12 私の恐怖


ホグワーツの三年生と言えば、いくつかの変化をもたらす。例えば選択科目。例えばホグズミードへの外出許可。魔法生物飼育学はハグリッドへ担当が変わった。

そして忘れてはならないのが今年の闇の魔術に対する防衛術担当。昨年度の担当は元々1年だけの約束だったらしい。ヴォルデモートが捕らえられた今も呪いは健在したままなのだろうか。

新しい教師は私もよく知る人物だった。一人はリーマス・J・ルーピン、もう一人はシリウス・ブラック。どんな話し合いがあったのか、リーマスが低学年を、シリウスが高学年を担当する。みすぼらしいローブの男と冤罪とはいえアズカバンの印象も強い男。戸惑う大広間に私の拍手が一段と大きく響いていた。


そして今日は楽しいホグズミード日。風は冷たいものの太陽が雲間から覗き、外出には申し分のない天気。初めてとあって同級生はみんな飛び出していった。

行かないのは私とハリーだけ。セブルスはとうとう許可証にサインをくれなかった。彼が保護者であるとマクゴナガルに知られるのを避けるため。そんな想像ができて、ごねて迷惑をかける気にはなれなかったのだ。


「じゃああとでね、ハリー」

「うん、あとで」


図書室でレポートをこなす決意をした彼と別れ、私は階段をひたすら上がる。着いたのはグリフィンドール塔、ではなく一人部屋。校長室を守るガーゴイル像を奥に見ながらタペストリーを捲れば扉が現れた。高い敷居を跨いで入れば、いつもきれいな暖炉とローテーブル。そしてふかふかのラグが迎えてくれる。


「確かキャビネットに羊皮紙とインク瓶を入れっぱなしに……」


独り言を呟きながら、ラグを避け石畳を歩く。ベッドのそばに置いたキャビネットへと手を伸ばし、ガタガタッと震えたそれに思わず腕を引っ込めた。


「な、何……?」


思わず問うては見たが、返事があるはずもない。猫やネズミが入り込んだわけではないことくらいの想像はつく。かといって開けて確かめる気にはなれなかった。

羊皮紙たちは諦めよう。計算を間違えてギリギリの量にはなってしまったが、まだ少しは残っている。それにハーマイオニーがホグズミードで買ってきてくれる約束だ。

無駄足になったことへはため息をついて、リリーは廊下へ身を乗り出した。敷居に足をかけ、「あっ」と声を出す。カツンと足音が止まり、シュルリとローブの擦れる音がした。初めに見たのは足元だけ。それでも真っ黒な出で立ちとどす黒いオーラで誰であるかは容易に分かる。


「おはようございます、スネイプ先生」

「おはよう。朝からここで何をしていた?」


リリーはまた「あっ」と声を上げた。二度目の気付き。スネイプは嫌な予感に眉間を谷へと変えた。そんな彼の様子に構わず、リリーはにっこりと手招きをする。


「ちょうど良いところに!キャビネットに何か入ってるんです。見てもらえませんか?」

「断る。そういった害虫駆除は森番か新任のお二人が適任だろう」

「この部屋について上手く説明する自信がありません」


セブルスは何か考え込んでいるようだった。険しい表情をそのままに、私を見ながら思考は別の場所。

正直、良い予感はしない。


「『リディクラス(馬鹿馬鹿しい)』君でもこのくらいの発音はできるだろう。中に入り込んだものは恐らくそれで対処できる。杖を出せ」

「ボガート……」

「多少の勉強はしているらしいな。ならばその特性は?」

「形態模写妖怪。こちらが一番怖いと思うものに、姿を変えます」


私が杖を取り出すと、セブルスは指一本分私の手から離れて杖を摘まんだ。肩越しに彼の息づかいまでが届きそうで、心臓がビクリと大きく収縮する。彼は「集中しろ」と窘めてから、私の杖を動かし始めた。


