139 出立前


試験に追われる空気が色濃くなった頃。

とうとうその日がやって来た。

私はダンブルドア校長から帰城の知らせを受け取って、そう確信した。急いで私室の階下へと下り、一つの箱を手に部屋を出る。消灯時間前のまだ生徒が疎らに残る廊下を小走りで移動し、馴染みのガーゴイルに菓子の名前を伝えた。


「ダンブルドア校長……」

「随分と急いで来てくれたようじゃの」


彼は事務机の奧にいた。背凭れが僅かに肖像画の方へ向いているから、お喋りの途中だったのだろう。旅の成果を話していたのかもしれない。止まり木で休むフォークスの清らかな眼がじっとこちらを見つめている。


「ポッターと共に出発されるおつもりですね?」

「如何にも、その通りじゃ」


机に乗せた彼の真っ黒な杖腕がピクリと動く。


「その前に、一つお願いがあります」

「伺おう」


リリーは抱えていた分厚い教科書サイズの箱を事務机へと置き、ダンブルドアの前へ寄せた。彼女が隠し部屋に置いていたその箱には予言の《本》が入っている。ここへ来る理由のすべてで、ここにいる理由のすべて。そしてあまりにも多くの知られるべきではない情報が書かれた彼女の手帳も、一緒に奥で眠っている。

リリーは彼に見えるように蓋を開けた。しかしそこには何も入っていない。《本》へ辿り着くには仕掛けを解く必要があった。


「もちろんただの空箱ではありません。これを校長室で保管していただきたいのです」


ダンブルドアは半月眼鏡越しにリリーの瞳を見つめた。グリ、と抉るような鋭い視線が彼女を襲う。しかし彼女は落ち着いていた。《本》に関するすべての記憶をかき集め、心の奥底に閉じ込める。

ふわりとダンブルドアの瞳に優しさが戻った。リリーは「合格した」のだと思った。偉大な魔法使いによる閉心術の試験。これから先、誰と相対することになろうとも、易々と秘密を暴露してしまわないように。


「引き受けよう」


隠された中身も、理由も、期間も、彼が問うことはなかった。

聞かれたとしてもリリーには答えようがなかった。ダンブルドアにとって今日がホグワーツ最後の日になるように、自身もまた、今日が最後かもしれないなどと。そうならないよう最善を尽くすつもりではいるが、そうなる可能性が捨てきれないほどのことをする。

万が一この身に何かあっても、校長室なら。スネイプ教授が守ることになるこの場所なら。姿を変えたダンブルドア校長が飾られるこの部屋ならば。きっと《本》は守り抜かれる。


「さて、どこへ置くとするかの……」


ふわり、ふわり、と自慢の白髭を遊ばせながらダンブルドアがぐるりと部屋を見回した。ある戸棚で目を止めて、すっくと立ち上がる。彼が透明のカーテンを開くように両手を動かすと、パカリと戸が開き眩い銀色の光が洩れてきた。


「ここには『憂いの篩』がある。うっかり戸棚を開けられたとて、空箱より記憶の方が魅力的に映るじゃろう」

「『うっかり』閉め忘れ、ポッターが覗き込んだようにですか?」


ダンブルドアはいつもの朗らかな笑みだった。彼はチラチラと瞬き続ける石の水盆の上段へと、箱に居場所を与えた。


「ありがとうございます」

「きみの用はこれだけかの?」


リリーは彼の呪われた手を見た。濃い金色に揺らめく魔法薬を煎じたあの日から、随分と深く、広く、侵食されている。


「本音を言っても構いませんか?」

「ほっほ、お手柔らかにの」

「……狸爺」


ダンブルドアは静かに笑っていた。


「あなたはスネイプ教授を利用しすぎました。たとえそれを本人が受け入れたとしても、私は彼のようにはなれません。予言の本を読んだばかりの頃は、自分がこんな気持ちになるとは思いもしなかった……」


オリバンダー氏は誘拐された。杖に関するあらゆる情報を例のあの人が手に入れたと考えるべきだ。そしてその情報を元にどんな判断を下すのか。ダンブルドア校長には推測できたはず。それでも彼は、杖の所有者がスネイプ教授であるかのような計画を立てた。

実際の所有権は問題ではない。例のあの人がどう考えるかが問題なのだ。

あの人が杖を求める未来を予期しながら、所有権を奪おうとすることに思い至りながら、忠実な死喰い人であろうと敵と同じように容赦なく扱うと知りながら。


「愛しておるのじゃな」

「永遠に」


リリーは無理矢理に微笑んだ。かつて同じ言葉を、ここで話した男がいることを知っていて。ダンブルドアは僅かに目を見開いてから、悲しげにそのブルーを細めた。


「ダンブルドア校長……」


立ちはだかる事務机を回り込み、リリーはダンブルドアへ抱きついた。柔らかな髭を通し温かな胸に顔を埋め、すがるようにローブを握り締める。

彼の健康な手がリリーの背を優しく撫でた。


「あの日、自棄になった彼を繋ぎ止めてくださったこと、感謝しています。そして、私に関するすべても」


リリーの声は震えていた。怯えも悲しみも滲んではいなかったが、彼女は頼もしい偉大な魔法使いの胸を借り、深い息を繰り返す。


「わしは辞めたいと言うきみをも引き止めた。そのせいで随分ときみを苦しめてしもうた。すべてはきみをわしの保険として手元に残しておきたかったからじゃ。きみには初めからわしが聖人君子ではないと分かっておったはず。それでもついてきてくれたこと、嬉しく思う」

「校長……」

「さて、君がここまでするからには……何かあるのじゃな?」


いつもの茶目っ気で、『何かある』とぼかしてみせるが、それが何であるかなど開心術を使わなくとも気づいているだろう。1年前に覚悟した日が、もう目の前にあると。

何も言えずにいる私の頭に、傷ついていない手が優しく触れる。


「頼む」


何を頼まれたのか、聞き返さなかった。きっとこれからのすべてだろうと思った。ポッターを、ホグワーツを、未来を。

リリーはコクリと頷き、離れた。引き止めるようなフォークスの鳴き声が、沈む夕陽で照らされた室内に木霊する。


「あぁそうでした、校長。スネイプ教授の守護霊は、牝鹿でしたか?」


扉へと手をかけ、リリーが振り返る。ダンブルドアの瞳に哀傷が宿っていた。その瞳には積年の思いが作り出した精巧な牝鹿が映されているのだろう。僅かに上下した白髪頭に彼女は微笑んだ。


パタリと扉が閉まる。リリーは螺旋階段を下り、ガーゴイルの横をすり抜けた。


「ここにいてください!」


そう怒鳴り付けるポッターの声が廊下に響いた。話し相手はトレローニー教授だろう。姿の見えないその声から逃げるように、リリーは廊下を走り、角を曲がる。

ポッターは知ってしまった。スネイプ教授の悔恨の一部を。教授がまだ死喰い人だった頃、密偵としてダンブルドア校長を探っていた日のことを。それは《本》の予言が違わず進んでくれている証拠に他ならないのに、喜べはしなかった。

予言は盗み聞かれた。しかし全文ではなかった。故に、数多のチャンスが宿った。しかしそれが何の慰めになるのだろう。ポッター一家の、スネイプ教授の、トレローニー教授の人生を変えた、予言が予言として動き始めた日。

ポッターが校長室へ駆け込み静かになった廊下に、トレローニーのとぼとぼと引きずるような足音が響いた。リリーは大きく息を吐き出し頭を振る。


今は過去を追想している場合ではない

時はいつも、前を向いている







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