148 10月


ホグワーツ城から望める山々の頂上に雪が舞い落ち始めた頃、嬉しい知らせが立て続けにリリーの元へ舞い込んだ。

一つはフェリックス・フェリシスの完成。

煎じ薬をひたすらに煮詰めて幸運を凝縮し、大鍋一つ分が今やゴブレット一杯もない。けれど色や液跳ね、どれをとっても申し分のない幸運の液体が出来上がった。

リリーはそれを瓶に移し、私室の階下にある金庫へと保管する。かつてその金庫には《本》を隠した箱を入れていたが、今は校長室へ移されたまま。


そしてもう一つ。

ピリッとした刺激のある熱が左手の薬指に宿る。メッセージが送られてくるのは毎回陽が沈んでからだった。


『ポッター 生存 確認』


魔法省での一件以降、初めてポッターの様子が知らされた。リリーは一人きりの私室でそれを読み上げると居ても立ってもいられなくなり、部屋を飛び出した。

何かあれば分かる。何もなくても《本》の予言で《知っている》。しかしいくら城外での動きに私の影響は薄いとしても、ムーディ氏のこともある。必ず《本》の通りに進む確証があるわけではない。瞬く間に胸に安堵が満ちていった。

絵画もイビキをかく廊下を走り、階段を八階まで駆け上がる。途中ピーブスに見つかりそうになりタペストリー裏の空間へ飛び込んだ。

冬の訪れをひしひしと感じさせる夜のすきま風も、興奮隠し切れぬリリーには春のそよ風程度にしか感じられない。

気乗りしない合言葉を伝えて脇へひょいと退いたガーゴイルの間を足早にすり抜ける。螺旋階段に運ばれた先のグリフォン形のドアノッカーを軽快に叩いた。


「リリー・エバンズです!」


息を切らせながらも弾んだ声で伝えれば、ゆっくりと勿体ぶるような音を立てて扉が開かれた。


「騒々しい」


駆け込んできた女に開口一番非難を浴びせた黒衣の男は、事務机の手前に立っていた。左足と事務机に体重を預けて腕を組むスネイプの奥で、壁の肖像画が穏和なブルーの瞳でウインクをする。

リリーは大きく跳ぶように三歩進んで、目を見開いたスネイプの胸へと飛び込んだ。驚きにほどかれた彼の腕は左右へ退けられ、リリーは一層彼へと身体を密着させる。


「ポッターの無事を直接お伺いしたくて」


スネイプの腕が引き剥がそうとピクリと動いた。しかし触れるべき場所を探し当てられず、諦めたため息と共にだらりと下げる。


「私はそのポッターではない」

「えぇ、あぁ、まぁ……そうですね……」


リリーが苦笑しながら力を抜いた。するりと抜け出たスネイプが距離を取って事務机の奥へと回り込む。逃げるような彼の行動に寂しさを感じ、それでもすぐに引き剥がされなかったことに幸せを噛み締めて、リリーは彼の名残を心で抱く。


「心配していなかったはずでは?」

「えぇ、きっと無事だと信じていました。ですが実際にそうだと分かると……よかった……」


ふにゃり、とリリーが緩みきった笑みを浮かべる。


「彼らはフィニアス・ナイジェラスの肖像画を持って移動している。彼の聞いたところによれば、ポッターは依然としてハーマイオニー・グレンジャーとロナルド・ウィーズリーを引き連れている」


スネイプが言った。


「礼を欠く生意気な口振り。この世すべての中心が自分だとでもいうような態度。成人とは名ばかりだ」


寝たふりの姿勢のまま、スリザリンカラーのローブを着込んだ肖像画が尖ったヤギ髭を震わせた。組んだ腕へ神経質な手袋を嵌めた指をイライラと何度も押し付けている。


「スリザリンの校長の頼みでなければこんなこと……全く……」


グチグチと不満を続けながら居住まいを正し、フィニアスはまたむっつりと口を閉じた。


「分かったなら出て行きたまえ。私は忙しい」


話が終わればさっさと追い払われるのは毎度のことだった。私もそれにごねたりしない。振る舞われる紅茶も密度の高い夜も恋しくはあるが、彼の邪魔はしたくない。それに私に好意を寄せられていると知った以上、もう一線を越える気はないのだろう。

