例年ならば照りつける太陽の勢いが増し汗を滲ませホグワーツ城にて魔法薬研究に勤しんでいる頃。私は専ら私室の階下でフェリックス・フェリシスの調合に勤しんでいた。
形だけなら変わっていない日常。
もちろんそればかりではない。
私は《本》の予言をなるべく変えずに、しかし避けられる悲劇には出来る限りの対策をとってきた。バーベッジ教授が身を隠しながらマグル生まれの擁護を続けると退職されたのもそのうちのひとつだ。自分の役目は今や学外にあると彼女は意気込んでいた。
魔法省との話し合いでホグワーツは9月からも希望者には門戸を開くことになった。しかしその頃には状況は一変しているだろう。禁じられた森で生まれた魔法生物を生徒に見せてやるのだ、とハグリッドが明るい授業風景を夢想する度に心が痛んだ。
マンダンガス・フレッチャーとスネイプ教授の密会にも一役買った。お金に目がない小悪党を誘き出すだけのことではあったが、スネイプ教授が取り計らうよりも手軽に事が運んだはずだ。姿を偽った私がフレッチャーと話し込む隙に、教授は背後から彼に「服従の呪文」をかけた。
近頃私は夜寝る前に祈りを捧げる事が日課になっていた。左手の薬指で優しく光る黒曜を右手で包み込み、適当な言葉を心で並べる。ただの気休めでしかない。それでもみんなの無事を願ったあとは、ベッドにいる罪悪感がいくらか和らいだ。
ポッターの誕生日を目前に控えた土曜日。
この日ばかりは眠れずにいた。七人のポッターが一斉に隠れ家へ移動する日だった。茜に輝いていた空が紫を経ていつもは安らぐ漆黒へ染まっても、私は私室の窓から数多の星を見上げ指を組み、祈っていた。
すべては《本》の通りに動く。
そう信じてはいたが、私は死喰い人に加担する形をとっているし、フレッチャーにも関わった。未知の影響が出ても不思議ではない。以前ロングボトムやスネイプ教授の姿を借りたように今回もフレッチャーに成り代わる。そんな計画が頭を過ったが、事態がより悪化する可能性の方が高く、断念した。
指先は白く震えていた。暖かな7月も陽が落ちればひんやりと身体を冷やす。ぬくぬくと暖をとる気にもなれず、開け放った窓から乾いた風を取り込んだ。けれど震えるほども寒さはない。背後ではフォークスが止まり木で休み、羽に頭を埋めていた。
どれだけそうしていただろう。
リリーは左手にピリッと走る痛みと共に熱を感じて顔を上げた。正体不明の刺激の元を探して夜空に左手をかざす。部屋の明かりに浮かぶ手には広大な夜を切り取ったような石が飾られているだけで傷はない。リリーは銀のリングを辿るように手首を回した。そして目を見開き息を呑む。
『全員 無事』
スネイプに贈られたその指輪の手のひら側に、彫られたような文字が現れていた。リリーはすぐにダンブルドア軍団の金貨を思い出した。マルフォイも真似て相互にやり取りができるものを作っている。リリーはローブから杖を抜き出し指輪へと向けた。
しかし何度試してみても、リリーからメッセージを送ることはできなかった。スネイプは一方的な報告だけで十分だと判断したらしい。その上指輪の説明もなかった。リリーはため息をつきたくなって、呑み込んだ。
「全員、無事……」
既に文字は消えていたが、指輪をなぞりながらそう呟く。そうすることで彼からのメッセージがじわじわと染み込んできた。
『全員』が死喰い人を指すことはないはず。ならば、騎士団全員。ポッター、リーマス、ウィーズリーの面々やもちろんメッセージを送ったスネイプ自身も無事なはずだ。だがムーディ氏はどうなったのだろう。全員とあるからには、つまり――。
リリーは叫び出したい衝動に駆られた。内で爆発した熱を白藍のソファにぶつけることでやり過ごす。フォークスが距離を取り止まり木の端へ移動した。
荒々しい喜びの舞いのあと、リリーはソファに腰を落ち着けた。
まだしばらくはスネイプ教授に会えない。しかし会ったところで今日のことは死喰い人側からの報告程度でしか彼も知らないだろう。ならばハグリッドから聞いた方が確実だ。きっと子細が分かる。
