19 ただ、失う一方


夏期休暇も終わりに差し掛かった朝。まだ太陽が建物の影で燻っている時間。スネイプは妙な寝苦しさに目が覚めた。昨夜も遅くまで起きていた影響で、活動する気にはなれない。しかし寝直そうと力を抜いてみても一向にその時は訪れなかった。こうなっては時間の無駄だ。灰色のナイトローブに黒の上着を羽織り、せめて何か飲むか、と一階へ下りることにした。

カーテンの締め切られたリビングを素通りし、台所へと足を進める。紅茶を淹れようと懐に手を伸ばしたところで、いつも持ち歩くはずの物が欠けていることに気付いた。ホグワーツ入学を目前に買ってもらったあの日から、片時も手放すことなどなかった杖を。

睡眠の質が悪かったせい。だが理由はそれだけではない。これは所謂平和呆け。

世間が闇の帝王は滅んだと歓喜した時でさえ訪れなかったものが、エバンズが現れ闇の帝王の存在が明確になっている今起きている。

言い様のないざわめきが奥底から這い上がり、両手で顔を覆った。そのまま髪を掻き上げて、肺に溜まった空気を吐き出す。ゴブレットに注いだ水が冷たく身体を貫いた。


窓を太陽の輝きがノックする。

外を横切る影に気付いたスネイプがカーテンを開けると、そこには一羽のモリフクロウがいた。小柄なその体に一人前の仕事を咥えて誇らしげに胸を張る。スネイプが窓辺の木箱から銅貨を掴みフクロウに付けられた袋へと落とすと、彼はポトリと朝刊を離して飛び去っていった。

気の早い配達も今日のスネイプにとっては都合がいい。ソファで休みながらゆっくりと朝を過ごすのも悪くないか、と元来た扉を開けた。

そして気づく。

いつからか二人掛けに変えられていたソファ。そこへ横たわる影があることに。スネイプがここを通りすぎる前からいたに違いないその影は、膝を抱え静かな呼吸を繰り返していた。


「ここで寝るな」


スネイプは久々に見るリリーの姿へ声をかけ、顔の見える位置へと回り込む。夕食などは用意されていたものの、入れ違いだったり後ろ姿だったりが多かった。顔を見るのはいつ振りだろうか。そう思いながら、揺すり起こそうと手を伸ばした。

が、その必要はなかった。リリーはしっかりと目を開けてそこにいた。むしろ眠るまいと指に歯を食い込ませ、それを手助けする肌寒さに震えている。


「あ……おはようございます、スネイプ先生」

「…………」


スネイプは言葉を返せなかった。異様さを掻き消すように身体を起こし笑みを作る彼女を観察する。歯形の付いた右手は左手に覆われたものの、その顔色はカーテン越しの朝日の中ですら判別できるほどに悪かった。


「風邪を引く気か」


懐へ腕を上げ、ピタリと止める。先程と同じ失態を繰り返したことへため息をつき、スネイプはその手を下げた。


「ここにいろ」


首を傾げるリリーへ命じる口調で告げる。スネイプはチラリと階段のある扉を見てから自らの上着へ手をかけた。それを未だ震えたままの彼女へと投げ渡す。リリーは膝に乗るそれに目を見開いた。視線を彼と膝に乗る服の間で行き来させ、言葉を吸い取られたように口をポカンと開けていた。


スネイプが杖を手にリビングに戻っても、彼女は何一つ変わらない状態でいた。目を開けたまま寝ているのでは。そう思いつつ彼が暖炉に火を点すと、勢い良く燃える薪に彼女の肩が跳ねた。


「羽織る気がないなら返せ」


スネイプが脱いだ自身の服へ手を伸ばす。


「い、嫌です!」

「すぐに部屋が暖まる。陽も差してきた」

「たとえ暑くなっても着続けます!」


呆れた返しに上着一つなどどうでも良くなって、肘掛け椅子の背を掴む。座ろうかと腰を落としかけたとき、彼女の手に強くローブを握られた。精一杯二人掛けソファの端に寄る彼女が隈の付いた上目でこちらを覗く。


「離せ」


しかしスネイプはローブを引き寄せた。力のわりにするりと抜けたそれに拍子抜けし、座るタイミングを見失う。リリーはローブを追うこともなく、空いた手をそのまま口元へと移動させた。

そして、ガブリ。

強く指へ歯を食い込ませ、何度も強く瞬きした。


「止めろ!」


言うが早いか、咄嗟に手が出た。痛々しい指を口から引き抜いて、彼女の隣へと座り自らの膝の上へと縫い付ける。逆の手を噛むのではと警戒したが、彼女にその気はないようだった。ただポカンと半端に開いた口で、遠ざけられた自分の手を見つめるばかり。


「何故このようなことをしている?いつからだ?」

「…………」

「エバンズ!」


グッと掴んだままの手首へ力を込め、肩を揺すると、彼女はハッと息を吸い込んだ。


「ごめん、なさい……すごく眠くて……」

「なら何故寝ようとしない?」

「それは……」


瞬く間にリリーの目が潤み、数秒と経たずに零れた。ポトリ、ポトリ、と服に染みを広げていく。






いつからか同じ夢を見ていた。それに気付いたのは三度目だったか、十度目だったか、はたまたもっと繰り返していたかもしれない。

ピッ、ピッ、と規則正しく続く電子音。誰かの横たわるそばに私は立っている。壁も、ベッドも、横たわる人物も真っ白で、私は唯一黒いドアへと歩き出す。鮮明な意識とは裏腹に、身体は言うことを聞かない。ハンドルもアクセルも操作しないまま、私という殻は扉を開ける。

覚えているのはそこまで。その扉の向こうに何があるのか、ずっと気にはなっていた。いつでも書き止められるようにと寮のベッドサイドへ紙を用意したりして。

そしてある日気づいたのだ。

突然、気付いてしまった。


私の生前の記憶が消えている。


確かにそこに何かがあったはずなのに、思い出せないものがある。誕生日、旅行、何でもない日、笑った記憶はあるのにその理由が分からない。両親を愛しているのに、二人の名前が出てこない。

記憶の喪失と夢を結び付けることは容易だった。そしてそれを止める術などないことも。失うタイミングはバラバラで、失う記憶にも規則性がない。それがより一層恐怖を煽っていた。

きっと扉の先には失う記憶がある。

寝るのが怖い。

また、消えてしまうかもしれない。

『悪いもの』だなんて、『スッキリしてる』だなんて感じていた自分が許せない。






話し終え寝息を立てるリリーの身体は、スネイプの膝へと倒されていた。無理矢理の寝かし付けに成功した杖を懐へ戻し、スネイプは息を吐き出す。長く、長く、肺を空っぽにしてリリーの肩へと触れた。

記憶に干渉する呪文はいくつかある。それを呼び醒ますものもまた、ゼロではない。しかしそれが彼女にも通用するとは思えなかった。彼女はただ、失う一方。


「……セブ……ス……」


起きたのかと思ったが、彼女が私を名前で呼ぶことはない。


「勝手に人を夢に出すな」


だが今回は、怯えていた夢を見ずに済むのだろう。


「アクシオ(来い)、日刊預言者新聞」


呼び寄せた新聞を捕まえて、スネイプは太ももに乗る重みへと視線を落とした。紙面を広げれば邪魔になるに違いないそれにため息をついて、そばのテーブルへと新聞を投げ落とす。起きる気配のないリリーに釣られ、やがて不足していた睡眠を補おうとスネイプの瞼も重くなっていった。

ウト、ウト、と暖炉の子守唄に合わせて。







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