157 身代わり


ゆったりと読書に励んでいた彼、落ち着いた聖マンゴの雰囲気、より大人びて頼もしくなったティーンたちの顔ぶれ。ヒントはたくさんあった。けれどいくら私が生死をさ迷う間に現実で時が過ぎていようと、せいぜい1週間くらいだろうと思っていた。


『1999年6月25日』


セブルスが見せてくれた日刊預言者新聞は一面に『キングズリー・シャックルボルト正式に魔法大臣就任』と歌う片隅で今日の日付を刻んでいた。


「君はまだ目が覚めたばかりだ。1年の遅れはゆっくりと取り戻せば良い。時間ならある。今は休め」


闇の凋落、ホグワーツ城の現在、断片的な1年のあらましだけを語り、スネイプはその話題に栓をした。生徒たちに惜し気もなく披露していた有無を言わせぬ圧力。リリーは寝たい気分ではなかったが(何しろ1年も寝ていたのだから)今の彼には何も通用しないことを感じ取る。


「ありがとうございます、セブルス。おやすみなさい」


就寝の挨拶をすればセブルスも部屋を出るだろうと思った。しかし彼は腕を組み、ホグワーツ城を見回るときの厳しい目で、ベッドサイドから私を見下ろしたまま。


「君は寝るときに目を閉じるはずだが?」


どうやら私は寝付くまで監視されるらしい。それがどれだけ私の眠りを妨げるのか、彼は考える気もないのだろう。私は子供のように返事をし、彼が眉を寄せる前に世界を黒のベールで覆った。努めて深い呼吸を繰り返しながら身体から力を抜いていく。

しかしやはりどれだけ待とうと眠気は来てくれそうにない。監視の気まずさから目を開けることもできずにじっと彼の退室を待つ。


しばらくしてセブルスの動く気配がした。聖マンゴの清潔な床を擦るローブ、優しく肩に触れる彼の手。もう片方は眠りを妨げぬよう慎重に私の髪を梳いている。


「リリー」


不意に呼ばれて、ドクンと心臓が跳ね起きた。狸寝入りがバレているのかもしれない。そう思って、目を開けようとした。しかし床に何かが触れた微かな音に思い止まる。

ベッドに一つ、重みが加わった。


「良かった……」


くぐもった消え入りそうな声が、はっきりと耳に届いた。聞くべきじゃなかった。言葉に反して安堵以上の罪悪感とセブルスの悲痛な声色に心が逃げ出してしまいたいと縮む。

私はその心のまま、彼の伏せる反対側へと寝返りを打った。布団がかけ直され、彼の去る音を背に聞きながら、そっと目を開ける。

彼に自由を感じてほしくて、役目や贖罪に苛まれることなく歩む未来を夢見て、とうとうやり遂げたというのに、彼は未だ籠の鳥。


どうすれば彼は自由になれるのだろう


出口のない堂々巡り。答えの糸口も見つからないまま、それを求め旅に出るように、私は再び眠りへと落ちた。






再び目を開けたとき、既に太陽の光が病室に差し込んでいた。瞬きを繰り返しながら、ぼんやりと昨日のことを考える。それが正しく昨日のことかも不安になって、落ち着かずに身体を起こした。


「リリー、ちょうど良かった。起きたのですね」


気高い魔女の声にリリーが扉へ顔を向けると、マクゴナガルが病室へ入ってくるところだった。


「マクゴナガル教授!」


すぐさまリリーの顔に喜びが浮かぶ。マクゴナガルも生徒に向ける厳格な眼差しを柔らかなものへと変えて微笑んだ。


「報せは昨日中に受け取りましたが、ホグワーツは試験前の大切な時期です。朝早くは不躾でしょうが、私もこの目で確かめなくでは。セブルスの不愛想な報告だけでは足りないというものです」


今度は寝過ぎていなかったことに安堵して、より大きな問題に息を吸い込む。


「マクゴナガル教授、あの……」


どう続けるべきか分からず、リリーはそこで口を噤んだ。スネイプと共にホグワーツを去ったあの日、常に味方してくれた彼女を裏切った。それがリリーにとっては昨日のことのよう。

