45 シリウス・ブラック


シリウスを探しに行くと決めたものの、具体的にはどうしようか。可能性が高いのは怪我や病気、飢餓。まだホグワーツにたどり着いていない可能性すらある。リリーは棚から適当な巾着を取り出すと、拡張呪文を唱えた。


厨房から食べ物を拝借するのは簡単だった。

屋敷しもべ妖精は何も聞かずにチキンやポテトなど頼んだものを用意してくれる。

対して医務室に忍び込むのは一筋縄ではいかなかった。

目くらましを自身にかけて入院する生徒の側を通り過ぎ、事務室に入るだけでも一苦労だった。なんとか包帯や元気爆発薬など簡単な治療セットを巾着に詰め込んで、最後に玄関ホールの箒置き場から箒を持ち出した。


「――っ!」


大きく心臓を跳ねさせながら、それでも声を出さずに済んだのは、箒置き場を出てすぐ合った目が猫のものだったから。

リリーはホッと胸を撫で下ろす。

透明な彼女の目を的確にとらえるその顔はつぶれたようにぺたんこで、ふさふさのオレンジの毛が元より大きな体に拍車をかけていた。


「クルックシャンクス?」


リリーは慎重に他の誰にも届かないような小声で猫を呼ぶ。猫は答えなかった。しかしじっと見つめていた視線を逸らし、大きな樫の玄関扉へトコトコと歩く。そして扉を何度か引っ掻いてから、再びリリーがいる場所を見つめた。

数秒見つめあってリリーは頷いた。しかし果たしてそれがクルックシャンクスに見えたかどうか。

開錠し扉を薄く開くと、スルリとクルックシャンクスが通り抜ける。時折リリーの様子を窺いながら、クルックシャンクスは禁じられた森へと入って行った。

まるで道案内をするかのように。


「ルーモス(光よ)」


月明かりが届かなくなり灯りを点けて、道から逸れた辺りで箒に跨がった。リリーの移動が早くなったのを知ると、クルックシャンクスもスピードを上げる。

箒に乗って10分、冷たいじめじめとした空気に鼻と耳が痛くなり始めた頃、クルックシャンクスが歩みを止めてこちらを振り返った。そして初めてその鳴き声をリリーに披露する。ナァン、ナァン、箒を降りたリリーが足を踏み出す度に窘なめるように鳴いた。


「分かった、待ってる」


通じるとは思わなかったがリリーの言葉以降クルックシャンクスは振り返ることなく大きな尻尾を振って奥へと進んだ。

土と葉の匂いが充満した空気を吸い込みながら、遠くで何かが小枝を踏む音や風に木が遊ぶ音を聴く。必要のなくなった目くらましを解いて時計を確認した。

待ったのは数分だった。しかし森の奥深くに一人取り残される心細さはリリーの時間を遅くさせた。


杖明かりに照らされて、先程見送ったオレンジの毛玉が現れる。その奥にギラギラと双眼が光っていた。唸り剥き出した牙が見える距離になると、大きな黒い犬が闇の中からぬっと影のようなその姿を現す。

リリーはゴクリと喉を鳴らし、杖を握り直した。箒はそっとその場に寝かせ、真っ直ぐ彼のギラついた目を見返す。


「こんばんは、シリウス・ブラック。牙を剥き出しにしながらで構わないから聞いてほしい。まず、私はあなたの敵じゃない。寧ろ現時点での唯一の味方。――あぁごめんね、そうだった。クルックシャンクスもだから、人間で唯一」


