「遅い」
ギィと鳴った扉の音で、スネイプはため息をついた。大鍋からはゆらゆらと湯気が立ち上ぼり、かき混ぜる自身の額にはうっすらと汗が滲んでいる。
「ご友人と共に逃げ出すのではなかったのかね」
「私は、逃げる理由がありません。代わります」
「その前にもう少し息を整えておけ。手元が狂われては目も当てられん」
「……はい」
彼の尤もな発言に大人しく従う。八階のグリフィンドール塔からここまでリリーは駆け下りて来ていた。息は肩でしているし、座って冷たいハーブウォーターを飲めるなら、この男にだって感謝のキスを贈るだろう。
「教授は今回の襲撃事件についてどうお考えですか?」
「なんとも。私見を語る趣味はない。直にミネルバがダンブルドアを呼び戻すだろう」
「ジニー・ウィーズリーは――」
「君には」
整い始めた息とは別に震えたリリーの声を遮って、スネイプの重厚感のある低い声が重なる。
「――君のやるべきことがある。他は、他のやるべき者がやる」
力強いスネイプの目がリリーのさ迷う目を捕らえる。彼はその目のまま顎をくいっと動かし、柄杓を僅かに上げた。交代の合図だ。「集中しろ」柄杓を受け取りながら出された指示は簡潔で、揺らぐ心にしっかりと染み渡っていく。
私には私の役目がある。悪化を防ぐことだけが、今の私の役目ではない。
大鍋の中は濁った翡翠色をしていた。つき始めたとろみがかき混ぜる柄杓に絡み付き、一層の重みとなって腕にのし掛かる。
腕の怠さから解放されたスネイプは隣室へ姿を消したあと、本を片手にすぐ戻ってきた。丸椅子を引き寄せると大鍋の近くへ置き、本に目を落とす。
「君が注意を向けるべきは我輩ではない」
真っ黒な髪のカーテンから覗く瞳は大鍋の熱気に当てられ情緒的に揺れた。見上げるような視線は珍しくもない仕事を言い渡されるときのそれなのに、吸い込まれるように視線が外せなくなる。
「エバンズ」
苛立ちを含んだ強めの口調で名を呼ばれ、はっと我に返る。
「まともに熟せないようなら出ていけ。調合は我輩一人でも事足りる」
「いえ――いえ、させてください。集中します」
「火を少し弱めておけ」
「はい、教授」
それからたっぷり1時間、火の燃えるチリチリとした音、ページを捲る紙擦れの音、柄杓の動きに合わせた水音だけが部屋を支配した。
「交代だ」
パタンと閉じた書物を丸椅子に置き、スネイプ教授が柄杓へ手を伸ばした。じっと大鍋を覗き込み、念入りにとろみを確認していく。持ち上げた柄杓からゆっくりと途切れることなくマンドレイクのエキスが大鍋へ帰っていった。
「あと少しで仕上げに掛かれる。今のうちに何か口にしておけ」
「教授も召し上がりますか?」
「不要だ」
「では私も」
「……ミネルバに煎じ薬の進行を報告してこい。次いでに向こうの状況も聞いておけ。――20分だ」
「はい!」
弾かれるようにリリーは部屋を飛び出した。
一人になった研究室で、スネイプは誰に聞かれることもなくため息を洩らした。何か陰があると、この1年注視してきた女を自ら駆り立てるような真似をするとは。
何度か覗き見ようと試みた心の内は不自然なほどに整えられていた。後ろめたいことが奥に隠してあると言わんばかりの様子に、すぐさまダンブルドアに進言した。
というのに、あの男は『彼女の身の保証はわしがする。セブルス、きみと同じじゃ』と宣った。
私と同じ?馬鹿なことを!
