ジリジリと焼けつく真夏の太陽光を浴びながら、スネイプは書類に目を通す。そこには夏期休暇中に打ち込んだ魔法薬の研究成果を綴っていた。実験器具の何もないこの場所で、経過だけはまとめておこうと持ち込んだものだった。
明かりの不足した室内で、スネイプが数時間振りに顔を上げる。着いたときには真上にあった太陽が、いつの間にか消えようとしていた。
スネイプはすっかり癖になった眉間を解すと、ついでに身体も伸ばしておこうと立ち上がった。
宛がわれた部屋はホグワーツの寝室と変わらないほどの広さで、シングルベッドにサイドテーブル、上部がガラスのキャビネットと今しがた使っていた丸テーブルの簡素な作り。余計な装飾のないインテリアに部屋の元持ち主の人柄を感じ取る。
ガラスに映った自分の疲れた顔にため息が出た。自室には自分を映すものは何も置いていない。慣れない感覚に布で覆ってしまおうかと杖を出す。
そしてガラスへ向けた手を、止めた。
並べられた蔵書の中に、一つ毛色の違うものが見て取れた。他人の家で家捜しなど無神経だという良識くらいは持ち合わせている。しかしどうしても手に取ってみたいという衝動に抗えなかった。
ガラス越しに閉めた扉を確認する自分の滑稽なこと。鼻で嗤えば同じくガラスの男も嘲笑を返した。
本だと思ったものは、アルバムだった。記憶の糸を辿っても、彼女に祖父以外の家族の話を聞いたことがない。尤もそんな間柄ではないし自分も話す気などないのだが。
もう手にしてしまったのだから、とスネイプは無遠慮にページを捲る。美しい女性と隣で笑う幼い女の子。しかし少女の笑みはある日を境に消えた。そしていつも隣にいた女性の姿がないことに気づく。ありがちな家庭の事情だろう。笑顔の写真が残されているだけまだましだ。
スネイプは尚もページを捲る。無表情であまり動こうとはしない彼女とそれを優しく見つめる老齢の男性。何かが記憶を掠めたような気がした。
教え込まれた作業のように淡々とページを追っていた手が、あるページでピタリと止まる。
「リリー……」
スネイプは慈愛に満ちた瞳で写真の中の彼女に縋る。隣で笑うボサボサ頭の高慢な顔を無視すれば、監督生と首席の集合写真だと分かった。
この頃の彼女は既に自分にこの笑顔を向けてはくれなくなっていた。消え去りはしない激痛と遠い過去の温もりがフラッシュバックする。
どれ程の時間をそうしていたのだろう。スネイプは突っ立ったままアルバムを手に、太陽が沈んで彼女が判別できなくなったあとも写真に触れていた。
コンコン
不意にノックが響いた。ようやく現実に引き戻されたスネイプは自分の状況を省みて、慌ててアルバムをキャビネットに押し込む。その拍子にひらりと舞い落ちた封筒を一先ず自分のポケットへと忍ばせた。
「何だ」
扉を開けたスネイプ教授の向こうに見える祖父の部屋は真っ暗だった。
「起こしてしまいましたか?夕食の準備が出来たので、お呼びしに来ました」
「分かった、行く」
リリーは部屋の様子から寝ていたのだと判断したが、キッチンの灯りに照らされたスネイプの顔はとてもそうは思えなかった。憔悴し覇気はなく、一気に老け込んだような顔。
何かあったのだろうが、それを聞いても良いのか分からない。元気付けようにも彼を喜ばせるものが何か分からない。そもそも喜んで元気になる彼の様子が想像出来ない。
この1年、少なくない時間を彼と過ごしてきた。しかし彼を何も知らないことに、改めて気付かされる。
彼のことをもっと知りたい
かつてリーマスに感じたように、語られない彼の人生の一部を胸に刻み付けておきたい。彼のいない未来を知りながら、そこへ向けて歩く私の贖罪。
リリーの希望で共に食卓を囲んだドビーの高い賑やかな声だけが、暗いキッチンの空気を震わせていた。
翌朝、リリーは悪夢に魘され目が覚めた。いつもの夢だった。母に《呪い》をかけられた日の夢。
サイドテーブルの水差しを手に取るが軽い。確か夜中に起きて飲み干してしまったんだった。こんな日は店のカウンターでお気に入りの本を読むのが常だが、その前にキッチンへ寄ろう。
カーテンの隙間からは朝日が射し込み、道を指すように光の柱が伸びていた。
