辿り着いた天文台塔の屋上。夜の冷たい風がローブを吹き抜ける。闇の印が注ぐ緑の明かりに浮かび上がる影は六つ。四人の死喰い人、マルフォイ、そして奥で防壁を頼りに辛うじて立っている丸腰のダンブルドア。リリーは順に視線を走らせた。
「スネイプ、この坊主にはできそうもない」
ずんぐりした小柄の女が言った。リリーはチラリとその女を見る。
フェリックス・フェリシスは私をここまで導いた。ならば「破れぬ誓い」への影響も問題ない。そう信じることができた。
そして、
無限の可能性に高揚した気持ちが、次第にズブズブと憎しみへ染まっていく。私はそれに抗おうとしなかった。役目を果すためには、本気になるためには、必要な感情。
私は以前、人を殺すことができるのかと自問したことがある。クラウチ・シニアやセドリック・ディゴリーを見殺しにして、私は問いに肯定を結論付けた。しかしそれは間接的なもの。今日はわけが違う。
それでも、問いへの回答は変わっていない。
幸運には限度がある。出来ないことを出来るようにする薬ではない。
ならば、私には。
アルバス・ダンブルドア、
危険性を察知しながら若かりし例のあの人を放置した
ポッターとエバンズを守りきれなかった
憎き男に瓜二つの息子を見守り続けよと言った
再び命を賭けた二重スパイへと送り出した
拒否を許さず自分を殺せと命じた
大義のため、自身を含むすべてが駒だった
頭の中を一気に駆け巡ったものたちが、私の奥底に収束する。荒々しくマルフォイを押し退けて、杖先を真っ直ぐ無防備な老魔法使いへと向けた。視界の端で死喰い人たちの下がる気配がする。
「……頼む」
ダンブルドアの懇願する青をリリーは見つめた。
「アバダ ケダブラ!」
緑の閃光が飛び出して、狙い通りに着地した。
世界がスロー再生されていく。ダンブルドアの身体は肩を押されたようにゆっくりと傾き、ふわりと足が浮くと、頭から防壁の外側へと姿を移した。彼を追って防壁へ駆け寄る。背後では女の歓喜に沸く甲高い叫声が響き渡った。
どうか死後なおも痛め付けられませんように
死の呪文を放ったのは他でもない自分だというのに、リリーは死喰い人から隠れるようにクッション呪文を唱えた。風に膨らむローブと高笑いする女の声がリリーの行動を覆い隠す。高い塔から落下するダンブルドアに届いたかどうか。確認する余裕はなかったがみなぎる自信があった。
あまりにも呆気ない
しかしこれでシリウスの時のような失敗は防がれた。スネイプ教授は命を狙われる理由がなくなるのだから。命を救うのは簡単なことではない。元を絶たなければ。
踵を返し、リリーは階段近くで呆けるマルフォイの襟首を掴むと力任せに引き寄せる。階下の戦闘に巻き込まれた傍の壁が崩れ落ち、二人の足元近くに瓦礫が転がった。もうもうと砂煙に覆われて崩れの収まるその中へ、マルフォイを連れて先頭で下りて行く。
「終わった!行くぞ!」
リリーは騎士団へ闇雲に閃光を放つ大男に叫んだ。どこを通り、何を言うべきかはすべて頭の中に流れ込んできた。途中死喰い人と騎士団の混戦に乗じ悪化の犠牲はないかと目を走らせるが、予想外の展開は見当たらない。
私は幸運だった。
校庭を走る途中、小屋から飛び出してきたハグリッドが傘を振る。閃光はリリーたちの数メートル後ろについていたブロンドの死喰い人へ放たれた。リリーが振り返り様、庇うように盾でいなす。ブロンドの死喰い人がハグリッドに受けて立った。
5メートルも移動しないうちに今度はリリーの頭上を赤い閃光が通り過ぎる。
ポッターだった。
彼は何度も杖を振り、呪文を唱えた。それをリリーは危うさもなく淡々と防いでいく。彼女に開心術の心得はないが、怒りに身を任せた彼の攻撃は手に取るように分かった。
ハグリッドの小屋が燃え上がり、カロー兄妹がポッターへと杖を向ける。
「魔法省が現れぬうちに行け!」
スネイプのよく通る低い声が響けば、校庭にいた死喰い人たちが従い校門へと走り出す。しかしマルフォイだけはその場に縫い付けられたように動けなくなっていた。現状に心がついていけていないのだ。杖だけは必死に握り締め、青白い顔を三日月の下に晒していた。
「レビコー――」
ポッターの放つ何度目かの呪文の最中、リリーは無言で彼から杖を取り上げた。遠くへと吹き飛ばし、彼を丸腰にする。
「本人に向かってこの呪文を使うとはな。それらの呪文を開発したのはこの我輩だ。我輩こそが『半純血のプリンス』。これ以上邪魔をするようなら――」
「殺せ!ダンブルドアを殺したように、僕も殺せ!この臆病者!」
カッとリリーに流れる血液が沸き立った。
スネイプ教授を――
「臆病者と呼ぶな!!」
叫ぶと同時にリリーの杖からバチンと火花が散り、ポッターの足元を吹き飛ばした。彼は2、3メートル吹っ飛んで受け身も取れずに背中から着地する。
そのとき、リリーは校庭を駆けてくる新たな影に気付いた。その影は彼女とポッターの間へ滑り込むと、彼を背に庇うように立つ。
奇妙な感覚だった。それは目の前の人物も同じだろう。いや、彼は私よりも困惑しているに違いない。
私の目の前には、私がいた。
立ちはだかる彼はしっかり杖を構えているが動揺が見てとれた。それはそうだろう。自分の立ち位置にリリーが収まっているのだから。自身のやるべきだった役目を終えて。