鳴き声ひとつで抗議をした賢い猫に謝った。緊張が早口と多弁となって表れる。犬は未だ姿勢を低くして今にも飛びかからんとしているが、幸い実行には移されていない。


「で、だ。卓越した犬の身体能力があろうと、杖なし相手に私は負けるはずがないと思ってる。でも、だからこそ私は、杖を手放す」


ゆっくりと手を開くと、重力に負けた杖がかさりと音を立て地面へ着いた。灯りが消え、ただの人間であるリリーにとっての暗闇が訪れる。

今や彼女は丸腰で完全な無防備だ。ドクドクと早鐘のように打つ心臓がまるで耳元にあるようだった。


「一先ずの信頼の証。何なら脱いで見せましょうか」


そう伝えてようやく、絶えず唸り声をあげ威嚇するだけだったシリウスが動いた。大きくガサリと草木を踏みつける音がして、ふわりと獣臭さが鼻に付く。

シリウス・ブラックは目の前にいる。

いつ咬まれてもおかしくない。しかし彼はそうしない。《本》から感じ取った人間性を信じるしかなかった。


あとは私の《呪い》が少しでも後押しをしてくれたなら


この状況で私が出来ることは、私が友好的な人物であると信じて貰えるのを祈るだけだ。

奪われた視界を補うように聴覚と嗅覚が冴える。 ガサリガサリと私の周りを一周し、フンフンと鼻を引くつかせたのが分かった。

じっくりとした値踏みが済んだのか、音と気配が遠ざかる。審判の時を待つように背筋に汗が伝った。


「誰だ?」


静かな森に潜むように、警戒心を露にした声が聞こえた。ふわりとした灯りが対峙した男の手から溢れる。シリウス・ブラックが私の杖を握っていた。杖持ちの殺人鬼に出会した丸腰の魔女なんて絶望的だが、彼はそうじゃない。


「私はリリー・エバンズ。ホグワーツで助手をしてる」

「私がアニメーガスだと知るのは友と裏切り者だけだ。お前はどちらから聞いた?」

「裏切り者ではないよ」

「どうしてここが分かった?」

「クルックシャンクスが導いてくれた」

「……賢い猫だ。それで?何故私を信じる。目的は?」

「目的は……」


口ごもる私に容赦なく杖が向けられる。今にも放たれそうな気迫に口内は干からびてしまった。

だが話さないのはそのせいじゃない。

目的……なんと説明すれば良いのか。私はただ《本》の予言を守りたいだけ。現れる日に現れるはずのあなたが来なかったから、様子を見に来た。などと馬鹿正直に話せるはずもない。


「言え!」

「話せない」

「この状況でもか!」

「話せない」

「……13人も14人も同じだな」

「それはあなたの罪じゃない」

「なんっ――」


不自然に途切れた問答。ぐらりと揺れたシリウスが支えを失い地面に倒れ込む。敵襲かと瞬時に見渡すが闇夜に浮かぶものも閃光もない。吸魂鬼の気配もなかった。クルックシャンクスですら何も警戒していない。


「ブラック?」


途切れそうな杖明かりを頼りに恐る恐る彼へと近づく。

そっと握った自分の杖は、いとも簡単に彼の手からスルリと抜けた。荒い息づかいに湿った肌、薄汚れて分かりづらいが顔色も悪い。触れた額は煮立った大鍋のように熱かった。

怪我じゃないならこれは――。


「熱風邪?」


リリーはマントを脱ぎシリウスを包む。杖を振って光源を別に用意してから担架を出してシリウスを乗せた。巾着からタオルを取り出して濡らすと固く絞って彼の額へ置く。


あとはどこか休める場所があれば


きょろきょろと辺りを見回すと、クルックシャンクスがこっちだと言わんばかりに鳴いた。信じて導かれると、着いたのは元は何か大きな生き物の巣だったであろう場所。

シリウスを寝かせ、持ってきた元気爆発薬を無理矢理に飲ませる。痩せ細った身体、パサついた髪、ボロボロになった服。それでも彼はここまで来た。悲願を達成するために。


「プロテゴ・トタラム(万全の守り)……カーベ・イニミカム(敵を警戒せよ)……スコージファイ(清めよ)」


巣の回りに保護呪文をかけて、ついでに薄汚れたシリウスにも杖を向けた。周りに燃え移らない火を出したがシリウスの震えは止まらず、彼に寄り添って座った。クルックシャンクスもシリウスの足元に丸まる。

リリーは眠れぬ一夜を過ごした。



・・・



「おはよう。体調はどう?」

「……悪くない。どういうつもりだ?」


早朝、鳥の囀ずりと共に耳から煙を出し終えたシリウスが目を覚ました。熱は下がったがまだ節々が痛みぎこちなく身体を起こす彼を制して、リリーが離れる。クルックシャンクスがシリウスの腕に顔を擦り寄せた。


「言えない。でもこれで分かったでしょ?私はあなたが元気でいてもらわないと困る。信じられないならそれでも良いから、あなたは私を利用して。とりあえず食べないと身体がもたないよ」


