17 論文


帰省するほとんどの生徒たちを見送ると、リリーがホグワーツへ戻ってきてから初めての静寂に包まれた。雪に吸い取られる子供たちの笑い声も、パタパタと足早に廊下を移動する音もない。

祖父が亡くなってからの3年、多くの時間を一人で過ごしてきたが、こんなにも広い場所でポツンと立つのは、また違う物寂しさがある。聞き慣れた騒音が突然消える喪失感。

それでも私にとっては心休まる休暇だ。ポッターたちにとっては大勝負のときだが、私が気にすることと言えば、グレンジャーの飲むポリジュース薬に猫の毛をいれることくらい。

決闘クラブでは色々とあり、果たしてグレンジャーが手にしたのは何の毛だったのか分からず終い。リリーは念のため、ミリセント・ブルストロードの髪色に似た黒猫の毛を、休暇前に生徒のペットから拝借していた。

あとはグレンジャーの持つものと交換するだけ。機会はそう多くない。決行はクリスマス当日と決めている。




気づけば足が地下に向いていた。この4ヶ月ですっかり馴染んだ道中は、相変わらず薄暗く部外者を拒むような冷ややかさがある。目的の扉を叩いて返ってくるのは、その延長のような冷たい声。


「誰だ」

「リリー・エバンズです」


考えるような間を置いてから、扉が開いた。

声に反して室内は暖かく、相変わらず事務机にかかりきりかと思った男は、珍しく暖炉傍のソファに腰を下ろしていた。二人掛けの真ん中にどっかりと沈み、紙束を手に優雅に紅茶を啜っている。


「仕事はないはずだが?」

「えぇ、ですから暇で」


ぐいっと口角を上げ微笑んで見せるが、スネイプは胡散臭いと言わんばかりの顔で、眉間のシワを深くする。


「ご友人の元へ行ってはどうかね?」

「ロックハート教授は帰省されましたし、クリスマスを過ごす家族や友人が私にはいないもので」

「我輩は暇ではない」


追い返されたことは何度もあったが、言葉だけの拒否は居ても構わない日。リリーは薄く笑うと、机を挟んだ向かいのソファを陣取った。

このソファに座るのは初めてだ。緊張した重みを受け止めるクッションは少し硬めで、安物の皮が所々摩れているのが分かる。


「スネイプ教授は帰省されないのですか?」


手にしていた薄い紙束から顔を離したスネイプ教授と目が合う。どうやら答えてくれる気があるらしい。


「クリスマスを過ごす家族や友人が我輩にはいないのでな」


つい数分前に聞いたばかりの台詞とニヤリと歪む口元に、リリーはクスクスと笑う。その反応に不満げに眉を潜める目の前の男は、再び紙束へと視線を落とした。


「それは何ですか?」

「今月出たトリカブト薬の論文だ」

「脱狼薬の!?」


リリーは大して興味を持って聞いたわけではなかったが、スネイプの口から飛び出た単語に引き付けられぬ訳にはいかなかった。目を見開き前のめりになったリリーをチラリと窺い、スネイプは手中の紙束をテーブルへ広げて見せる。


「ダモクレス氏が開発に成功した。改善の余地はあろうが、マーリン勲章は決まりだな」


最近開発されたと《本》にあったが、なるほど、このタイミングだったのか。今度はしっかり興味を持って、広げられた紙へ目を通す。が、180度回転した文字ではどうにも読みづらい。目を細め眉間にシワを寄せてみるが、目で追う文字はたどたどしい。


「狼人間の、理性……と人格?に、対するトリカブトの……融合?……あぁ有効……」


不意に、ソファのスプリングが軋んだ。音を追って視線を上げると、目の前にいたスネイプ教授が20センチほど横に移動している。無意識に傾げた首を起こしながら再び論文へと視線を落とそうとした。

しかしそれはスネイプによって阻まれる。リリーを捉えた視線はゆっくりと逸らされスネイプの右隣へ落ち、再びリリーへ戻る。言葉は何もなかったが、彼が論文へと集中し出す頃には意味が理解できた。