意図を受け取ったマクゴナガルがリリーの肩へ手を置きながら努めて穏やかな声色で話し出す。


「謝ろうとしているのなら不要です。セストラルを操る手腕はハグリッドより見事でしたよ」

「セブルスのことは……」

「セブルスを信じきれなかったのは私の過ちです。気にする必要はないと彼は言ってくれましたが、そうもいきません。ですがこれは我々の問題です。あなたは気に病まず、療養だけを考えなければなりません」


最後には長年勤める教師らしさが滲み出て、マクゴナガルはポンポンとリリーの肩を叩いた。また涙が競り上がってくるのを感じ、リリーが天井を仰ぐ。深呼吸して波を引かせてから頭を戻した。


「はい、心得ました」


リリーは笑顔でマクゴナガルへ頷いた。


「見舞いの品々はもう見たのですか?」

「いいえ、まだ……」


マクゴナガルに話を振られ、リリーは視界の端にチラチラと映っていた荷物の山に身体を向けた。ベッドサイドテーブルに危うげに積まれたそれらを上から順番に確認していく。

グレンジャーからは眠っていた間の日刊予言者新聞の抜粋。ポッターからは花と今日見舞いに行くと書かれたカード。ロックハートからもあり、『私は誰だ?』と見知らぬタイトルのサイン入り著書。これには一番驚いて、素っ頓狂な声を上げた。

最後に残ったのはとてもけばけばしい『W』が踊る包装。不安に戦く手を奮い立たせ、二つ折りのカードを開く。


「フレッド……ジョージ……」


最後に書かれた差出人の署名はどちらも欠けていなかった。


「二人はダイアゴン横丁に活気を取り戻すため、随分と貢献してくれています」


マクゴナガルは積まれた日刊予言者新聞の中から適当に選び取り、紙面一杯に刷られた「WWW」の広告を差し出した。ポトリ、とリリーの涙が新聞へ落ちる。


「さて、私はもう戻らねばなりません。今日は私がホグワーツを代表して来ましたが、みんなあなたに会いたがっていますよ。退院後、顔を見せに来ていただけますね? あなたの仕事のこれからについては、その時に話すとしましょう」


マクゴナガルがレースで縁取られた上品なハンカチを差し出した。リリーは何度も頷きながらそれを受け取る。忙しい中来てくれた彼女に感謝を述べて、零れる涙を拭いながら笑顔で見送った。




グレンジャーからの贈り物は彼女らしい配慮でとても役立った。隅々まで読み込めば療養中には終わらないほどの量に大きな見出しの記事だけを拾って読んでいく。


『名前を言ってはいけない例のあの人 敗北』

『ハリー・ポッター 生き残った英雄』

『ホグワーツの戦い その全貌』

『犠牲者一覧』

『セブルス・スネイプ 善か悪か』

『アズカバン 魔法省魔法法執行部管理へ』

『ホグワーツ新学期ずれ込む見込み』


セブルスが大まかに話してくれた内容と同じだった。

ホグワーツの戦いでの犠牲者一覧には胸を締め付けられ、暫し手が止まる。交流のなかった騎士団員から駆け付けた卒業生や残った生徒、何度も世話になったホグズミードの薬問屋の店主まで。それでもそこにダンブルドア軍団の名はなく、犠牲者の数は減っていた。

煎じた薬は確かに幸運をもたらしていた。けれど犠牲は確かに存在する。手放しで喜べるはずはなかった。

世間の流れを追っていると、もう1年が経っているという実感が私にも否応なく染み込んでくる。みんなはもうそれぞれに折り合いをつけ、前を向いていた。けれど私は、未だあの日に取り残されたまま。