近くの倒木を小さなローテーブルに変え、巾着から取り出した料理を並べていく。もう一度杖を振ると料理が温まり、ふわりとチキンの香りが胃を刺激した。

シリウスは終始無言でリリーの一挙一動を観察していた。決して目を離そうとはしなかったが遮ることもなかった。

リリーがポテトをつまみ食いしたとき、ようやくシリウスが口を開く。


「お前に何の得がある?」

「たくさんあるけど言うつもりはない」

「何故マグル殺しが俺の罪ではないと言える?」

「……お互いとやかく詮索しない。で、どう?私はあなたがここへ来た理由を止めないから、あなたも私の事情に口を出さない」

「俺はハリー・ポッターを殺すかもしれないぞ」

「殺すの?」

「さぁな」

「あなたにはそんな気、これっぽっちもないでしょ」


言い切るリリーにギラリとシリウスの目が光る。彼女はにこりといつもの人を誤魔化す笑顔を作った。


「ねぇ、ブラック」

「止めてくれ。俺は家を捨てたんだ。シリウスでいい。お前は……リリー、だったか?」

「リリー・エバンズ。私の協力が気に入らないなら無視してくれて良いよ。じゃあ、そろそろ城中が起きる頃だから。お大事にね」


巾着と杖をローブに仕舞い、リリーは大きく伸びをする。

時刻は間もなく6時。朝食前にシャワーくらいは浴びられそうだ。今日が日曜日で良かった。リリーは躊躇いもなく欠伸をして、目を擦る。


「リリー」

「何?」

「俺はお前を信じていない。だがこいつに免じて、今のところは様子を見ることにする」


シリウスに喉元を擽られ、クルックシャンクスがゴロゴロと気持ちが良さそうに喉を鳴らす。


「十分だよ。あぁ、そうだ。ここに一応保護呪文をかけといたから。今のところ森で一番安全な場所だよ」


シリウスの返事はなかったが、リリーは構わず歩き出す。クルックシャンクスがすぐに追い付いて、足元を彷徨く。箒を回収して初めて猫とのタンデム飛行。クルックシャンクスはバランスも重心の移動もとても上手かった。




飛行で乱れた髪を整え、大きな樫の扉を薄く開いた。その僅かな隙間からこっそりと中を窺う。


「……あ」


一番見つかってはいけない影と目が合った。

リリーが言い訳の用意で固まっていると、スルリと隙間からクルックシャンクスが入って行く。自分は関係ないとでも言いたげに存在感のある尻尾を揺らし、悠々と大階段を上っていった。


「何をしていた?」


スネイプは今にも刺しそうなギラギラとした目を携え、大きく滑るように距離を詰める。リリーが薄く開けただけの扉を掴み大きく開くと、その悪の摘発に燃える漆黒の目をぐるりとリリーに走らせ箒で止めた。

「入れ」と「話せ」の両方の意味でスネイプは首を動かし、未だ目をさ迷わせ続けるリリーを促す。リリーが渋々玄関ホールへ踏み込むと、スネイプは扉を閉め、リリーへゆっくりと向き直った。


「それで?」

「朝の散歩に行っていました」


箒を握り締める手が強くなる。リリーは先程までの光景を胸の奥へと押しやって、ようやくスネイプの瞳を見つめ返した。


「私は生徒ではありませんし、行動に何ら制限はないはずです」

「ごもっともですな。だが、エバンズ先生?我々は生徒の模範となる行動を心掛けるべきでは?これはとてもそうとは思えんが」


「普段贔屓だらけのあなたが何を」と言い返したい気持ちをグッとこらえて、リリーは申し訳ないと反省した表情をして見せる。


「気を付けます」


遠くで誰かの話し声がして、リリーはこの尋問の終了を喜んだ。別れの挨拶代わりにクッと口角を上げてから、箒置き場へ逃げ込む。再び玄関ホールへ出たとき、既にスネイプの姿は消えていた。

この1日はとても長かったように思う。脱狼薬の調合からシリウスの看病まで、今日はゆっくり休みたい。大広間から漂い始めたいい匂いに誘惑されながら、間近に迫った睡魔に抗えず一歩一歩階段を上っていった。




太った婦人が切り裂かれたのは、それから2日後のことだった。







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