「ありがとうございます」


笑い出したいのをグッとこらえ、少しだけ頬を緩めて、リリーはスネイプの隣へ移動した。

彼の視線を追って読み込んだ論文では、聖マンゴと協力し治験を行ったこと、更なる改良と周知を目的とし調合方法を公開すること、そして申し訳程度に狼人間に対する偏見の撤廃を求める主張が書かれていた。

リリーが論文特有の難解な文章と格闘する間、スネイプの手は頻りに紙面を滑り、下線や丸印を刻んでいた。時折、印字を覆うようにメモを残しては、空いた手で自身の薄い唇をなぞる。


「どう思う?」


スネイプは「トリカブト薬」それだけの単語で脱狼薬だと気付いてみせた女に興味が湧いた。

魔法薬学の教鞭を執る自分以外で、近年の魔法薬開発に興味を持つ者がホグワーツにいるとは。見識はどのくらいのものかと試しに論文を見せ、その深さを問うてみる。


『どう思う?』


リリーは突然の問いかけを反芻してみるが、何を問われているのか皆目検討もつかない。

どう、とは何だ。スネイプ教授の視線は未だ論文に釘付けで、辛うじて脱狼薬についての問いかけだとは推測するが、険しい表情からは何も読み取れない。


「君なら何から手をつける?」


答えを催促するようにスネイプが言い直す。今度は一度で理解できた。彼は新薬の改良について、机上の空論を並べようと言うのだ。そこに気まぐれで私を誘っている。


「私なら……」


言いながら、再度目を通す。複雑で作製者を選ぶ調合方法、1週間飲み続ける不便さ、手を付けたい箇所はいくつも思い浮かぶ。しかしふと《本》にある情報が載せられていないことに気が付いた。


「薬と他の飲食物との飲み合わせを調べます」


リーマスが《本》で発言していた「砂糖を入れれば効き目がなくなる」。論文で検証されていない以上、どういった経緯でそれが明らかになったのかが気にかかる。


「ほう……癒師のようなことを。我輩は魔法薬における繊細な調合の可能性についてお尋ねしたのだが?」


両眉を上げ、呆れたような馬鹿にしたような或いはその両方の表情がこちらを向いた。


「マダム・ポンフリーに鍛えられていますので」


リリーは言い訳じみる声色を隠し、わざとつんけんした態度で返した。スネイプは機嫌を損なうどころか満足げに鼻で嗤うと、使い古したカラスの羽根ペンをインク瓶に浸す。そして散らばった論文の片隅に置くと「飲食物――影響」と書き込んだ。


「1週間、一度でも飲み損なうと無効だ。元気爆発薬とは訳が違う。悪くない」


スネイプは言い訳じみた声色を隠そうともせず、苦虫を噛み潰したように早口で言い放った。そして論文を集め直し紙束を作ると、徐に立ち上がる。


「いつまで居座る気かね?」


空いた手で杖を振り、筆記具とティーセットを片付ける。しゃくるように扉を示され、今日の気まぐれが終わりを告げた。


「脱狼薬、研究されるおつもりですか?」

「実験体がいれば、或いは」


ペンを走らせた割りには然程興味がないらしく、論文は事務机の一番下の引き出しに消えていった。

来年、その実験体がホグワーツへ来た暁には、彼の探究心に熱は灯るだろうか。

スネイプの一振りで扉が開き、リリーはすっかり馴染んだ暖かな部屋から冷えた廊下へ移動する。暇潰しのお礼を一方的に投げ掛けて、重い色の扉で遮断すると、静まり返った城内が再び姿を現した。


魔法薬に限ったことかもしれないが、スネイプ教授は良いと思ったものを受け入れる素直さがある。書き留められるとは思いもしなかった。

しかし彼を納得させた意見は私のものではない。それがこんなにも悔しくて、悔しくて、堪らないとは。

これはレイブンクローのプライドだろうか。なんてちっぽけで薄っぺらなプライド。

リリーは胸に残る靄のような塊をどこか遠くへ投げ捨てたくてしょうがなかった。代わりに足先で小突いた小石は、カツンと滑稽な響きで闇へ消えた。







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