リリーは指輪の黒曜に熱の籠ったキスをしてから右手で包み込み、いつものように祈りを捧げる。けれど今日は少し違う。
「無事でいてくれてありがとう」
翌日もカラリと晴れた清々しい天気だった。賑やかな鳥の囀ずりが森を飛び出して城中に奏でられている。ハグリッドがいつ戻るのか定かではないため、リリーは昼過ぎに一度訪ねてみるつもりでいた。しかしそれはある訪問者によって変更することとなる。
昼前の、まだ太陽が頂点へ昇りきっていない時間だった。私室の階下でようやくフェリックス・フェリシスらしさを見せ始めた煎じ薬を撹拌していたとき。リリーにノック音が届けられた。マクゴナガルか、フリットウィックか、稀ではあるが訪問者が来ないわけではない。リリーは手を止めて私室へ戻ると、返事をしながら扉を薄く開いた。
「リーマス!どうして、何か――」
何かあったのでは。そう表情を曇らせるリリーにルーピンは慌てて首を横に振り、白髪とシワの増えた顔でくしゃりと人を安心させる笑みを浮かべた。
「ミネルバに用があってね。少し寄っただけだよ」
「そう、良かった……。時間があるなら、コーヒーでも飲んでいく?」
ルーピンが頷いて、リリーは彼を招き入れた。
「――そういうわけで、ハリーは無事に守られている。だが問題は情報が漏れていた点で――」
ルーピンは七人のポッター作戦について詳細をリリーに語った。怪我人こそいるもののムーディを含め作戦に参加した全員が無事だということ、ポッターはウィーズリー家にいること、ダンブルドアがポッターへ託した任務は未だ判明していないこと、そして裏切りへの懸念で話を締めて、意見を求めるようにリリーを見つめる。
「まずは、みんなが無事でいてくれてよかった。リーマス、あなたも無事で本当に嬉しい」
「ありがとう」
「裏切りについては、考え過ぎない方が良い。ポッターの意見に賛成だよ。うっかりのミスも許されない状況だけど、信じ合わなきゃ」
できることなら、スネイプ教授のことだって。けれどそれについてはどうすることもできない。すべてが明るみに出たあとでじっくり誤解を解いていけばいい。そういう時間を作ることが私の役目だ。
「だけど君は……」
リーマスは続きを言わなかった。目線を逸らし口を塞ぐように甘ったるいコーヒーを含む。しかし私には彼が何を言わんとしたのかが分かった。スネイプ教授のことだ。捨てたはずの過去へと寝返り、私を、すべてを裏切った。
そう思われている男の話を。
「誰かに裏切られたからって他のすべても疑うようになってしまったら、辛いばかりだよ」
「すべてじゃない。君のことは信じてる」
「ありがとう。期待には応えるよ。そうだ!辛いニュースばかりだから、気が滅入って駄目な方へ考えがちなのかも。他のプラスなことを考えない?ポッターとジニーとか、ビルとフラーとか、あなたとトンクスとか」
「私とトンクス?」
ムーディの無事が確認できた今、リリーの関心事は他にあった。予言の示す未来へ向かうために気掛かりで、でも決して彼女の得意分野とは言えない。
ポッターらはホグワーツ中の噂になっていたし、ビルたちは数日後に結婚式を控えている。けれどリーマスとトンクスの様子だけは分からなかった。ダンブルドアの葬儀ではスネイプ教授のことばかりで気にかけていられなかったし、リーマスの左手は飾り気がない。《本》の中では第一子を身籠っている頃だというのに。
「ダンブルドアは何よりも愛を大切にされていたから。この暗い世に対抗できる唯一のもののように考えてた」
「あぁ、愛……愛ね」
ルーピンは自嘲的に息をつくとソファに深く腰かけた。そのどこか投げやりな態度にリリーが身を乗り出す。
「リーマス、もっと自分の幸せに貪欲になって。どんな時でもあなたの幸せを願う人は沢山いるし、あなたと幸せになりたい人だっている。諦め癖は良くないよ」
「諦め癖、か。内に眠るもう一人の私さえいなければすぐにでも治るよ」
