですね」
確かにその自覚がスネイプにはあった。目の前の仕事をこなす合間にこれほど彼女に話しかけたことはない。何故今日はこれほど口が滑るのかと考えて、目の前で発せられる悪臭に集中力を掻き乱されているからだと結論付ける。
すべてはこの女のせいだ
「集中なさらないなら、私の話を聞いていただけますか?」
スネイプの眉間の深さなど知る由もないリリーが指先を器用に動かしながら問う。聞いておきながら返事は期待していないらしく、既に口は次の言葉を紡ぐべく動いていた。
「今日は良いことがありました」
そうだろうな。スネイプは心の中で相槌を打つ。
「ルーピン教授と和解したんです」
喧嘩をしていたようには見えなかったが。現に朝食は二人揃っていたように思う。
「私、先週の代理授業で狼人間について話しました」
ほう、それは興味深い。
「狼人間について恐怖と不信感が植え付けられてしまう前に、色々考える機会を持ってほしかったんです。でもルーピン教授にすれば気分良くないですよね……」
だろうな。だからこそ私は狼人間を講義してやればいいと言ったのだが。
恐怖と不信感が植え付けられる前に、か。随分とお優しい心掛けではないか。
スネイプは口角を少し上げるだけで嘲笑した。
「もっと怒ったり冷たくされたりを覚悟してたんです。でもルーピン教授は私をまだ友達だって」
爪の汚れを取り除きながらリリーが目を細める。そしてまるで視線の先にその対象がいるかのように微笑んだ。
友達。子供騙しの仲良しごっこではないか。そんなことでこれほど喜べるとはな。
スネイプがインク瓶に向けたついでにと視線を睨むようなものに変えてリリーを見据える。
不意にリリーが顔を上げ、真っ直ぐスネイプへと向けた。本日何度目かの甘い笑みに、スネイプは迫るような何かを感じ机へ寄せた身体を起こす。ぐいっと顎まで引いて、眉間には深い渓谷を築いた。
「スネイプ教授はルーピン教授がお嫌いですか?それとも狼人間がお嫌いですか?」
未だスネイプを見据えたまま、けれど笑みは消してリリーが問う。
「両方だ」
突然自分へ向いた問いかけに、今度は声を出して答えた。間髪を容れず心のままに答えたと言うのに、当の女は納得いかないと顔を曇らせ視線をテーブルへ戻す。
「少なくともルーピン教授のことはお嫌いではないはずです」
今度はスネイプが顔を曇らせる番だった。
同じような話を学期前にもした。ダンブルドアとこの女は過去の愚行を棚に上げ、ルーピンを善人に仕立て上げようとした。
「ルーピン教授が倒れたとき、無事を確かめたスネイプ教授の態度は嫌いな相手に対するものではありませんでした」
「私情と仕事は分けられる」
「眉間がフッて柔らかくなったんです。それを見て私も安心しました。耐えるしかないと言われたときは、焦ってしまいましたけど」
自分の焦り様を思い出し、リリーが苦笑を浮かべる。
「好ましい相手であれば、そもそもあのように配合を変えた薬を飲ませないのではないかね?」
自分が「Yes」と言うまでこの話は何度でも甦るのではないか。そう感じたスネイプは理詰めで制してやろうと話に乗った。
「私はルーピン教授を好ましく思いますが、危険なトリカブトを多く入れたと知りながら、煎じ薬を渡しました」
「君はあくまで助手だ。我輩が決めれば従う他あるまい」
「いいえ。私は教授に『イエス』と答えるだけの人形ではありません」
「ご存知でしょう?」と女が嫌な笑みを浮かべる。なまじ知っているだけに言葉が返せなかった。
「我輩がルーピンをどう思おうと君には関係のないことだ。それとも、ルーピンに何か頼まれでもしたか?」
この方向では埒があかないと、スネイプが矛先を変える。
そう言えば学期前のやり取りでも話題を切り替えざるを得なかった。今はただ、何らかの決着をつけて早くこの話を終わらせたい。
過去のやり取りに連なって、魔法薬が好きだと熱弁した女の言葉が甦る。同時に、あの時感じた妙な空気も思い起こされて、誤魔化そうと舌打ちをした。
スネイプはインク瓶に浸したままになっていた羽根ペンを持ち上げ、ガリガリと羊皮紙を引っ掻く。
「ルーピン教授はそんなことされませんよ」
「やつも我輩を嫌っている。薬を煎じてもらう手前、多少のいい顔はしているようだが」
それでもネビル・ロングボトムを唆し自分を笑い者にした授業は思い出すだけで腸が煮えくり返る。ポッターやブラックに隠れ大人しく見えてはいたようだが、やつらと連めるだけのものをあの男自身も持っているのだ。
「それは誤解だと思います。以前も言ったような気がしますが、彼がスネイプ教授を悪く言うのを聞いたことがありません。それはきっと、口先だけじゃない」
馬鹿馬鹿しい。何も知らないくせに
スネイプは手を止め椅子にふんぞり返った。そして嘲笑を隠さず顔を歪める。
「だったら?嫌ってこない相手は嫌うなと?君の好いた相手が嫌われているのは我慢ならないか?」
リリーはぎゅっと口を結んだ。やがて決心したように身体ごとスネイプに向き直る。
「そうですね、私の言動は私情に塗れています。いい人がいい人だと正常に評価されないのは納得がいきません。みんなみんな色眼鏡で人を見すぎています」
「我輩の感情まで君に指図される覚えはない」
「そうですね!」
語気を強めて言い放ちガタリとリリーが立ち上がる。杖を振って机上を整え、早足で扉へ向かった。
「仕事は終わらせましたので」
扉に触れたもののリリーは開けようとせず、何か考えるような間を見せる。握った拳を振り上げ、振り向き様にスネイプを指差した。
「嘘も後悔もないので、言ったことは取り消しません。……ですが明日からはいつも通り、何のしがらみもなしでお願いします……」
二人の視線が合うことはなく、最後は力の抜けきった声だった。リリーは一礼をして、ボソボソと呟く。スネイプには「おやすみなさい、スネイプ教授」と律儀な挨拶が聞こえていた。
地下廊下を半ば駆けるようにリリーが通る。その風に揺らめく蝋燭を気に止める余裕などなかった。
初めは確かにリーマスの話をしていた。数年後、リーマスを救うため死喰い人に杖を向けるスネイプ教授が何故あんなにも意固地になるのか分からなかった。他人の前では素直にならないだけで実は、とか、そんな様子でもない。
もしかしたら悪化なのではと、そう考え出したら怖くなって、つい余計な口出しをしてしまっていた。冷静になって考えれば、シリウスの一件が片付くまでは仕方のない疑心なのだ。
しかし言葉を重ねていくにつれ、次第にリーマスへ向けたものではなくなっていった。正常に評価されずにいるのも、色眼鏡で見られているのも。
セブルス・スネイプ
彼の成し遂げたことは彼が亡くなった後に知らされる。彼の功績はその類い稀なる精神力と強い志で誰に悟られることもなく、時には大きな誤解を与えた。
巧妙に隠されていたのだから分かるはずはないと思いながらも、誰一人として彼を信じなかったことに憤りを感じずにはいられなかった。
学校のため労力を割いたり、困っていたら手を差し伸べてくれたり、私と祖父との思い出まで大切に扱おうとしてくれたり、小さな怪我一つでも気遣ってくれる。彼はそういう人なのに。
ミーハー心に毛が生えたものだったはずが、
私はいつの間にか、
それ以上の感情をスネイプ教授に抱いていることに気づいてしまった。
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