「杖の動きは――こうだ」


彼が手を離したあと、真似て自分で振ってみた。何も言われなかったのは問題なかったからだと捉え、汗ばむ手で杖を握り直す。


「さて、君の恐怖とご対面だ」


軽く背を押され、私は出てきたばかりの部屋へと戻る。すぐ後ろにはセブルスがついてきていた。ご丁寧にレクチャーしてくれたのは、私の恐怖を知るため。先ほど思案していたのはこれか、と察しがついた。

私の恐怖。

私は一体何が怖いんだろう。蛇も蜘蛛もピエロだって怖くない。ヴォルデモートも吸魂鬼も現実味がなく怖いとは言いがたい。


「怖いものがない場合、ボガートは何に変わるんですか?」

「そのような人間はいない。赤子を前にしても何かしらは形作る」

「気が楽になりますね」


キャビネットを見つめ皮肉めいて言えば、セブルスの嗤う音が聞こえた。


「開けるぞ」


リリーが頷く間もなく、スネイプは杖を振った。キィ、と蝶番が軋み、ゆっくりと戸が手前へと滑る。

その時、耳をつんざくクラクションが鳴り響いた。遅れること1秒、キャビネットから飛び出したのは質量を無視した大きさのトラック。けたたましいブレーキ音をさせながら、尚も迫り来る。

リリーは反射的に目を閉じた。しかしクラクションが、ブレーキ音が、彼女に事故の記憶をありありと甦らせる。警告音に羽交い締めされたかのように、とうとう指先一つピクリとも動かせなくなってしまった。喉が締め付けられ、思考が停止する。

リリーの身体がガクリと揺さぶられた。


「リディクラス!」


唱えたのはスネイプだった。

リリーはただ目の前に現れた黒い柔らかな壁にすがり深い息を繰り返す。心は落ち着き始めたものの、目からは勝手な涙が零れていった。


「おい、いつまでそうしているつもりだ?」


動く気配のないリリーに痺れを切らし、スネイプが彼女の肩を掴んだ。大して力をかけず引き剥がせた彼女は予想通りの表情。驚くことも目を逸らすこともないスネイプの視線を受けながら、またポロリと頬を伝って涙が零れていく。


「あ、はは……びっくりしましたね。確かに自分の最期は怖いです」


次第に収まる涙を拭って、リリーはグイッと口角を引き上げた。


「ルーピンがボガートを使用した授業を計画している。ご友人の前でその無様な姿を見せぬよう精々耐えることだな」

「心配してくださるんですか?」

「歪曲させるな」

「次は覚悟ができますし、大丈夫ですよ。それよりも、ありがとうございました」


リリーはスネイプのローブに残る涙の染みに眉尻を下げ苦笑する。そして徐にキャビネットへ近付くと、10センチほどの隙間に躊躇いもなく手を突っ込んだ。中から引き出したのは当初の目的である羊皮紙。


「これを取りに来てたんです。ホグズミードへも行けないし、勉強しようかなって」

「『行けない』のではない。君は『行かなかった』だけだ」


スネイプが片眉を上げ腕を組む。首を傾げ理解の追い付いていないリリーを見てとると、大袈裟なため息で小馬鹿にした。


「許可証なら直接校長へ出してある」

「――っ!」


リリーは泣いたことなど忘れ顔を輝かせた。しかし笑顔を満開にさせる前にピタリとその動きを止める。


「でもハリーが……」

「彼の許可証も直接提出されている。校長からの伝言だ。伝えておけ」


ハリーの分はシリウスが提出したに違いない。未だ教師と生徒以上の接触をしていないらしい二人。彼らにも新しい未来は来るのだろうか。どうか来てほしい。本では叶わなかった二人の未来を、どうか。


「重ね重ね、ありがとうございます」

「さっさと行け。城は静かな方が良い」

「行ってきます!」


部屋を飛び出て廊下を小走りに移動する。角を曲がる前に振り返れば、遅れて部屋から出てきていたセブルスもこちらに気づいた。それが嬉しくて、つい手を振ってしまう。彼の手はゆったりと上がり、シッシッと追い払う仕草。それでもアクションが返ってきたことにまた一段と嬉しくなって、図書室へと急ぐ私の足取りは弾んでいた。

目の当たりにした自分の恐怖へは蓋をする。







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