ホグワーツへ出発する日がやって来た。最後の夕食くらいは自分で作ろうと、ドビーに譲ってもらいキッチンに立つ。
その間スネイプ教授には店番をしてもらっている。滅多に人は来ないものの、店のワシミミズクがそろそろ仕事を終えて帰ってくる時間だった。
しかし朝から彼の機嫌はすこぶる悪い。会話らしい会話もなく、今日彼が発したのは「あぁ」だけ。それもこれも日刊予言者新聞の一面のせいだ。とうとうシリウス・ブラックがアズカバンから脱獄した。
今この世でシリウス・ブラックの無実を知るのは私と本人だけ。いや、ピーター・ペティグリューを含めれば三人か。私はいつからか《本》の予言を疑おうとは思わなくなっていた。
ブラックの脱獄からも推測できる通り、私の影響はホグワーツ外では見られないようだった。
ホグワーツに所属しているから、アズカバンや魔法省には関与していないから、或いはただの偶然にすぎない。色々と考えられるが、私としては「所属」が大きな原因ではないかと結論付けてしまう。
私がホグワーツを辞めれば悪化は解決するのではと
逃げない、私がレールを引き直す。そう決めた以上、机上の空論でもうダンブルドア校長を煩わせたくはない。私が何とかしてみせれば良いだけの話。困難だが単純だ。
料理は魔法薬の調合ほど私を夢中にさせてはくれなかった。不揃いな具材も強い火力も自分勝手な調味料も、料理は受け止めてくれる。
シェパーズパイに温野菜、オムレツ。思い付くままに作ってはテーブルへ並べる。豆のスープをかき混ぜながら、こんなものかと仕上がりに満足していると、テーブルのセッティングをしていたドビーがピクリと大きな耳を動かす。
「リリー・エバンズにお客が来ています!」
「私に?」
それならスネイプ教授が呼びに来るはず、と扉を見るが一向に開く気配はない。
「リリー・エバンズは早く下へ行かなくてはなりません!」
その優れた耳で何かを察知しているのだろう。ドビーはぐいぐいとリリーを押しやりながら、指を鳴らして扉を開ける。
「出ていけ!」
ちょうど廊下へ踏み込んだとき、階下からスネイプの怒鳴り声が聞こえた。弾かれるようにリリーが階段を駆け降りる。
「スネイプ教授!何が…リーマス!」
リリーは店のカウンターから飛び出した。杖を掲げるスネイプの背中越しに目に入ったのは、白髪混じりの鳶色にやつれた顔。一層青白くさせたその横へ両手を掲げるリーマス・ルーピンの姿だった。
「ダンブルドアのご指示でね」
相変わらず手を上げたまま困ったような笑みを浮かべるルーピンに、リリーは駆け寄った。追い抜き様、杖を下ろすようスネイプの手にそっと触れる。
「何の用だ」
触れられて下ろしかけた手を再び構え、スネイプが怒気を隠さず声を張る。リリーは二人の間に立つと、宥めるように両手を翳す。
「スネイプ教授、彼はお客様です。恐らく、私に」
リリーがチラリとルーピンを覗き見る。「いかにも」と彼が頷いたのを確認し、視線をスネイプに戻した。
「我々は理性ある人間です。獣のように出会い頭で争うことはありません」
スネイプの様子を窺いながら、リリーはそっと彼の杖先を手のひらで覆う。ドクドクと波打つ心音が手のひらから杖を伝って彼に届いてしまいそうだった。やがて歯を剥き出し唸りながらも、スネイプは腕をダランと下げた。
「理性ある人間…どうだかな」
吐き捨てるようなスネイプの言葉の鞭は、鋭くしなってルーピンを打つ。困った表情を自虐的なものに変え、それでも尚、ルーピンは笑った。
「ダンブルドアが私に手紙を寄越してね。またリリーを頼みたいと。住所と日付もあったから来たんだけど…お邪魔だったかな?」
「いや、邪魔だなんて。ただ、私たちは知らされていなかったから…」
同意を得るように見つめるリリーの目をスネイプは鼻で笑って撥ね除ける。