あの飄々とした笑みは、そう言えば私が口を噤む他ないと知っている。おまけに『今後も彼女を見ておくのじゃ。必要とあらば手を差し伸べてやってくれ』だと!何も情報を与えやしないくせに、都合よく人を操ることに長けた老魔法使い。
スネイプは再び息を吐いた。細く長い呼吸で自らを落ち着かせ、大鍋へと意識を集中させる。割り切れない凝りを胸に押し止め、今はただ自分に課せられた役目に没頭する。
研究室を出たリリーがまず向かったのは三階の女子トイレだった。マートルに見つからないよう薄く開けた扉からは、ポッカリと空いた手洗い台が主人の帰りを待ちわびるかのように鎮座していた。
ポッターたちは《本》の通り、秘密の部屋へと向かった。中では今何が起きているのだろう。いや、今、どこまで進んだのだろう。ダンブルドア校長は、フォークスは今どこに。
校長室へと踏み出した足を、マクゴナガルの私室へ向けた。上手く運べばそこだけで欲しい情報がすべて手に入る。止まることのない時計をチラリと確認し、長い階段を駆け上った。
コンコンコンッ
「リリー・エバンズです」
中から返事が聞こえるまでの一瞬も、リリーには長く感じた。そわそわと落ち着かない気持ちを身体全体で表現し、タンタンと無意識に踏み鳴らす自分の足音にさえも苛立った。
「リリー!薬が出来たのですか?生徒たちは?」
「いいえ、教授。ですがもう間もなく――ダンブルドア校長!」
開いた扉の奥でふわりと揺れた長い白髭。カッと見開いたリリーの目いっぱいに飛び込んできたのは、待ち望んだ恩師の姿。
「えぇ、校長先生は先程戻られました」
「理事と話すのにちと手こずってしもうての。ミネルバから話を聞いておったところじゃ」
「校長、あの、私!」
ポッターは秘密の部屋へ向かった。何か悪化しているかもしれない。私も行くべきだったろうか。言いたいことは色々あったが何をどう伝えるべきか、口まで出かかった言葉が詰まってパクパクと魚のように喘ぐしかできない。
「心配は不要じゃ。ミネルバ、校門までウィーズリー夫妻のお迎えを頼めるかな?」
「分かりました」
心配事は山ほどあると言いたげな顔で、それでもキビキビ返事をし、マクゴナガルが出ていった。
「さて、わしは医務室で薬の到着を待つとしようかの。リリー、途中まで一緒にどうじゃ?」
「はい、校長」
不安が消えることはなかった。だが隣を歩く最高の魔法使いの存在が、リリーを穏やかにした。ダンブルドアはまるで事件は解決しているかのようにゆっくりと歩き、学校を抜けた2週間について話した。
「きみの元へ現れた本は何の痕跡も残しておらなんだ」
「そうですか……」
「1年前、きみが本を見せてくれたときも、強い魔力は感じなかった。即ちそれが、痕跡なのじゃ」
「つまり……?」
「わしにもさーっぱり分からん、ということじゃ」
両手を広げおどけてみせる好好爺に、リリーは真ん丸にした目を瞬かせた。ダンブルドアはウインクをして半月眼鏡の奥を光らせる。
「わしは極めて優れた魔法使いであると自負しておる。そのわしが何の糸口も見つけられんということは、魔法の関与は極めて否定的だということじゃ」
「ならばどうやって?」
「わしもそれを知りたい。さて」
気づけば医務室と地下への分かれ道に来ていた。
「フォークスを見ておらんかの?どうやらわしの不在に腹を立てて出掛けてしもうたらしい。どういうわけか、組分け帽子も消えておる」
「――っ!いえ、ですがきっと、すぐに戻って来るはずです。すべて」
「きみがそう言うのなら、そうなのじゃろう」
にっこりと、お互いにしか分からない笑みを浮かべた。フォークスは既にポッターを助けに向かっている。こんなに頼もしいことはない。ポッターは一人向かった秘密の部屋の奥底で、誠の信頼を示してみせた。
「遅い」
駆け戻った研究室。お決まりとなった文句でスネイプが唸る。
既に巨大な鍋の火は消えていて、代わりにすぐそばで三回りほど小さな鍋が火にかけられていた。マンドレイクエキスの澄んだ上澄みだけを濾し取った液は、キラキラと輝く美しい翡翠色をしている。
「ダンブルドア校長が戻られました」
「そうか。だが石になった者を戻せるのはダンブルドアではない」
スネイプ教授の視線が用意された小刀に向けられる。ゆったりとしたダンブルドア校長の雰囲気に流され、すべて終わったものと緩んだ心をキリリと引き締めた。私の役目はまだ残っている。
「刻めば良いですね?」
「さよう」
横目で覗いたスネイプ教授の手元には、整った字で真っ黒になったマンドレイク回復薬の手順書がある。彼がこの数ヶ月で調べ上げたものだろう。その努力に釣り合うだけの働きをしたい。
小刀を手に、これまでにない集中力をみせるリリーを、スネイプの満足げな瞳だけが見つめていた。
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