夜になって、リリーはようやく気持ちが落ち着いたと思えた。読むわけでもなくただ抱き締めていた《本》を元の箱に戻し、厳重に保管する。
よし、二人に会いに行こう
リーマスとスネイプ教授には情けない姿を見せてしまった。リーマスはきっと心配してくれている。スネイプ教授は……心配してはいないだろうが、驚かせてしまったと思う。涙で歪んだ視界にそんな顔の彼が見えた。
時計を確認して部屋を出る。夕食の終わった時間。今ならリーマスは部屋にいるだろう。
「リーマス、ごめんね、急に押し掛けて」
「夕食に来なかったから心配してたんだよ。セブルスも」
招かれた彼の私室でその名前を聞いて、眉間に力が入る。痛みを耐えるように口を歪ませたリリーに、ルーピンはソファを勧めて自分は使い古したヤカンを取り出した。
「ティーバッグだけど、落ち着くよ」
マグカップにお湯を注いでルーピンがリリーへ渡す。両手で受けとると、リリーは滲み出る茶葉のエキスを眺めながら言葉を紡ぎ始めた。
「ボガート、追い払ってくれてありがとう。あと、泣いちゃって、ごめんなさい」
「誰にだって恐怖はあるよ。私は満月が怖い」
お茶菓子にとチョコレートを出しながら、ルーピンが肩を竦める。向かい合って座ると、ルーピンが重心を前へ移し、リリーへ顔を寄せた。
「言って楽になることがあるなら、聞くよ。見たものを忘れてほしいなら、それでもいい」
柔らかな笑顔に真剣な目を携え、ルーピンは真っ直ぐにリリーを見た。良き友の誠意に触れ、リリーはぐっと胸を詰まらせる。
「見る前は自分の恐怖は何だろうって、わくわくすらしてたのに……情けないな」
優しいリーマスは静かに首を横に振ってくれる。
「いくら唱えても恐怖は形を変えるだけだった。スネイプ教授には私が見たもの――」
「言ってないよ」
「そう、良かった。ありがとう。気分の良いものじゃないだろうから」
「あのボガート、生徒たちにも見せてあげたくてね。まだ職員室の洋箪笥にいるから……」
「気を付ける」
本当に申し訳なさそうにルーピンが言った。《本》の予言通りの展開になるのだからリリーには嫌がる理由などない。リリーはにこりと笑って雰囲気を変えようと取り繕う。
「その授業、私も見学して良い?」
「え、でも……」
ルーピンは躊躇いを見せる。またリリーがボガートと対峙する羽目になるかもしれないと危惧しているようだった。
「後ろでひっそりとしてるから。邪魔なら無理にとは言わないよ。リーマスの授業を見てみたいだけ」
「……分かった。その代わり、職員室でやるから部屋の準備と片付け、手伝ってくれるかい?」
「もちろん!」
その後は、ティーバッグのどこかもの足りない紅茶を飲みながら、和やかな会話が続いた。そろそろおいとましようかと考え始めた頃、ノックの音で会話が中断される。
ルーピンはうっすらと扉を開け訪問者を確認すると、リリーを隠すように立ち位置をずらした。
「セブルス、今日の分はないんじゃないかって思ってたよ」
「貴様の、ためでは、ない」
一語一語に不満を絡めながらスネイプが言い放つ。煙の上がるゴブレットをルーピンに押し付けると、すぐに飲めと催促した。
「はいはい、飲みます飲みます」
ガブリ、ガブリ、と良く言えばヨーグルトのようなどろどろの煎じ薬を半ば食べるように飲み下す。顔をしかめた目の前の男にほくそ笑んで、スネイプは空になったゴブレットを引ったくった。そして少しでも早く立ち去りたいと言わんばかりに踵を返す。
「スネイプ教授!」
ルーピンの後ろから顔を出すと、彼は驚きながらも扉を大きく開けてリリーが話しやすいようにと場所を譲ってくれた。数歩離れて止まったスネイプは振り向いて片眉を上げる。続きを言え、の合図だ。
「このあとお部屋へ伺っても宜しいですか?」
「仕事を強請るには時間が遅すぎるのではないかね?」
「お話がしたくて」
言ってはみたものの、何をどう言うかなんてまだ決めていない。驚かせてごめんなさい?もし心配してくれたならありがとう?ただ何も言わないまま日常に戻るのは、シャワーを浴びないで寝るような気持ちの悪さが残って嫌だった。
スネイプは頷くでも拒否するでもなく、じろりと二人を睨み付けてから再び廊下を歩き出した。
何も言わないのは、彼なりの承諾だ。
「リーマス、今日はありがとう。今度ホグズミードへ飲みに行こうよ、奢るから」
「美味しいものなら大歓迎だよ」
口に未だ残るえぐみと苦味を指しながら、ルーピンが眉尻を下げて笑う。「また明日」と「おやすみ」を言い合って、笑顔で別れた。
消灯前の人気のない廊下を一人で歩く。
スネイプ教授を見たとき、真っ赤に染まった彼の姿が一瞬頭を過った。ゆっくり瞬きをすれば消え去っていたが、今も瞼の裏にはこびりついた鮮血が拭えずにいる。
