161 二人で


リリーはエジプトにいた、ルーマニアにいた、アメリカにいた、ドイツにいた。供は二羽のワシミミズク。

1年ぶりに帰宅したときから計画していた、目的地のない放浪の旅。私を縛るものはもう何もない。私に縛られる人もいない。家を空にして、古書はホグワーツへ寄付し、名を変え、過去を偽った。私は自由だった。

旅費も「忠誠の術」も問題は多くあったが、売れるものは売り、無駄に広い顔と《呪い》があれば乗りきれないものではなかった。

貯蓄への関心を失っていた私の旅は裕福とは言えない。安いマグルの小さなテントで野宿することもあった。それでも不安はごくごく僅かで、解放感や未知との出会いへの期待の方が大きかった。時には友のワシミミズクに協力してもらい大道芸のようなことをして、時には紳士な男の好意に甘え、生きることには困らなかった。


しかし手に入れた世界を、そばに寄り添ってくれる人々をすべて断ち切る勇気はない。家だって、売りには出せなかった。1年後か10年後かは分からないが、いつかは帰る場所だ。

私はドビーだけにその出立を伝えた。旅立つその日に夏期休暇中のホグワーツへ寄り、お陰で気分は卒業旅行。新しい国へ入る度に私はドビーに手紙を出した。




それは日本にいたときだった。

私はドビーへ到着を知らせ「マホウトコロ」という魔法学校がある島を探して方々旅を続けていた。ドビーからの連絡は緊急時のみにしてほしいと頼んではいたが、彼との間に感覚のズレは付きもの。しかし今回はそのズレが嬉しい知らせを運んできた。


『リーマス・ルーピンが男の子を産みました!ドビーはとても嬉しく思っています!』


まるでリーマスが出産したかのような書き方にスクリと笑って、私はイギリスへ戻ることを決めた。


出国してから既に半年が過ぎていた。






緊張を隠しきれずに叩いた扉を、リーマスとトンクスは惜し気もなく大きく開いてくれた。半年ぶりの再会。黙って旅に出たことをチクリ、チクリ、と突かれはしたが、それすらも嬉しくて頬が緩んでしまう。


「テディも七変化か……そそっかしいところまでトンクスに似ないと良いけど」


トンクスは大袈裟にブーイングをしたあと「私もそう思う」と肩を竦めて笑った。

エドワード・リーマス・ルーピン。それが新しくこの世に生を受けた彼の名前。赤毛からブロンドへ変わる彼の髪と相俟って、私は涙ぐんでしまった。


「リーマスのお行儀がいい才能はもう受け継いでるんだ」


テディが生まれて1ヶ月。夜泣きがどうだとかすっかり母親の風格を見せてトンクスが話す。そんな彼女を愛おしげに見つめるリーマスに気づけば、半年で風化させたはずの自分の熱がジリジリと現れ始めた。

いや、風化などできるはずがなかった。ふわりと大きな黒いマントが風を孕む度、似た声に出会う度、彼を連想させる些細なすべてが私へ思い起こさせる。


「私は七変化だけど七変化の子を育てたことはないから……あれ?」


優等生らしくトンクスの膝で大人しかったテディが数秒間静止したあと一変ぐずり始めた。うーん、と唸りながらも新米ママは息子を抱き上げその小さなおしりに顔を寄せる。夫を見るとニヤリと笑った。


「いい匂いがする」

「ドーラ、私に任せて」


リーマスは息子を受けとるとあやしながら隣室へと入っていった。


「私はそそっかしいけど、リーマスも器用とは言えなくて……やっぱり私も行ってくる!」


そわそわと身体を揺らし、彼女もまた隣室へと消えた。一人残され、温かな家庭の余韻に浸りながら、誰と共有するでもなくクスクスと笑う。


そのとき、


ドンドンドン!と玄関扉から幸せな家庭には似つかわしくない音が響いた。招かれざる客か急用に違いない騒音は家主二人にも届いているはずだというのに、彼らは息子で手一杯らしい。


「ごめーん!リリー、出てー!」


間延びしたトンクスの暢気な声に、私は戸惑いながらも玄関扉へ向かった。その僅かなやり取りの間にも扉は忙しなく来訪者の存在を叫ぶ。


「今開けます!」


音に負けじと声を張り上げ、姿の見えない客人へと手を伸ばす。新婚でしかも生まれたばかりの子供がいる家へこんな訪問の仕方をする人間の用とは一体何なのか。トンクスとリーマスののんびりとしたおむつ交換とのギャップに違和感を覚えつつ、相変わらず重い軋みの扉を開いた。