中途半端な真面目さはいらない、と初めての時のように誘ったら、今度こそ軽蔑されてしまうだろうか。リーマスをも歪めてしまった《呪い》の力を借りれば、身体くらいはまた手に入るかもしれない。


……なんて浅ましい


「どうした?」


考え込んで時間を食ってしまっていたらしい。椅子に座ったセブルスが羽根ペン片手にこちらを窺っていた。


「いえ、何でも。おやすみなさい、セブルス」

「おやすみ」


ぎゅっと引き上げただけの笑みで就寝の挨拶をすれば、眉間のシワはそのままにセブルスも返してくれた。


校長室からの帰り道。教室も少ない六階の廊下を渡って階段に差し掛かる。

三食お腹一杯の食事にありつけて、暖かなベッドで眠り、毎日愛する人のそばにいる。ポッターたちの生活を思えばなんと恵まれていることだろう。

毎日誰かが苦しみ涙を流し命を落とす国情で、こんなにも幸せで良いのだろうか。そう考えて、つい近付いてくる足音を聞き逃してしまった。

その声は隣接する階段の上階から降ってきた。


「こんな時間に何をしてる?」


人を見下し品定めするような嫌な声だった。


「あなたに話すべきかはスネイプ校長が判断なさいます、アミカス」


毅然とした態度は崩さず横目で彼との距離を確認し、足早に階段を下る。そして壁を真似た扉へ飛び込んだ。


「痛っ!」


しかし扉を閉めきる一歩手前でアミカスが杖を振り、リリーを縄で絡めとった。得意の苦痛ではなく捕縛が目的のその呪文は彼女の腕ごと上半身に巻き付く。彼が大振りな動作で杖をぐいっと引くと、繋がれたリリーが隠し通路から引きずり出された。


「俺は知ってるぞ。お前はちょくちょく夜遅くに部屋を抜け出してあいつのとこへ行ってる。だろ?」


手に縄の端を握り密着するほどにリリーを引き寄せて、アミカスは彼女の首筋へ囁くように問いかけた。ゾワリと吐き気に襲われて顔を背けるが、彼の息使いが首筋から耳へと這い上がる。彼女の身体をなぞる杖が胸から腰を伝い太ももへと下りた。


「ガキばっかりのこんなとこを任されて、俺もいい加減溜まっててね」


ニヤリと嫌な笑みを浮かべた気配がする。


「来い!」


容赦なく縄を引かれ、リリーは腕に食い込む痛みに顔をしかめる。転けては一層痛くなるに違いない。必死に足を動かした。ローブに入ったままの杖は腕と共に縛られて抜けそうにない。ならば今は隙を作るしか逃れる道はない。

アミカスが選んだのは近くの空き教室だった。屋敷しもべ妖精の手入れが行き届いているのか、使われていないにも関わらず埃一つ落ちていない。一人用の机がいくつも並べられ、そのうちの一つにリリーは仰向けに押し付けられた。夜中でなければ誰かが駆けつけたであろう音を響かせ机が軋む。


「触らないで!」

「無駄だ。フリットウィックなら今頃下の階をうろうろしてるだろうよ」


あぁ、今日の見回り担当は彼だったのかと、頭の片隅で思う。助けは期待していなかった。絶望的な状況ではあるが、万策尽きたわけではない。身体の両脇に沿うように縛られた腕の肘から下は辛うじて動く。それに左手に残る指輪が私に冷静さを保たせてくれていた。あとは機会を待つだけ。


「盛るなら外へ行けば良い。あなたに外出は禁じられていないはず」

「俺はお前を信じていない。ここを離れたと知って何か起こす気がないとどうして言える?だったら、お前で済ませちまえば万事解決だ」


腰の負担が大きい無理な体勢にリリーは身を捩るが満足に足をばたつかせることも儘ならない。せめてと両足を固く閉じたものの、杖を振るまでもないとアミカスが力を込め、抵抗虚しく両足の間に身体が滑り込む。