「我輩は帰る。貴様は馬鹿犬のように主人に尻尾を振っていろ」
言い終わるなりスネイプは踵を返し、足音を鈍く響かせた。残されたリリーとルーピンは顔を見合わせ同じように眉尻を下げる。
「私は彼に嫌われててね。巻き込んで悪かったよ」
「ううん、朝から教授も虫の居所が悪くて」
「朝から?」
「三日前から、校長のご指示で彼もここに」
短い会話を続けていると再びドスドスと大股な足音が近づき、鋭い眼光を引っ提げたままのスネイプが現れた。その後ろに心配そうな緑の大きな目が覗く。リリーは心配ないと片手だけでドビーを制し、スネイプのために道を開けた。
「スネイプ教授、ありがとうございました。また学校で」
止まることも振り返ることもなく、荷物を抱えスネイプは出ていった。似つかわしくない軽やかなカウベルの調べを残して。
「ダンブルドアの手紙、聞いていなかったなら確認したいよね」
スネイプの気配が消えたことでようやく腕を下ろしたルーピンが、継ぎ接ぎだらけのローブからよれた封筒を取り出した。そこには見覚えのある細長い文字とダンブルドアの署名。今日から一週間、リリーの家を訪れてほしい旨が記されていた。
「分かった。またよろしく、リーマス」
「君の言った通り、また会えたね」
「店に招待することも。厳密には、ダンブルドア校長の招待だけど」
リリーは肩を竦めおどけてみせる。どちらともなく声をあげて笑い、久々の再会を祝して固くハグをした。
「そうだ、もう一人紹介しておかないと」
「誰か来ているのかい?」
リリーの手招きにより、ドビーが丸い目で見上げながら窺うように薄く笑みを浮かべて現れる。ひょこひょこと歩く小柄な身体に、ルーピンは少なからず驚いたようだった。
「屋敷しもべ妖精のドビー。私の友で、雇ってるの」
「雇ってる?」
驚きを声に乗せたルーピンに、リリーは肯定を兼ねて微笑む。ドビーは友と呼ばれたことがこの上なく誇らしいと胸を張り、ルーピンに軽く手を振った。
「こちらはリーマス・J・ルーピン。同じく私の友人で、今日から一週間ここに居てもらうことになった」
「よろしく、ドビー」
ドビーの目線に合わせしゃがんだルーピンが、節張った手を差し出す。ドビーはその手を見つめてからキラキラと輝く緑をリリーに向けると、にぃっと口を歪ませルーピンの手を取る。
「リーマス・J・ルーピンはいい人です!」
「でしょ?さて、リーマスが夕食まだだと良いんだけど…一人分余ることになっちゃったから」
「折角作ったのに」と愚痴りながら、リリーは家の案内を始めた。キッチンへ飛び込むドビーに残りの仕度を任せ、少し前までスネイプのいた部屋を開ける。
「教授が帰られて空いたことだし、ここを使って。祖父の遺品があるけど、適当に退けて良いから」
「分かったよ、ありがとう。…あれも?」
ルーピンが指差したのは丸テーブルに乗った白い封筒。
「いや、スネイプ教授の忘れ物かも…」
言いながら近付いたリリーを追って、ルーピンも中へと進む。手に取った封筒には、宛名の代わりにメッセージが書かれていた。
「『リリーがいつかこれを見つける日が来ることを願って』?」
リリーのすぐ後ろでルーピンが訝しげな声で読み上げる。
「おじいちゃんの字…」
まさか四年経った今、こうして懐かしい字に会える日が来るなんて。夏の暑さとは違うじんわりとした温もりが胸に広がっていく。
「私は先にキッチンへ行ってるよ」
「ありがとう、リーマス…」
肩に置かれたリーマスの手を感じながらも、意識は既に封筒へと向いていた。一体ここに何が仕舞われているのか。封のされていない封筒を開き、震える手で中の紙を引き上げた。
夕闇に逆らって照らす室内灯がリリーを優しく見守る。
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