まだ眠い目を擦り寝起きのせいだけではない気怠さを引きずって、廊下を挟んだ向かいの扉を開く。
「おはようございます、リリー・エバンズ!」
リリーを迎えたのは拳大の緑の目と高い鉤鼻を引っ提げた闇色の目だった。柔らかなミルクティーと芳ばしいベーコンの焼ける香り。数年振りに感じる温かな我が家。
ぐっと込み上げたものが胸に詰まる。窒息しそうなのにこの場で吐き出したくはない。
じわりと潤む目を隠すように、開けたばかりの扉を閉めた。直ぐ様駆け込んだ自室でリリーは膝を抱える。
ダメだ、今日はタイミングが悪かった
悪夢にぐらついた心で一人じゃない家を見てしまったから。何の心構えもせず温かな扉を開いてしまったから。この1年、幾度となく砕いた心を治しきらないままだったから。
ヒビにズドンと突き刺さってしまった
次から次へと滲む涙を零す間もなく服が吸い取る。
二人は不審に思っただろう。一体どんな顔をして合わせればいいのか。少しでも早く落ち着きたくて、胸に詰まったものを口から出すように息を吐いた。
「リリー・エバンズ?」
リリーの消えた扉を見つめ、ドビーが調理のために登っていた台から飛び降りる。
「止めておけ」
「ですがリリー・エバンズは泣いていたのでございます!」
「お前は仕度を続けろ。整えば我輩が呼びに行く」
ドビーは主人ではないスネイプの言葉に従うかどうか、決めかねているようだった。
「……頼む」
おおよそ自分から発せられた言葉とは思えなかった。屋敷しもべ妖精相手に『頼む』とは。ドビーは気を良くし大きく頷くと、にっこりと大きな口を動かして手を擦り合わせた。
昨日は何もする気が起きず、早めに就寝した。それが早起きに繋がり、まさかこのような場面に遭遇することになろうとは。
屋敷しもべ妖精に言われずとも、忽ち潤んでいった瞳からは目が離せなかった。黙って拝借した本について一言言うつもりでいたが、これではな。
ドビーの入れたミルクティーを飲み干すと、スネイプは読みかけの本を閉じた。そして黙って立ち上がり、キッチンを出て一階の店へ降りていく。
薄暗い店内には商売道具でもある大きなワシミミズクが二羽、止まり木で羽根を休めている。繋がれているわけでもないのに、朝早くスネイプが降りたときと何ら変わらない場所で大人しく待機していた。
スネイプは自身を追って動くふくろうの首に居心地の悪さを感じながら、本を元の場所に差し入れる。専門書に教科書、童話などあらゆる本が集まったこの場所なら、残り2日も退屈せずに済みそうだった。
キッチンへ戻ると、既に朝食の用意が整っていた。ドビーはスネイプの到着を待ち侘びていたと言いたげな目で見上げ、扉の方へ首を傾ける。
「分かっている」
また眉間に力が入るのが分かった。スネイプは開けたばかりの扉を閉めて、背後の扉に向き直る。
コンコン
落ち着いて深呼吸を繰り返していたとき、扉を叩かれた。扉に付けた背からも響きが伝わり、リリーは肩を震わせる。
「……はい」
大丈夫、声は震えてない。涙も止まった。このくらいなら顔も大して酷くはなっていないはず。廊下を行き来する足音、扉を叩く手の高さ、向こうにいるのはスネイプ教授だ。迷惑に迷惑を重ねて何とも情けない。
「朝食の用意が出来た。我輩が別の部屋で食べるから、君はキッチンへ来ればいい。しもべ……彼が心配している」
「いえ!もう大丈夫です。すぐに行きます。スネイプ教授……ありがとうございます」
返事はなかったが、言い終わって数秒間を置いてから彼の離れる足音が聞こえた。こんな後で一緒に食事など気を使わせるに違いないが、このタイミングを逃せば益々顔を会わせ辛くなる。
昨日は教授で今日は私。いつもと変わりないのはドビーだけ。手早く鏡で顔を確認し、頬を叩いて気合を入れた。縦へ横へ顔の筋肉を動かして笑顔を作る。
よし!
「おはようございます」
ふくろう用に開けた窓から運ばれる夏の青々とした匂いが、ベーコンとコーヒーの香ばしさと混ざり合いリリーを包む。明るさを取り戻した空は陰る雲を吹き飛ばし、清々しい朝をスタートさせた。
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