「すべて済んだあとで記憶は消してやるよ。お前は知らない間に俺を覚え込まされる。何度も、何度も」


身体を這っていたアミカスの手がリリーの臍の下辺りへ辿り着く。その内にあるものへ届かせるようにぐっと親指で圧迫した。彼女は本能的に逃げようと身体をくねらせたがガタンと机が揺れただけ。


あと少し、あと少しだけ近付いてくれたなら、指輪を使うことができるのに


捕らえた獲物はじっくりと味わうタイプなのか、私の体力の消耗を待っているのか、どちらにせよこの状況が続くのは私にとって不都合だ。

リリーは指を目一杯伸ばしてアミカスのマントへ指を絡めた。そして少しずつ手繰り寄せて自分へと近付くようにグッと引く。キスをねだるようなその仕草に吐き気がした。しかし今は寧ろそのくらい身を寄せてくれた方が好都合。


「気が変わったか?」


ニヤリとアミカスが笑う。リリーの頭のすぐ隣へ杖腕をついて、その身を寄せた。


「まさか」


リリーは左手に力を込めて、思いっきりアミカスの身体を突き飛ばした。縛られて大した勢いもないはずのそれは魔法道具の力を借りて大の男を軽々と吹き飛ばす。鈍い音を立て3メートル離れた壁に鞭打ち、ずるずると壁伝いに床へと滑り落ちた。


「すごい……」


芋虫のように蠢き机から降りて、リリーはぐったりと動かない男を注視する。恐る恐る近付いて、彼の手から転がり落ちた杖を拾った。


「ディフィンド(裂けよ)」


少し狙いは外れたものの、縄が切れる。想像以上の指輪の威力に驚いて、念のために彼の息を確認した。


「どうしよう……」


悩んだものの、選択肢が多いわけではない。

リリーは慎重に扉を開け、僅かな隙間から外の気配を探った。遠くから早足の靴音が近付く。階段を駆け下りているその音の正体を覗けば、ふわりと黒のローブを靡かせて去るスネイプの姿が見えた。何かあったのではと飛び出しそうになった身体をグッと柱を掴み押し止める。

アミカスをこのままにはしておけない。

メッセージが届く可能性に薬指を見れば、そこにはハッキリとした痕が残るだけ。銀のリングも、飾られた黒曜も、跡形もなく消えていた。


「そんな……!」


たとえ他意がなくとも、セブルスから贈られたたったひとつの、十中八九最初で最後の形に残るもの。


「アクシオ(来い)、指輪」


数分前まで寝転んでいた机の辺りから、破片が三つ飛んできた。真っ二つになったリングの欠片たちとボウトラックルの目玉二つ分の小さな黒い石。ホッと胸を撫で下ろし、それらをポケットへと大切に入れる。

少し待ち、スネイプがすぐに引き返してこないことを確認すると、リリーはアミカスのそばに跪いた。

この一連の面倒事はなかったことにするのが一番だ。


「オブリビエイト(忘れよ)」


忘却術士でもない自分が使うことになるとは思わなかった。神秘部で「脳の間」にいたときの経験を思い出しながら、アミカスへ別の記憶も刷り込んでおく。物音がしたと空き教室へ踏み込んだもののネズミに惑わされ誤って転んでしまったという間抜けな記憶を。

リリーはアミカスの意識が戻らない内に部屋を出た。音を立てないように扉を閉めて、周囲を窺う。足音はなかった。

自室への近道を通り、部屋のある廊下へ繋がるタペストリーから頭を出す。ジャリ、と靴先の擦る音がして、慌てて頭を引っ込めた。一瞬目に入った姿は大きなシルエットのローブ。杖明かりに浮かび上がった影色のそれは、アミカスを吹き飛ばした教室からも見た姿だ。慌てていたようにも見えたが、今思えば人を探していたのかもしれない。この廊下にあるのは私の部屋くらいで、合わせて考えると、早めに姿を現しておいた方が良いだろう。