『ダンブルドア殺人罪セブルス・スネイプの裁判開始』


その記事に、また手が止まった。


「そんな、違う……これは!」


ぐしゃりと新聞を握りしめ、真っ白になりかけた頭で懸命に記憶をかき集める。記事を読み込み、裁判の行方を追って他の日付の記事を探した。


『ダンブルドア、仕組まれた死!?』

『英雄ハリー・ポッターがセブルス・スネイプを弁護』

『セブルス・スネイプ、ダンブルドア殺人罪の無罪確定!余罪も情状酌量の余地あり!』


その日以降、セブルスが新聞に大きく取り上げられることはなくなった。どの記事にも私の名前は載っていない。私はダンブルドアの死においてすべての関与が消されていた。


陽は高く昇り部屋を心地好く暖める。しかし一人ベッドに座るリリーの顔色は優れない。

ふと、ノック音が聞こえた。今は誰とも話す気分になれない。しかしリリーは訪問者に思い当たる人物がおり、承諾の返事をした。彼女にとっては都合がよく、訪問者にとっては最悪のタイミング。


「来てくれてありがとう、ポッター」


ポッターはそろりと中を覗くと誰もいないことを確認してホッと肩の力を抜いた。計らずしも英雄っぷりを上げてしまった彼はどこへ行くにも必要以上に注目を浴びてしまう。うんざりだと言ったところで囃されてしまい碌に落ち着けやしなかった。


「お久しぶりです、先生。……あの、大丈夫ですか?顔色が――」


そこまで言って、ポッターは彼女の握る新聞の見出しに言葉を止めた。あっ、と息を呑む彼にリリーは件の記事が見えるようにして突き付ける。


「君は真犯人を知ってる」

「それは……はい」

「どうして本当のことを証言しなかったか、聞かせてもらえる?」


憤りは感じていた。しかしそれは自分に向くもので、決してポッターを責める気はない。それでも落ち着こうと出した声は低く冷たいものとなった。


「僕……あー……彼を玄関ロビーで見たのでもうすぐ来ると思います。たぶん、直接聞かれた方が……」


再びノックが響いた。本日三人目の見舞い客。安堵するべきか緊張を深めるべきか、複雑な表情を見せるポッターを無視してリリーが返事をすると、入ってきたのは噂したばかりの人物だった。今日も変わらぬ黒衣を纏い、マントを引きずりながら漆黒の瞳を二人へ向ける。和やかとは言えない雰囲気に眉間を深め、説明を求めるように首を傾けた。






突き出されたままの新聞記事を受け取って、ハリーはスネイプへと差し出した。ピリピリとした空気に親友二人の板挟みの方がまだマシだったと思いながら二人を交互に窺う。愛していると告げた女性と、その女性を最後の最後まで足掻き続けついに救った男。その二人のやり取りが、こんなに殺伐とするものだろうか。

ハリーから受け取った新聞をベッドへ放り、スネイプは深々とため息をついた。


「今更遅い。既に裁判は終わり、我輩はアズカバンではなくここにいる」

「でも、そんな、あの日集まっていた死喰い人なら私がやったと知っているはずです!彼らは!?」

「死んだか黙りかだ。我輩が自白している上、ダンブルドアの肖像画が口添えをした。元々仕組んでいたことだったからな。それで十分だ。魔法省もあまり裁判を長引かせたくなかった。

エバンズ、これ以上無駄に引っ掻き回そうとするな。この1年に起こった出来事に君が干渉する権利はない」

「そんな!」

「何を真実として公表するか、知る者を集め話し合った結果だ」


スネイプの視線につられ、エバンズもまた、ハリーを見た。裏切りにうちひしがれるような彼女の目に、ハリーは何と声をかけるべきか分からなかった。ただ首を上下に動かすだけで精一杯。

好奇も、非難も、英雄視も、憎悪も、ハリーは望まずして色んな目を向けられてきた。どんなものだろうと強い関心を向けられることがどれほど苦しく標的を蝕んでいくか、ハリーにはよく分かる。

