OWL試験を乗り越えて浮かれきった日々の中で、とうとう今朝、記憶の小瓶を移し終えてしまった。『消失』と書かれた木箱には、思い出がたくさん詰められている。私に残っているのは、ただぼんやりと何気ない毎日を過ごしていたという、漠然としたもの。ダンブルドアのおかげで失った記憶を見直すことは出来ていても、そこに実感はない。
自分がトラックに引かれた事実も、この世界が自分の知る物語の中だということも。覚えているのは、ここへ来てからも意識し続けていたことだから。紐付く記憶が残っていないのに、それを元にした経験が残っているのは、何とも奇妙な感覚だった。
明日にはホグワーツ特急が生徒を詰め込み出発する。今日はどれだけ談話室が騒がしくとも、教職員はみんな目を瞑っていた。
そんな談話室をこっそりと抜け出して、リリーは寝室へと上がる。トランクを開け、木箱の隣に置いたケースに微笑んだ。頼るまいと努力して、いつからかここに仕舞い込んだままの眼鏡とピアス。失うものはあれど、得たものも必ず存在する。
リリーは「よし」と自分へ気合いを注入すると、木箱へ最後に移した『最期』と書かれた小瓶を取り出した。そしてそれを大切にポケットへと入れる。
「何も言わずに寝ちゃうのかと思ったわ」
振り返れば、親友が扉の隙間から顔を覗かせていた。
「私、ちょっと抜けるね」
「スネイプによろしく」
どこへ行くかなんて一言も言っていないのに。リリーはニヤリと笑ったハーマイオニーへ肩を竦め「遅くなったらよろしく」と冗談を返した。
無事に卒業を迎えたウィーズリーの双子を中心に盛り上がる談話室を抜け出すのはとても簡単だった。誰も規則破りを気にしちゃいない。
太った婦人の向こうから漏れてくるパーティの音から離れ、リリーは階段を下った。そしていくつかの廊下を渡り、その先にある別の階段を上がる。時折仲間の規則違反者が逢瀬を楽しむ気配を感じた。
足を止めたのは、ガーゴイルが守る場所。
螺旋階段に運ばれて、立派な樫の扉へ真鍮のドア・ノッカーを打ち付ける。トントン、と物々しい音が響き、まるで葉っぱ一枚が舞うような軽やかさで扉が開いた。
「そうか、とうとう」
歴代校長の肖像画が並ぶすぐそばで、ダンブルドアは佇んでいた。樫の向こうから現れたリリーに頷いて、その青い目に悲しみを宿らせる。
そこにはもう一人、訪問者の姿があった。
「校長、私はこれで」
影のような男がするりと動く。
「待って!」
横を抜けようとした腕を咄嗟に掴み、リリーはスネイプの瞳を捉えた。少し離れて成り行きを見守る好好爺へ流れ、再び戻るその漆黒。彼女は肺一杯に空気を取り込んだ。
「今から憂いの篩を使うんです。一緒に、見てもらえませんか」
「いつの記憶だ?」
「私の、最期です」
彼を引き止めた腕で今度は小瓶を握りしめ、ポケットから取り出す。手のひらに転がせば、彼は腰を曲げ深く覗き込んだ。ラベルを確認し首を横に振る彼に、リリーは小瓶を強く握り直す。
「既にボガートによって再現されている。わざわざ見る必要はない」
「その時のことなら私も覚えています。ですがちゃんと記憶も確認しておきたいんです」
「ならば一人で見ることだな。馬鹿げたパーティを開いている連中と違って、我輩は忙しい」
スネイプは右足を前へと踏み出し、扉に手をかけた。
「私の秘密を、見たくはありませんか?」
リリーは夕暮れの街に立っていた。周りを見渡せば、懐かしいような気もする日本の街並み。ガードレールのないこの道を、突風が疾走する。少し前を歩く黄色い服の少年が、「あっ」と声を上げた。
「「危ない!」」
思わず上げた日本語に、記憶が重なった。私はグッと腕を掴まれ、伸ばした腕と共に踏み出した足も引き戻される。それをすり抜け、記憶はその先へと駆けていった。クラクションも、ブレーキ音も、ボガートは見事に再現して見せていた。
「記憶はここまでだ」
痛いくらいに掴まれていた腕が、上へと引き上げられる。水中から浮上するのとはまた違う不思議な浮遊感。
リリーは校長室へと戻っていた。
リリーも、スネイプも、ダンブルドアでさえも、誰も口火を切ろうとはしなかった。目を開けて黙祷でもしているかのような空気が部屋を包む。
やがてリリーが深く息を吸い込んだ。
「享年とここでの生活を合わせれば、スネイプ先生とそう変わらないくらい生きてるんですよ、私。『生きてる』って表現が正しいのかは疑問ですけど」
ははは、と笑い声に似た息を吐き、リリーが口角を上げた。
「何か言ってくださいよ」
幾分か力は抜かれたものの未だ捕らえられたままの腕を、リリーが揺らす。無言に柔らかな笑みを付け足したダンブルドアを経由して、スネイプを見上げた。応えるように彼からも視線が向けられ、ゆっくりと薄い唇が隙間を作る。
「少年は助かった」
リリーの視界が濡れる。
「あの様子なら、大した怪我もないはずだ」
次から次へと溢れ出る涙の理由は彼女本人にさえも分からなかった。内側で何かが温まり、雪融けのように目から溢れていく。
差し出されるまま緑のハンカチを受け取って、促されるまま椅子へと座る。背を撫でる手のひらが伝えてくれる体温を、涙が止まるまでずっと感じていた。
最後に大きく深呼吸をして、顔を上げる。ダンブルドアがウインクと共に渡してくれた鏡には酷い顔の自分がいた。
『このような時間に少しの寄り道が加わったところで、誰もとやかく言わんじゃろう』
二人に見送られ、真夜中のホグワーツを一人で歩く。寄り道をして顔を洗い、心までさっぱりとして空を見上げる。今夜の星は一段と輝いていた。
行きも通った廊下を帰りも渡る。少し先でグリフィンドール寮へと続く階段が軋みを上げて方向を変えた。いつもなら待つところを、今日は足を止めずに下へと進む。広大な城を独り占めした気分に浸り、辿り着いた大広間の大きな扉を押し開けた。
迷うことなく奥へと進み、他と垂直になるように設置されたテーブルの一際豪勢な椅子へと触れる。一番近くの蝋燭へ火を灯して、中央の玉座の背を引いた。
数年ぶりに見る景色は、何一つ変わっていない。今の私の記憶はここから始まっている。積み重ねてきた思い出の一番下にあるのはこの場所。扉を開けて駆けてくる二人の姿を、思い出せる。感動に震えたあの気持ちが、蘇る。
さぁ、寝よう。
そこにはもう、何も怖いものがない。
リリーは欠伸を噛み殺し、座った姿勢で伸びをした。
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