そこにいたのは、


「セブルス……」


扉を叩くために振り上げた拳をそのままに固まる彼。少し疲れたような顔を複雑に歪めて、最後に見たときと同じラフさを感じさせる灰黒色を纏い、そこにいた。怒っていて、辛そうで、驚いてもいて、そして安堵にも見える、複雑な表情。

胸ぐらを掴まれるようにグッと心臓を鷲掴まれ、心が引き寄せられる。

リーマスが呼んだのは明らかだった。彼は(今となってはトンクスも)私の気持ちを知っている。半年が経った今も慕情はこれっぽっちも薄れていないことを見抜かれていた。今もきっと、隣の部屋から戻るタイミングを見計らってくれている。

セブルスが来てくれたことには驚きだが、小言の一つや二つはあって然るべきだろう。私は彼と話したその翌日に旅立った。打ち明けた秘密が彼に染み込む前に逃げ出したのだ。変わらない恋慕とは違い、この半年で少しくらいは覚悟ができている。彼に何を言われようとも、それを受け入れると。

それにこれだけ離れていれば《呪い》の効力も切れているはず。


「お久しぶりです」


あれだけドンドンと主張していたにも関わらず、いざ顔を突き合わせてみるとスネイプは黙りだった。リリーはにこりと、わだかまりなどないような笑みを作る。彼は眉間を深めはしたが、薄い唇は引き結んだまま。


「どうぞ」


家主でもない自分が引き入れるのは落ち着かなかったが、リリーは扉を大きく開けて促した。だらりと両手を下ろしたスネイプが、滑るように一歩、中へと進む。リリーはじっと彼から目を逸らさずその動きを追った。

部屋は静まり返っていた。赤ん坊の泣き声すら聞こえてこない。授業でも流していたルーピンお気に入りのジャズが止まっていることにリリーはようやく気づいた。能動的な行動を放棄したセブルスを一瞥し、場を持たせる意味合いも込め蓄音機へと向かう。

しかしそれは叶わなかった。

スネイプから一歩離れたその瞬間に、リリーの手首はガッチリと掴まれる。引くわけでも捻り挙げるわけでもないそれは、ただ彼女をこの場に繋ぎ止めるだけ。

逃げることは許さない、と締め付ける彼のかさついた指と堅い意志の灯る漆黒の瞳が叫んでいた。その力強さにリリーはピクリと身体を震わせる。心はそれ以上に跳ね回り激しさを増すばかり。


「半年前、君は突然消えた」


リリーは蓄音機へ向けていた足を戻しスネイプへ向き直る。言葉に火花を散らせながらも押し止め、スネイプは自身を落ち着けようと努めていた。しかし繋がれたままの左手からは容赦なく彼の激情が流れ込む。


「私のそばにいたいと言いながら君は!……何故だ?私と関わったのは、ただ君の知った予言に私が重要人物かのように書かれていたからにすぎな――」

「違う!それは……そんなことは、決して……」


スネイプの言葉を遮りリリーがゆるゆると左右に首を振る。腕を引かれ、俯きかけた顔を彼へと向けた。


「お忘れですか?私はすべてを知っていたんです!知っていながら、見ているだけだった!信じてほしいと願いながら、裏切っていた!みんなが奮闘するそばで私は騙して仲間のふり……。

私は多くの命を切り捨てました。より多くを救おうと立ち向かっていたあなたがそれを知ればどう思うか。責め句も軽蔑も、私は負う義務があります。ですがあなたからのは耐えられない!

私は……あなたのように勇敢ではありません」


リリーが視線だけを彼から逃がす。


「それこそ間違いだ!」


張り上げた声と共に一層増した彼の力。腕がギリと締め付けられ、リリーは小さく呻いた。怯むように緩んだスネイプの手からするりと彼女の左手が抜けていく。


「私とて切り捨てたものは多い。ダンブルドアに下る前はそれを気にかけもしなかった!理解こそすれ、私が君の選択をとやかく言うと思うか?」


スネイプは彼女の視線を追って首を傾ける。そして再び左手を取った。今度は柔らかく、掬い上げるように。指輪の存在を確かめる彼のかさついた指が、リリーの薬指をなぞっていく。


「君には何の義務もあるはずがない。本とダンブルドアに巻き込まれただけだ。それでも君は逃げなかった。予言を知っても、君のような選択を取れる者がどれだけいるか。君は我々を裏切っていたわけでも騙していたわけでもない。ただ、そうするしかなかった。

ポッターは私を勇敢だと裁判で証言したが、本当に勇敢なのは君だ」


リリーは何度も首を横に振っていた。イヤイヤと駄々を捏ねる彼女の頬へスネイプが包むように触れる。顔を上げるように誘い、今にも零れそうな彼女の潤む瞳を見つめた。


「私はそんな君を……君だからこそこの半年――いや、眠り続けるより前から既に君を――」


途端、リリーは目を見開いた。ガツンとハンマーで頭を殴られ叩き起こされたように固まり、すぐにスネイプの手を振り払う。よろめきながら三歩後退って木製のテーブルへ手をついた。


「それは、違う……」

「違う?」


消えゆく彼女の熱を守るように拳を握り、スネイプが一歩、リリーへと進む。しかし彼女は同じだけ遠ざかった。


「あなたが感じているのは命を救われた恩です。もしくは私にかけられたズルい魔法」

「違う」

「違いません!」

「私の感情を君が決めるな!」


吼えるようにスネイプが荒げた。ほんの僅かに覗いた彼の傷付いた表情。またリリーの心臓を締め付ける。それでも引きはしなかった。


「あなたは騙されているだけです!だから惑わされないでと言ったのに……。望んだものではないとしても、私は呪われています。あなたの心にも影響してしまったに違いないんです!」

「あぁ、影響されている!しかしそれは呪いにではない、君自身にだ!人と関われば往々にしてそのようなことが起こり得る。――私がどれだけ人に……リリーを失い、変わったか。君はよく知っているんじゃないのか?」


《知っている》

そして彼の愛を美しいと思った。私の気持ちはここから始まっている。


「君の危惧する呪いのことは、君が目を覚ます前から知っていた。結局は解明に至らなかったが、眠り続ける一因ではと、昔君を担当した癒者が調べていたからな」


スネイプがまた一歩リリーへ進んだ。歩幅の分だけ距離が縮まる。


「シュティールも……君に思いを寄せていた他の人間も、永遠ではなかった」


最後に届いたシュティールからの手紙で、彼はプロポーズしたい人がいると書いていた。永遠ではない。《呪い》によって気持ちが強まろうとも。だからこそセブルスのリリーへの永遠の愛は胸を打つ。


「しかし私の中から君が消えることはなかった。

君がどうしても気に病んでしまうのなら、私が解く方法を見つけよう。

リリーを忘れてほしいなら、申し訳ないがそれはできない。私からリリーを消し去れば、恐らく私は私でなくなる。

それに私の身代わりになったことへ感じているのは恩義と不甲斐ない私自身への苛立ちの半々だ。だがこれは、君への気持ちとは全く別だと言い切れる」


注釈だらけの台詞にスネイプが口端に自嘲を浮かべる。そしてまた一歩、前へ。


「もう私に愛想を尽かしたならそれで良い。この話は終わりだ。だが拒否する理由を君の心以外に押し付けることは認めない」


私の心。そんなもの、答えは分かりきっている。


「狡い……」

「君のズルさなど私の足元にも及ぶまい?」


最後の一歩は、リリーからだった。ふらりと吸い込まれるようにスネイプへと身を寄せる。

目を開けても彼でいっぱいの視界、独特の魔法薬臭から覗く彼本来の匂い、長く吐き出す息遣い、背に回り痛いくらいに抱き締めてくれる腕。


「私は過去と共に生きてきた。これからもずっと付いて回る。君もゆっくりと時間をかけて過去と折り合いをつけていくしかない。私はそんな君の隣で、永い未来を生きていきたい」