だからこそ、スネイプの提案に賛成した。エバンズの身代わりになりたいと申し出た男と共に真実へと蓋をした。

ナギニに咬まれ眠るように目を閉じた彼女の手をハリーは離してしまった。しかしスネイプは諦めなかった。それを忘れたハリーではない。


「マルフォイは?三人は生きていらっしゃるのでしょう?ドラコはポリジュース薬の効果が切れるまで共にいました!」

「彼らも同意し、我輩がやったと証言した」

「どうして……どうしてあなたはすべてが終わって尚、背負おうとするのですか!他人の荷物まで……」


悔しさに涙を滲ませながら彼女が拳を握る。スネイプは尊大に組んでいた腕を下ろし、彼女へ一歩近づいた。ハリーは今こそ去るタイミングだと思った。

足を引き、身体を扉へ向ける。その直前、スネイプと目が合った。彼は何も言わない。ハリーも何も言わなかった。






人数が減っても部屋が静けさを増すことはない。身動ぎひとつ許されない張りつめた空気が太陽の恩恵さえも拒んでいるようだった。場違いなランチがサイドテーブルに現れ、病室にミルクやスープの匂いを撒き散らす。


「私は信念に従ったまでだ。かつて君がそうして私の役目を肩代わりしたように」


口火を切ったのはスネイプだった。無意識に彼女へ伸ばした左手を右手で押さえ、ぐっと黒のマントに皺を作る。


「恩返しのおつもりですか?ならば余計なことでした。あなたも仰ったでしょう?自分の面倒は自分で見ると」


冷えきったリリーの視線がスネイプに突き刺さる。しかし彼は怯むことなくその瞳を見つめた。

スネイプはこんな彼女の反応を予想しないではなかった。すべてを抱え、先に他人の、自分の荷物までもを抱えたのはそちらだろう、と胸の内で言葉を返す。言い争うために1年も彼女のそばにいたわけではない。プライドも嫌みもすべて封じて彼女と話したかった。

スネイプは丸椅子をベッドサイドへ運び腰かける。指を組み、リリーと目線を合わせた。苦しく切なげに目を細める彼の眉尻は下がり、懺悔することすら許されない罪人のようで、リリーの心からは憤りや叱責が消えていく。代わりに襲うのは大蛇に締め付けられるような苦しみ。


「闇を討ち滅ぼすまでが君の役目だと、ダンブルドアが言っていた。もう君は自由だ」

「それはあなたもです、セブルス。もうポッターを見守る必要はありません」

「だが私には消えない過去がある。どんな理由があろうと死喰い人としての行いは赦されるべきではない。それが今更一つ二つ増えたところで大した枷とはならん。君とは違う」

「違いません!私の罪は人に見えないだけ。私は……あなたが思うほど真っ白な人間ではない」


セドリック・ディゴリー、クラウチ・シニア、アルバス・ダンブルドア。彼らだけじゃない。私の歩んだ道は見捨てた命で作られている。目の前の愛だけを見据えて歩みを進めても、振り返ればいつもそこに罪が大口を開けて私を呑み込もうとしていた。


「ならそのままにしておけ。見えないものを見せてやる必要はない」

「納得できません!」

「ポッターから君があの日命を狙われた理由を聞いた。ここに横たわるのは私であるはずだった。いや、私なら死んでいただろう。死の恐怖に直面し、想像を絶する痛みを味わって」


彼の罪悪感の正体が分かったような気がした。彼を救うためにした行動が、結果として彼を縛り、苦しめている。


「自覚はないだろうが、私は何度も君に救われてきた。今度は私が、君のために何かをしたい」


セブルスの存在が、贈られた言葉一つ一つがどれだけ私の救いとなっていたか。抗議を上げようと口を開きかけ、制された。口を挟ませる気はない、と唇に寄せられた彼の長い指が物語る。


「これを恩返しと呼ぼうが余計なことと言おうが好きにすればいい。今の私にしてやれることはそう多くない。だからせめてこのまま、私に背負わせてくれないか?」


リリーは目を伏せた。スネイプを見ることもなく、首を縦に振る。

彼は大空に羽ばたける人なのに、今度の枷は私。命を懸けることは私本位の行動だった。


今度こそ、彼のために







Main



人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -