ふかふかのベッドの中で、微睡みに揺蕩う幸福を噛みしめる。深い呼吸を繰り返し、身動ぎをして、そっと目を開けた。赤を基調としたグリフィンドールのカーテンから差し込む朝日に起こされて、一人、また一人と、ルームメイトがベッドから這い出し始める。
今日はホグワーツ特急に乗ってそれぞれの家へと帰る日。
そのはずだった
「どう、して……」
真っ白な壁に囲まれて、リリーは一人で寝かされていた。変わらないのは、差し込む朝日の暖かさ。清潔感と殺風景さの入り交じるその空間に、ここは病院だと彼女の直感が告げた。
「誰か……」
誰でもいい。ダンブルドアでも、ハリーでも、クィレルだって構わない。この状況を説明してくれるのなら。私の身に、何が起こったのか。
誰かっ――
「痛っ!」
上半身を起こそうとして、ガクリと力が抜けた。不自然に曲がろうとする肩に体重がかかり、呻きを上げる。
痛い
そう、痛いのだ。この非現実的な空間でも痛みを感じる。ならば、夢ではないのだろうか。だとしたら、今までのものの方が、夢?
夢
そう、夢。ああなんてしっくりとくるのだろう。トリップしてすぐはそうかもしれないと思っていたくせに。いつからか、現実だと思い込んでいた。夢の中でだって、痛みくらいは感じるのだ。
これは私の脳が勝手に想像力をかき集め、適当に都合良く構築した夢。ホグワーツも、魔法も、セブルスも、すべてが。
消えた
涙腺はピクリとも反応しなかった。大きすぎる喪失感に呑まれ、ただ呼吸を繰り返すだけが精一杯。
リリーは眼前へ手を翳した。そこに傷は一つもなく、事故に遭ったその日のままの地味なネイルが輝いている。顔を撫でてみてもいつもの顔があるだけだった。首、胸、お腹、順に触れてみても、届く範囲すべてに痛みはない。
私は、この元いた世界で、生きていた
ガラリと扉が開いたのは、リリーが目覚めてからそれなりの時間が経ったときだった。
「――っ!先生を呼んで!」
リリーと同じ東洋顔の女性が、後ろを振り返りそう叫ぶ。長らくイギリスの辺境で過ごしていた記憶のあるリリーにとっては、数年振りに聞く流暢な日本語だった。
「おかえりなさい」
リリーは出かかった言葉を呑み込んだ。
ベッドサイドへ立った彼女は、看護士にしては奇妙な格好で、奇妙なことを言う。心のままに動いた私の眉間を見て、彼女は「そうよね、戸惑っていて当然だわ」と共感を示しつつも手際よく脈を測っていた。
「おかえりなさい、エバンズさん!」
新たに駆けつけた女性もまた、奇妙な挨拶でもって私に微笑んだ。一人置いてきぼりの惨めさに一層気分は落ち込んでいく。
「まずは診察しますね」
同じ制服に身を包んでいても、役割は違うらしい。医者らしい女性が取り出したのは、見たこともない器具だった。そばの看護士が紙を宙へと滑らせる。ぷかぷかと漂う紙へペンが追い付いて、彼女たちの話に合わせて紙面を動いた。
独りでに。
それはまるで――魔法。
「カルテが気になりますか?」
「いえ、あの……」
まさか、そんな、ここは夢の続きなのだろうか。
「我々は魔女です。あなたと同じ」
「同、じ……?」
彼女たちはにこりと微笑んで、頷いた。
「さ、身体は完治しています。あなたが色々聞きたいように、あなたに色々聞きたい人たちがすぐにお見えになりますので、もう少しだけ――」
トントン、とせっかちなノックが響いた。許可を求める視線にリリーが頷くと、一人が扉へ向かう。二言、三言のやり取りがあって、訪問者はようやく中へと通された。
現れたのは、如何にも堅苦しい仕事に就いていそうな男女が一組。その少し後ろに若い男性を従えて、三人はベッドサイドへ立つと一礼をする。そして病院のスタッフ二人が退室するのを待ってから、前に立つ男がようやく口を開いた。
「我々は日本の魔法界を統治している政府の者です。あなたの知る言葉を用いるならば『魔法省』」
「魔法……」
「あなたが意識不明となってから、今日で7日目です」
「7日!?そんな、だって私は――いや、でも……」
リリーは驚きの声を上げ、しかしすぐに濁す。手を口へ当て何かを探すように目を忙しなく動かした。彼女が落ち着く間を待って、男が話を続ける。
「眠っていた6日間、あなたがどこで何をしていたのか、我々は把握しています。あなたにとっては、長い6年間だったでしょう」
リリーは瞬きも忘れ、彼の話に聞き入っていた。
「簡潔に言えば、あなたがいたのは過去の世界。経験されたことは、すべて現実です。魔法も、ホグワーツも、あなたの関わったすべての人間も、実在します」
俄には信じがたい話だった。
あれは、あの物語は、すべてが作り物というわけではなかったなんて。私の学舎も、居候した家も、付け足しだらけの温かな友人の家も、存在する。生き残った男の子も、愛を秘める男も、大義を掲げる男も、生きている。
ならば、私は――私はこの世界で何をした?
「私、私、大変なことを!イギリス魔法界を狂わせてしまったのかも――」
取り乱すリリーの肩を、女性が優しく触れた。トン、トン、とゆっくり撫でるように動かして、「大丈夫」と繰り返す。リリーはそれに合わせて深呼吸をしながら、選択に後悔はないと過ごした日々を思い出していた。
「もう、大丈夫です。何でも話してください」
「あなたが過去に飛ばなかった世界の今を、我々は知ることができません。ですから狂うも何も、というのが正直なところです。この世界であの物語は――いえ、これはまたいずれ。どうも説明が面倒な案件でして。
今回の事例についてあなたにはご協力頂きたいことが山ほどあります。サインして頂きたい書類もいくつか。これからしばらくはお手を煩わせることになります」
「はい。私にできることなら」
「一連の事後処理が終わるまでは我々の監視下に居ていただきますが、それさえ終われば、あなたを縛るものは何もありません」
リリーは了承を込めて頷いた。
「ではまずはこの言葉から。おかえりなさい、エバンズさん」
『おかえりなさい』
ああ、また。
憂いの篩で見ただけの記憶が脳裏を掠めては留まらずに霧散する。
私は、どこに帰ってきたのだろう
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