思考がそこまで辿り着き、いざタペストリーを捲ろうと手をかけた。そのとき、数センチ離れた場所にぬっと指先が現れ、バサリと反対側から隠し通路が露わにされる。ぐっと眼前に杖明かりを突きつけられた。


「どこへ行っていた?」


スネイプの声が狭い隠し通路を駆け下りる。唸るような低さで的確に恐怖を煽ろうとするその声に、怯みそうになる足を叱咤した。リリーが彼の杖先に手をかざし光を遮れば、僅かに光が逸らされる。ギロリと突き刺す視線が彼女の目に映った。

スネイプはリリーの頭の先端から足の先まで首ごと視線を走らせ、最後に顎をしゃくって無言の命令を下す。彼女は指示通りに一歩廊下へ踏み出した。今日は見つかってばかりだとため息を呑み込んで、堂々と胸を張り視線を泳がせまいと気にかける。


「見回りをしていました」


スネイプは彼女の背後を確認するように隠し通路へ頭と杖を突っ込み、誰もいないと分かると姿勢を戻して腕を組んだ。


「今日はアミカスとフリットウィックが当番だ」

「嬉しくって寝付けなかったので、自主的に」


リリーは得意の笑みを浮かべたがスネイプに通用したことはない。見逃してもらったことは多々あるが、今日はそうはいかなかった。

左右に目だけを動かし人気を確認すると、スネイプはリリーの二の腕をがっちりと掴む。流れについていけない彼女を無視して引きずるように大股で移動し、近くの扉へ杖を振った。許可も得ずに押し入り扉の前を陣取る。その部屋の主はスネイプの隣で離された腕を擦っていた。


「あの――」

「これは?先程はなかった」


言葉を遮ってスネイプの長い指が触れたのはリリーのローブ。部屋を飛び出したときのまま放置されていた照明や暖炉が、その指先を鮮明にする。10センチほど縦に動かしたその場所には引き裂かれたような亀裂。

リリーには心当たりがあった。縛られた体勢で杖を振ったときに手元が狂ったのだとすぐに思い至る。しかしそれが顔に出てしまわないよう努めた。


「騙し階段に引っ掛かってしまって。実を言うと、その際に戴いた指輪が外れてしまい……探していました」


痕が付いただけの薬指を弄りながらリリーが苦笑いを溢す。スネイプの視線がチラリと手に落ちた。


「あぁでももう見つけましたので!お恥ずかしい話です。壊れていないかも確かめないと」


俊敏な動作でスネイプがリリーの左腕を掴み上げた。付いた悪い虫を射殺す目で指を睨み付け、投げ返すように離す。


「だから『不格好でない指に』と言ったのだ」

「はい。返す言葉もございません……」

「二度は言わん、無くすな。必ずつけろ」


その目はいたく真剣で、有無を言わさぬ眼力にリリーは首を縦に振った。スネイプが彼女に背を向け扉へ手を掛ける。それをリリーが引き止めた。


「何かご用があったのでは?」

「……君にではない」


スネイプはそう答えるなり扉を開け、闇の中へと溶けていった。


「レパロ(直れ)」


リリーはポケットから取り出した三つの破片へ呪文を唱える。とても簡単な杖の動きと単純な理論の魔法。欠片たちは綺麗に修復され、一見しただけでは変化は分からない。しかし魔法道具としての機能は失われてしまった。それでもリリーは指輪を左手の薬指へと通す。


『不格好でない指に』


そう言われたばかりだが、やはりこの指に嵌めていたかった。それに気づいた彼の眉間が深く寄っても、嫌みを投げつけられたとしても、取り上げられない限りは。


「守ってくださって、ありがとうございます」


黒曜を右手で包み込み、胸へと抱く。心の底から湧き上がる切ない慕情を全身で感じて、熱い吐息を部屋へ散蒔いた。







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