程なくして、リリーは無事に退院することができた。付き添うと申し出てくれたすべてを断って、荷物少なにロンドンを発つ。
姿現しでやって来たのは懐かしい木立の望める場所。翼のあるイノシシが守る校門を通りすぎ、砂利の引き詰められた並木道を歩く。馬車で通る道程も、噛み締めながら進めば短く感じた。
ホグワーツは今、試験期間の真っ最中だ。それでもダンブルドアが試験監督や採点をするなんて話は聞いたことがなかったから、校長のマクゴナガル教授も落ち着いたのではと思いきや、彼女は今年度いっぱい変身術も兼任しているらしい。私はおろか学生よりもパワフルな人である。そんな中で私を訪ねてくれていたことに感謝の念が一層強まった。
多忙な彼女に指定された時間は今日の午後1時。まだ少し余裕がある。私には校長室の前に寄りたい場所があった。
芝に混じり伸び始めた夏草を容赦なく踏みつけて、無人の校庭を湖の対岸へ向かう。リリーが最後に見たホグワーツ城はこんなに美しくはなかった。外壁は崩れ、塔の残骸は校庭に散らばり、窓ガラスはなくなっていた。しかし今は威厳ある歴史を背負う堂々とした佇まいが復活している。太陽は惜しげもなくその姿を晒し、リリーの行く先も、後も、道を照らしていた。
こんなに足を使ったのは1年と少しぶり。不思議な感覚だった。魔法薬の手助けで筋力は問題なく戻っているが、それでも少し疲れやすい気がした。
思えばホグワーツへ戻ったばかりの頃もこんな風だった。座っていることが多い古書店での仕事から階段だらけのホグワーツへ。相手をするのも大人から子供へ。毎日が慌ただしく、新鮮で、楽しかった。色んなことをした。色んなことを出来なかった。
「ご無沙汰しております」
雨風に晒されても白さを失わない不思議な大理石の前で足を止めた。
「『わしが本当にこの学校を離れるのは、わしに忠実な者が、ここに一人もいなくなったとき』死んで尚ホグワーツに眠るのは、意味が違いますよ」
最期の引き金を引いたのは、他でもないこの私。
「私もあなたの元へ行くつもりでした。ダンブルドア、どうして連れていってくださらなかったんです?枷になるくらいなら、私は――」
バチッと乾いた音が背後に響き、リリーは勢いよく振り向いた。そこにいたのは、守られたホグワーツでも姿現しが可能な存在。
「ドビー!」
「ドビーはリリー・エバンズを校門へお迎えにあがる途中でした」
指先をモジモジと弄りはにかむような彼に、リリーは再会の昂りのまま抱きついた。
「ごめんね。ここへ寄りたくて早めに来たんだ」
小さな身体を離し、リリーがダンブルドアの墓を振り返る。
「アルバス・ダンブルドアは偉大な魔法使いでした」
「そうだね」
「リリー・エバンズも偉大な魔女です!」
ドビーはテニスボールのような目玉をキラキラと輝かせ、リリーへ満面の笑みを向ける。意表を突かれきょとんと言葉を返せないでいる彼女へ見せつけるように、贈られた白シャツを捲り上げた。
「プレゼントはドビーの命を救ったのでございます!ドビーは会って感謝を述べたいとずっと思っていました。ありがとうございます、リリー・エバンズ!素晴らしいお方!」
リリーは再びドビーを抱きしめた。擽ったそうに笑う彼の声を耳元で感じながら、心でダンブルドアに言葉を向ける。
ダンブルドア、あなたは聖人君子ではなかったし、間違いも犯してきました。それでも多くは正しい道を選んでいた。
今回のことも、あなたが正しいのですか?
校長室へは二人手を繋いで向かった。多くの生徒が既に香しい大広間へと吸い込まれていたが、道中出会った何人かの生徒に退院の祝いを述べられた。
「ダンブルドア!」
ドビーが声高にガーゴイルへ告げた。合言葉はポッターが願ったあの日のまま。時期を悟ったセブルスが設定したままとなっていた。
手を振るドビーにリリーも応え、彼女は一人で螺旋階段を上がる。ドアノッカーを打ち付ければ耳に馴染む蝶番の軋みが響いた。
「よく来てくれましたね、リリー。退院おめでとう」
「ありがとうございます」
用途の分からない銀製の機器は減り、並べられた本の陰湿さは薄れていたが、部屋はダンブルドアやスネイプが使っていたときとあまり変わっていなかった。彼らの座った場所に今はマクゴナガルがいる。肖像画はいつものように居眠りをして、窓からは燦々と光が差し込んでいた。
「帰りに職員室へ寄ってください。みんな会いたがっていますよ。ポッピーも医務室へ顔を出してほしいと」
「もちろんです」
マクゴナガルが頷き微笑んだ。そして徐に立ち上がると部屋を横切り、ある戸棚の前へ立つ。彼女が指先に魔力を込めて透明のカーテンを開けるような仕草をすると、ぱかりと戸棚が割れ、奥から眩い銀色の光が溢れてきた。
「預かっていたものをこの部屋の主として私がお返しします」
そう言ってマクゴナガルは揺らめく光に目もくれず、何の変鉄もない教科書ほどの箱を手に取った。
「これはあなたのものですね?」
「はい。ありがとうございます」
リリーは受けとると箱を事務机へ置き、杖で蓋の決められた場所を何ヵ所も突いていく。鍵の外れる金属音がして、底数センチ分が主張するように飛び出した。リリーは慣れた仕草でそれを引き出すと、遠慮なく腕を沈める。
しかしそこに《本》は存在していなかった。
「どうしました?」
様子のおかしいリリーに見かねてマクゴナガルが声をかけた。使い込まれた黒の手帳を引き上げて尚、リリーは箱を調べ続ける。拡張され見つからないだけではと杖も向けていたが呼び寄せられなかった。終いには箱を振ったりひっくり返してみたりしたがこれ以上何も出てこないのは明白。とうとう諦めて箱を元の状態へと戻した。
「アルバス」
マクゴナガルが事務机の奥で眠る肖像画を起こした。
「わしもセブルスもその箱は開けていないと誓おう」
半月眼鏡の奥から真剣なブルーを覗かせてダンブルドアが答えた。
「もう意味のないものですから。なくなったならそれで良いんです。こうなるかもしれないと、どこかで思っていましたし」
空になった箱を手荷物へ、黒の手帳をローブの中へ加え、リリーがマクゴナガルへ向き直る。
「それで、私の仕事ですが……」
探したものは何だったのか。マクゴナガルは問いたい気持ちをぐっと堪え、事務机から書類を一束リリーへ差し出した。もう意味のないものなら、今更聞き出したところでもう意味のないこと。
「あなたは休職扱いになっています。望めば今日からでも復職できますよ」
リリーは書類を覗き込み、首を横へ振った。
「あなたもですか」
マクゴナガルの落胆は明らかだった。ピーブズの手も借りたい忙しさの中で期待できる戦力をまた手放すことになるとは。
「あなたも?」
「セブルスも辞退しました。裁判が終わり無罪となった際に復職を打診しましたが『戻る気はない』と。聞いていないのですか?」
眉を潜め訝るマクゴナガルにリリーは苦笑する。彼は空白の1年を語ってはくれたが、彼自身については何も語らなかった。ダンブルドアに関する裁判のように。
「まぁ、彼は自分を語るタイプではありませんからね。あなたに対しては違うのではと思いましたが」
「そうありたい、と思った日もありました」
口角を上げるだけの笑みを作り、顔を伏せる。
「今は思っていないと?」
マクゴナガルは嘘を見抜く鋭い鷹のような眼力をリリーへ示した。
「それは……まぁ、特別になれたらどんなに嬉しいか。でもそうは思って貰えそうになくて」
「リリー・ポッターのことですか?」
マクゴナガルはダンブルドアがスネイプを信じた理由を思い出していた。
「それもあります。ですが私は、セブルスがずっと彼女を思い続けていることは知っていたんです。初めから望みはないと知りながら、それでもそんな彼だからこそ好きになりました」
病室でのセブルスは甘く甲斐甲斐しかった。私にとってとても都合のよい彼の姿。でもそれは私が歪めたもので、私が望んだものでもない。
例えば《呪い》、例えば恩義
私たちはポッターらのいないホグワーツでの1年間、二人だけで秘密を共有し、二人にしか分からない不安や緊張を強いられてきた。マグルの学者が「吊り橋効果」なんてものを唱えたらしいが、それに似ている。そこに母から授かった惹き付ける《呪い》の影響もあるに違いない。
あの日々はそれで良かった。最後だと思っていたし、自分へのご褒美のつもりだった。私は生きている予定ではなかった。
命を重んじ、真面目なセブルス。彼は命を救われたと、私に傷を肩代わりさせてしまったと悔いている。彼が私を見る度に思い出すのはそういった感情。色んなものが混ざり合って、あの病室でのセブルスが出来上がった。
リーマスは私から離れ家庭を築いた。
なら、セブルスも。
人生を私よりうんと謳歌してきたマクゴナガル教授は何も言わなかった。慰めもアドバイスも何もなし。それが私には有り難い。
「そろそろ行かないと。職員室に寄り損ねてしまいますので」
「医務室もですよ」
「そうでした。マダムに怒られてしまうところです」
二人で扉の前まで歩き、マクゴナガルは開けた扉を支えた。
「ここを辞めても私たちは良き友人です。パブで語らう日を楽しみにしていますよ。自分を語らないのはリリーも同じですからね」
「はい。またいつか」
耳を澄ませば、扉の奥で螺旋階段の動く音がする。マクゴナガルは事務机のそばまで戻り、その奥に掛かる肖像画を見上げた。白髭を蓄えた先代の校長は隠れた胸元をスヤスヤとゆっくり上下させ、青色の絵の具が印象的な瞳を隠している。
「自分を晒け出せる相手がいるというのは素晴らしいことです。私にとってのあなたのように」
肖像画は興味をそそられもせず、居眠りか狸寝入りか判別できない穏やかな息を繰り返す。
「我々は友人としてでしたが、彼女たちには違う未来を辿ってほしいものです」
しばしば雑談の相手も勤める彼だがとうとうは返事はなかった。
「彼はあなたには引き継がなかったようですね。これは私と彼との思い出ですから、それも仕方のないことでしょう。……さて、忙しくなりますよ。まずは教職員の募集を出さなくては」
キビキビと彼女らしい所作で椅子を引き、羽根ペンと羊皮紙を引き寄せる。真っ直ぐ伸びた背を見つめるブルーの瞳が慈愛に染まり、にっこりと微笑みかけていた。
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