「すべてを愛してくれる人に出会えるなんて奇跡なのに……」
「そうかもね」
トンクスを愛し家族をつくることに対するストッパーを消し去ってほしい。その一心だった。しかし依然として態度を崩さないルーピンにリリーは腹が立ってその場で立ち上がる。
「リーマス!」
対抗してルーピンも立ち上がった。背の高い彼との間に生まれた透明の魔法生物がリリーの両肩にのし掛かって来るようだった。爆弾を抱えたような様子の彼が息を吸い込む。
「あぁ、私は狼人間を誇りとして生きてはいけないさ!一生付き纏う汚点なんだ!だが君の論点はそもそもが間違ってる!トンクスとくっつけたがっているのは分かるが、私が愛しているのは君だ!」
ドーンと大きな音を心に響かせて、稲妻がリリーの身体を余すとこなく駆け巡った。目を見開き息も忘れ、呆然とその場に立ち尽くす。
「私と幸せになりたいのも、すべてを愛してくれるのも、君だったらと……。これも一種の裏切りだ。言うつもりなんて、これっぽっちもなかった……」
苦々しく顔を歪め、ルーピンがくしゃりと右手で白髪混じりの髪を掴む。そして周囲に転がる名案を探すように数歩分の往復を始めた。リリーは天井と自身とを繋ぐ糸がふつりと切れ、身体がソファへ沈むのを感じた。
友人だからといって、二人の恋の進展具合という無粋なことをわざわざ確認する気なんてなかった。結婚まで踏み切れば報告くらいはしてくれるだろうと。それまではと。
確認することが怖かった。
私は、私の《呪い》は、リーマスの心を変えてしまった。宿っているはずの新たな命を、私は、奪ってしまったのだ。
「ごめん、なさい……ごめんなさい……」
ごめんなさい、リーマス
ごめんなさい、トンクス
ごめんなさい、小さなテディ
トンクスと私は全く違う。だから《呪い》で好意的に見られてはいても、友人以上に思われることはないと鷹を括っていた。私が悪い。彼らの息子になるはずだったテディを産み出すには何億、何兆とある遺伝子配合の奇跡の一つだったのに。
「リリー?」
彼女は青白い顔でぎゅっと身を縮めていた。断りの返事にしては過剰なリリーの謝罪に、ルーピンはテーブルを回り込んで彼女の足元へ跪く。口を覆うように添えられた彼女の白い手に触れようとして、今しがた告げてしまった想いに躊躇した。ぐっと拳を握る。
「叶わないのは分かってる。スネイプだろう?君が愛しているのは」
どこまでも優しく、気遣いばかりの彼らしい柔らかな声だった。辛いのはリーマスの方なのに。それでも彼は、いつもの彼を演じてくれていた。
「彼があんなことになっても……」
リリーが何度も小刻みに頷いた。
「そっか。今彼について言及するのは私怨になってしまうから……私はそろそろいるべき場所へ行くよ」
「リーマス――」
「見送りはいらない。また、必ず会おう。友人として」
引き止めるリリーの視線から逃れるようにルーピンは扉へ意識を向けた。抱きしめたい、すべてのものから彼女を隠してしまいたい。衝動的に動き出しそうな腕に力を入れて、手のひらに爪の食い込む拳をローブの外ポケットで押さえ込む。
パタンと隔てられた扉の内で、リリーは謝罪を繰り返した。
心を歪めてしまったこと、
彼に応えられないこと、
そして最後の言葉に返事ができないこと。
その2日後、ビルとフラーは結婚式を挙げた。《本》の予言通りに魔法省は陥落し、ポッターを探し求める一団があちこちの隠れ家候補へと雪崩れ込んだ。
襲撃の前日には、スパイを買って出た私の元にも、情報を求める肩書きだけは魔法省の人間が送り込まれた。知らないと答えてしまえば簡単だが、私はホグワーツに留まるために有用さを示さなければならなかった。
結局ヴォルデモートが何を聞いてどう判断を下したのかは分からない。けれど左手に輝く黒曜の指輪は何一つ不穏な情報は伝えてこなかった。
この日を境に、ポッターは二人の親友と長く険しい最後の冒険を始める。
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