平穏な自室で聞きたくもない名を二つも聞かされる。これを不幸と言わずして何と言えばいい?
大人しく魔法薬の専門書を開いている間はまだ良かった。ここへ来る口実の質問を終えた途端、エバンズは嬉々として無駄話を始めた。更には持ち込んだ鞄からバタービールを取り出して、そばの棚からはゴブレットを二つ呼び寄せる始末。スピナーズ・エンドと同じく我が物顔で私のテリトリーを荒らす様には呆れて言葉も出なかった。
「シリウス先生はハリーの後見人だったんです!」
「知っている。日刊予言者新聞で記事にされれば知らずにいる方が難しい」
朝から学校中がその話題で満ち溢れていた。我がスリザリンまでもが噂に興じ、その真偽を邪推する。
初耳ではあったが意外さは欠片もない。ブラックはポッターにベッタリだった。在学中も、卒業後も。リリーは二つ返事で賛成したことだろう。
「私は記事の前から知っていましたけどね」
「どうせそれも予言によるものだろう」
「あれっ、顔に出てました?話し合って、一緒に暮らすかもしれないそうです。予言では叶わなかったから、実現してほしいんですよ」
ソファに深く腰掛け背を預ける眼前の生徒の脱力しきったこと。私の前でこれほどリラックスしてみせる人間は見たことがない。
「何故叶わなかった?」
しかしその問いかけにより、彼女は纏う空気を引き締めた。ゴブレットを掴む指には必要以上の力が入り、伏せる直前に見た瞳にははっきりとした憂いが見てとれる。
「死んだのか」
そう直感した。恐らくは、ポッターのため。
エバンズがゆっくりと首を縦に振った。
「他には?」
「他……」
「他に亡くなった者だ」
「……大勢です」
「確かホグワーツで大戦が起きてしまうと言っていたな。ならば私はどうだ?」
ヒュッと息を呑む音が耳に届く。エバンズは曖昧に首を横に振ってはいるが、答えは明白。
「なるほどな」
驚きはしなかった。腸が煮えくり返りそうではあるが、私もブラックと同じ。それが最善の道ならば、その先に未来があるのならば、避けられぬことならば。闇の帝王を裏切ると決めたあの日から、死は隣人の顔をしてそばにいる。
「何故泣く必要がある?私はこうして生きているだろう。どうやら君の働きによってな」
首を横に動かすばかりの彼女へ杖を振る。拭っては零れ、拭っては零れと涙が落ちる度に繰り返した。いっそ布を押し当てた方が良いのではと思い始めたとき、ようやく彼女が口を開く気になった。
「どうしても忘れられません。先生の最期の音が、瞳が、言葉が、簡単に蘇ってしまうんです。その度に――」
「私を、見ろ」
一語一語ゆっくりと区切った言葉にエバンズが目を見開いた。何てことのないはずの言葉に、彼女だけに通じる意味がある。だがそれに気づいたところで問う気にはなれなかった。
「君が囚われているのは過去ですらない。今となっては起こり得ない可能性のひとつだ。違うか?」
「違い、ません」
彼女はゆっくりと長く息を吐き続けると、唇を結んだ。その端は僅かに上がっている。例え無理矢理の切り換えだとしても、今の彼女には必要なものだろう。これで十分。しかし私の杖は宙に複雑な軌跡を描いた。その場所からポトリと赤い花が落ちる。膝に乗るそれを拾い上げ、四方から眺めた。
「ゼラニウム、ですか?」
「種類に意味はない。今朝温室で牙付きを見ただけだ。重要なのは、私が死ぬときにこれが枯れるということ」
「え……」
「則ち、これが現状を保っている限り私は生きている。いいな?」
「は、はい!あの、大切にします!」
差し出された彼女の両手へ、茎のない花を転がした。しっとりとした赤い花びらを彼女の親指がなぞる。繊細な調合の工程よりも慎重な手付きに全身がむず痒くなった。
咳払いをひとつして、空気を引き締める。
「話を現実的な問題へ戻す。今朝の日刊予言者新聞が伝えたのは、涙涙の後見人物語だけではなかった」
「私の、ことですね」
「さよう。迂闊にも君が代表選手のパートナーとして注目を浴びてしまったがために、リータ・スキーターが君のことを嗅ぎ回っている。掘り返されて困る秘密は?」
「何もありません」
「ほう……ないと言い切るか」
依然として秘密だらけだというのに、彼女からは絶対的な自信が窺えた。背筋を伸ばし、嘘偽りのない答えだと視線が語る。
「掘り返せるものがなさすぎる点は問題かもしれませんね。あとはスネイプ先生とのことも」
「その辺りの対応はダンブルドアに押し付けておく。既に君の面倒を押し付けられているのだ。そのくらいはして当然だろう」
癖でフン、と鼻を鳴らせば、エバンズはクスクスと笑い「そうですね」と同意した。そして雰囲気を一変。ハッと息を呑み、膝を叩く。
「虫!虫です!リータ・スキーターは未登録のアニメーガスなんです!」
「それを早く言え。対処が変わる。全く、あの馬鹿犬といい、こうも立て続けに未登録のアニメーガスが現れるとは」
「私もちょっと憧れてます」
「君の成績では叶わぬ夢だな」
「言い返せないのが悔しいですね」
「ならば寮へ戻って学業に専念することだ」
追い払うように手首を返し、彼女のローブが扉の奥へ消えるのを見届けた。退室する直前に見た彼女の顔には涙の欠片も残っていない。
だが確かに、彼女は涙を流したのだ。
私のために。
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