ポッターは探り合う教員二人から目を離さずに手探りで杖を探し始めた。その様子を気に止めながら、リリーとスネイプの決闘が始まった。武装解除、失神、金縛り。お互いが明確な敵意もなく呪文を掛け合っていた。スネイプは今、自分の身の振り方に迷っている。リリーにはそれだけで十分だった。
「エクスペリアームス(武器よ去れ)!」
杖が弧を描き三日月の照らす薄暗い夏草の中へ沈む。マルフォイがスネイプを武装解除していた。
「インカーセラス(縛れ)……来い」
ポッターが杖を見つけ出す一足先に、リリーはスネイプを引き寄せ盾のように抱えた。燃え盛る小屋からファングを助け出したハグリッドがこちらへ駆けてくる。
「ドラコ、先に行け!校門で待っていろ」
あんなに反発し頼るまいとしていたのに、今やマルフォイは大人しく従っていた。いや、彼は考えることを放棄していた。思考を中断し流されるまま、動くようになった身体へ心で鞭を振るう。
リリーは右腕の杖をポッターへ上げ、左腕でスネイプを支えていた。黒衣に覆われすっぽりと収まる自身の身体を引きずるように後ずさるのは簡単なことだった。多少の体格差はあれど、もがく腕の中は本気で抵抗してこない。
校門へあと少しとなったとき、私はスネイプ教授の耳元へ顔を寄せ小声で自身の住所を伝えた。スネイプ教授お得意の口を動かさない話し方で。彼は既に来たことがあるが、今は「忠誠の術」で守られている。「秘密の守人」を務めてくれたダンブルドア亡き今、それを私は引き継いでいた。
「そこへすぐに」
最後にそう伝えて、彼をポッターへと突き飛ばした。リリーは身を翻し、校門の外で待機していたマルフォイを引き寄せる。既に他の死喰い人の姿はなかった。
「寄り道をする」
リリーはそう囁いて、マルフォイを掴んだままくるりと回った。
バチンッ
閑静な真夜中過ぎの住宅街。その一角の細い路地に二人は現れた。建ち並ぶ似た作りの家々。どの家のカーテンも締め切られ、灯りの漏れる窓はなかった。
他人の身体で他人を連れた姿くらまし。奥底から湧き出る自信のままに行動したが、自身もマルフォイもバラけてないと分かるとリリーは胸を撫で下ろした。
ポツポツと並ぶ街灯を気にかけず、彼女は迷うことなく歩き出す。掴んだままのマルフォイは戸惑いを見せていたが、それでも抗議を上げることもなく従った。
着いたのは、1年ぶりとなるリリーの家。
「ここは――っ!」
玄関を入りすぐに口を開いたマルフォイへ、リリーは金縛りの呪文をかけた。杖を握り固まる彼を室内を見渡せる位置へと移動させ、カウンターに凭れ掛からせる。店を開けていた頃そのままの本棚はすれ違う度に放置された埃を舞い上げた。
無言の時間は長く続かなかった。
リリーはゾワリと肌が粟立つのを感じた。視線が自身の、スネイプだった手に落ちる。照明の下でブヨブヨと皮膚が騒ぎ始めたとき、カラン、コロン、と店の名残でぶら下げたままのカウベルが鳴った。
ハッとリリーが顔を上げる。飛び込んできたのはスネイプだった。姿はまだリリーであるものの、目の前の人物もまた、不定形の生き物のように輪郭がぼやけていた。チグハグになってしまわないようにと、リリーが杖を振り服を取り換える。
やがてリリーはリリーに、スネイプはスネイプへと戻った。
「どういうつもりだ!何故貴様が我輩の姿で死喰い人と行動を共にする!」
開口一番、スネイプが吼えた。彼の怒りを真正面から受け止めながら、リリーはチラリとマルフォイを見る。スネイプもそれに気づいたようで「マフリアート(耳塞ぎ)」と唱えた。
「証人になってもらうため、彼を連れてきました」
「証人?」
「ダンブルドアを殺した真犯人は、私であると」
スネイプの暗い目が今や見開かれ、ギラギラと見るものすべてを凍りつかせるような激情を孕んでいた。
「あなたにこれ以上背負わせたくなかった!でも……ごめんなさい、ホグワーツのみんなはあなたがやったと思うはず」
「あぁ、私がするはずだった!」
リリーは言葉を返さなかった。このままここで議論し続けるべきではないと幸運が言っている。目の前の男も同意見だろうと、その表情で分かった。
リリーが最も幸運を求めるのは、ここからだ。
「話は後だ。闇の帝王を待たせるわけにはいかない。君は残れ。ここでのドラコの記憶は消す」
杖を上げマルフォイへと一歩踏み出した彼の杖腕にしがみつく。
「私も行きます!でなければすべてが台無しになる!」
「正気か?闇の帝王は心を見通す!君は、君の忠誠は――」
「望むところです。私は今日彼の前に立つために、この1年を費やしました」
リリーはにこりと、この場に不釣り合いなほど自然に微笑んだ。
「オブスキュロ(目隠し)」
そう唱えたリリーの杖先はマルフォイに向いていた。何をする気だ、と驚いているスネイプへ身体を密着させて背伸びをする。
かさついた彼の薄い唇へ、触れるだけのキス。
数秒、見つめ合った。例のあの人の侵入を防ぐには、心を愛で満たすのが一番。不思議なことにスネイプ教授は何も言わなかった。けれど表情を読むことはさせてくれない。
「1秒たりとも気を抜くな」
「もちろんです」
リリーが身体を離すと、スネイプはマルフォイにかけられたすべての呪文を解除した。状況を呑み込めず泳ぐ彼の瞳を真っ直ぐリリーの瞳が捉える。
「さぁ、我が君の元へ」
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