文字で見るよりも、強烈だ
腸を抉られるようなイメージを深呼吸して奥へと隠す。スネイプ教授の私室が目の前に迫っていた。
コンコン
いつもの軽快な音で部屋の主へお伺いを立てる。
「リリー・エバンズです」
名乗らなくともこんな時間の来訪者など限られているのだろう。言い終わる前に開いた扉を潜れば、奥にはいつもの事務机と対面する男の姿があった。
「そこへ」
羽根ペンを持ったままのスネイプがソファを指す。向かい合わずに済むことに安心して、リリーは暖炉側のソファへと腰を下ろした。
「それで?」
彼の仕事が終わるまで待つつもりでいたが、彼はそうではないらしい。広げた羊皮紙に目を走らせながら、数分前の続きをするように切り出した。
面と向かってグリグリと視線で穴を開けられながら話す覚悟をしていたリリーにとって、スネイプの態度は拍子抜けするものだった。
「職員室でのこと、申し訳ありませんでした。恥ずかしい話なんですが、ボガートに対処できなくて…」
スネイプは伏せ目がちに苦笑する女を覗き見た。目の前にスネイプがいないことに分かりやすく安堵した様子で、深く座りながらも前傾姿勢を保っている。
「何を見た?」
スネイプが小細工なしに疑問をぶつける。スリザリンらしからぬ狡猾さの欠片もない自身の問いかけに心の中で嘲笑い、眉間のシワを深くした。
ルーピンがどう感じようと関係ない。一年間、この女にずっと注意を向けてきたのはこの自分である。何を見、何を感じ、何故ここにいるのか。答えの隠された問いに挑んできた。
ボガートは恐怖を体現する。奥底に仕舞い込んだ恐怖ですら見透かしてみせる。喜怒哀楽の動機は人となりを見極めるのに非常に有用だ。この女が何を見たのか分かれば、その片鱗を掴めるはず。
何よりルーピンが知っていて自分が知らないと言うのは納得がいかなかった。
『君にだけは知られたくないと思うよ』
思い出した男の言葉に虫酸が走る。
「色々です。呪文を失敗して、次々に」
たっぷり間を空けてリリーが答えた。指先を弄びながら、しかし創作している風でもなく、彼女が続ける。
「私は、私のせいで誰かが傷つくのが怖い。命の零れゆく様を見るのが怖い」
黙ったままのスネイプをチラリと見て弱く微笑むと、再び視線を指先へと移す。
「ルーピン教授には秘密にしてください。色々あった中で、私は血に濡れた教授を――狼人間を見ました。他の誰かを、傷付けた姿です」
リリーは自分の爪を見て、そこが真っ赤に染まったかのように強く拭う。収まっていた震えが再びリリーを襲い、耐えきれずに自分を抱いた。
「杞憂だな。あいつには薬がある。君が責任を持って飲ませるのだろう?」
スネイプは馬鹿馬鹿しいと鼻で嗤いながも暖炉の火を強くした。
彼女は寒さに震えているわけではない。ただの気休めだった。自分には暑すぎるこの部屋も、今の彼女には丁度良いらしい。力を入れすぎて白くなった指先に、再び血が巡りだす。
「そうですね」
答えた声は消えそうなほど小さく、心はこれっぽっちも込められていない。スネイプはその声の不審さに眉を潜めるが追及はしなかった。
『色々』と言う彼女の言葉に嘘はないのだろう。ルーピンの見たものと、私の聞いたものは違う。それでも深く突っ込むことはない。してしまえば、何かを失うような気がした。
失って困るものなど、もう何もないというのに
「部屋へ戻ります」
日付が変わり少しした頃、ようやくリリーが立ち上がった。いつもの笑みを申し訳なさそうなものに変えて、スネイプに向き直る。
「謝りに来たのに、居座ってしまってすみませんでした」
「明日の放課後、時間を取れるか?」
すっかり元通りになった顔でリリーがぱちぱちと瞬きをする。
「お仕事ですか?」
「脱狼薬の試験だ」
「試験?」
「午後の授業が終わり次第来い」
「分かりました」
「おやすみなさい、スネイプ教授」と言われれば、無視するわけにもいかず、いつものように「おやすみ」とだけ返した。
死に怯えるのはありがちだが、実感を伴わなければ恐怖として現れはしないだろう。
彼女は一体どんな経験をした?
差し迫る死でもあるというのか?
ルーピンに関しても不可解だ。もっと不可解なのは、その時の自分の判断だ。彼女がどうなろうと知ったことではないはず。責められはしようが風当たりの強さなど今に始まったことではない。だというのに、何故。
スネイプは暖炉の火を消して、蒸れる暑さに上着を脱ぎながらシャワーへ向かう。
血濡れているのは私の方だ
手には奪った命がこびりつき、左腕には消えない染みがある
どうしようもない苛立ちを壁にぶつけ、じわりと痛む拳に舌打ちをする。流れ出るシャワーの音が悲鳴のような甲高さを孕んだ。
← →