闇に支配されていく日々の中で、どう生きたいか、と尋ねたことがある。その時彼は『どう、とまでは言えん』と叶うとは限らない、ただ生きるだけだと答えてくれた。


そんな彼が今、導き出した生き方に、私がいる


「本当に良いんですか?私はエバンズではありませんよ?」

「君たちを混同したことはない。君が――思うのは君だけだと言ってやれない男でも構わないなら……私は君がいい」


涙が邪魔して言葉にならなかった。何度も頷いて、負けないくらいに抱きしめる。くぐもる声で「私も」とだけは返したが、彼に届いてくれただろうか。


私も、あなたがいい


お互いが溶け合うくらいに密着して、彼が背を撫でたり髪を梳いてくれるのを感じた。ただひたすら塞き止めていた感情が溢れるのを彼は受け止めてくれる。




しばらくして、リリーが大きく息をした。


「泣き止んだか?」


赤くなった目を細め、リリーがはにかみながら頷く。スネイプは彼女の頬に残った滴を拭うと、まだ彼女の存在が染み付いたローブから杖を抜き出した。


「そろそろ野次馬どもが痺れを切らす」


ため息を付きながらスネイプが杖を玄関扉とは違う扉へ向けた。キィ、と蝶番が滑り、つんのめるようにして出てきたのは住人二人。いつの間にか頭から吹っ飛んでしまっていた二人に慌ててリリーが謝った。


「気にしなくて良いよ。珍しい場面に立ち会えて光栄だ」


ルーピンがリリーからスネイプへ視線を移す。


「この場を提供してくれた礼は言うが、盗み聞きとは悪趣味だな。子供の教育に悪いのではないかね?」

「今のテディに分かりっこないよ。随分な長話で寝てしまったからね。それに、セブルス。聞かれたくない話なら、君はそうすることができた」


ルーピンが構えたままのスネイプの杖を指した。ぐっと言葉を詰まらせスネイプの眉間が見慣れた形へと変化する。


「まぁそこまで気が回るわけないか」

「ルーピン!」


なら仕方ない、と肩を竦めるルーピンに、顔を赤茶く変えたスネイプが声を荒げた。杖先を真っ直ぐルーピンへ向けている。両手を顔の高さへ上げ笑うルーピンは家族や親友へ向けるものとはまた違った楽しそうな顔。悪戯仕掛人としての彼を垣間見た気がして、リリーはクスクスと肩を揺らした。




ルーピンとトンクスは夕食に誘ってくれたがスネイプは頑なに帰りたがった。二人がリリーたちの話を聞きたがっているのは明らかで、トンクスに至ってはリリーだけでも残らないかと誘った。しかしスネイプにしっかりと肩を抱かれ、嬉しいやら気恥ずかしいやら慣れない状況に置かれながら、リリーは首を横に振る。


「リリー、泣かされたらいつでもおいで」

「ありがとう、リーマス」

「知らないのか?嬉しくても涙は出るものだ」


スネイプがチラリと未だほんのり赤いリリーの目へ視線を投げた。気付いた彼女が見上げ問い掛けるようにニコリと微笑むと、スネイプも釣られて目を細める。口端がほんの少しだけ上向いた。


「私、もしかして錯乱してる?幻覚かな?スネイプが笑ったように見えたんだけど?」


目を固く閉じては開く瞬きを繰り返しながら、トンクスが頬をつねってみせる。スネイプは無意識に緩んでいたらしい気を瞬時に引き締めて、いつもの不機嫌顔を作り出した。


「ルーピン、君の奥方は昔から頭を素通りして言葉が出るのを知っていたか?」

「それも魅力の一つだってことは知ってるよ」


トンクスが感謝のキスを夫に贈る。甘い新婚の空気にあてられて、スネイプとリリーはそそくさと家を去ることになった。


甘い雰囲気なんて私たちにはまだまだ早い。この先あるのかも分からない。けれど私たちには私たちのペースがある。切れない繋がりがある。

この先続く不透明な道標のない未来。

二人歩幅を揃えながら繋がりを縒り合わせていけばいい。


「これからどうするんですか?」

「一先ず君の家へ。そこで話そう」

「なら夕飯の買い出しに寄りませんか?ルーマニアのドラゴン使いに教わった料理がすごく美味しくて、きっとセブルスのお口にも合うと思うんです」

「荷物は私が持とう。これがなければ君はどこにも行くまい?」

「今度こそ本当に、ずっとおそばにいますよ。ご安心ください」

「それは安心だな」


二色のローブが重なり、バチンと乾いた音が森に響いた。







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