136 幸運


夕食を終え夕闇が迫ってきた頃、リリーは職員室へ立ち寄った。五階の廊下に糞爆弾が撒き散らされ、フィルチと共にその対処へ駆り出されていたのだ。アラゴグの葬儀に悪臭を纏って行くわけにはいかなかった。

脱いだローブを洗濯カゴに入れ、隣の洋箪笥から新しい自分のローブを取り出した。ここにボガートが入り込んでいた日が懐かしい。


「――セブルス、アルバスが戻られる日ですが――」


キィ、と立て付けの悪い扉の音と共に現れたのはマクゴナガル。間を開けずに入って来た隙のない黒衣に、リリーの心臓がドクリと跳ねる。


「あぁ、リリー。掃除ご苦労様でした。……臭いますね」

「あ!私のローブに臭いが付いてしまっていて、今カゴに……」


マクゴナガルの視線がチラリと洗濯カゴに移動して、サッと杖を回すように振った。不快な臭いが消える。


「ありがとうございます」


リリーはマクゴナガルに微笑んだ。努めて彼女だけを意識するようにはしていたが、どうしても隣に立つ男へ意識が向いてしまう。しかし彼にとってリリーは隅に溜まる埃のようなもの。彼がまだこの場に留まっているのは、マクゴナガルがいるからにすぎなかった。


「私、温室に行かなければならないので、これで」


グイと口角を吊り上げたリリーが自身に宛がわれた机から手提げカゴを引っ掴む。そそくさと逃げるような足取りの彼女を引き止める者はいなかった。


「セブルス、口を出す気はありませんでしたが、あなた方は一体いつまで――」


閉める直前、扉の隙間からマクゴナガル教授の心配そうな声がした。スネイプ教授の声が聞きたくて、返答を知りたくて、立ち止まる。しかしすぐに恐ろしくなって足を踏み出した。


正面玄関の鍵は開いていた。フィルチさんは糞爆弾の処理に躍起になって、うっかり忘れてしまっているのだろう。直接ハグリッドの小屋へ行くつもりだったが掴んだままのカゴを見れば足は温室へと向いた。

そこにスラグホーン教授とスプラウト教授がいるはずだ。糞爆弾の処理へと向かう前、そう話しているのを聞いた。

太陽は禁じられた森の彼方へ消えようとしていた。茜に染まり影となった雲が黒く夕焼け空に穴を空けているようだった。深淵へと続く深く暗い底のない穴。引き込まれそうになって、かぶりを振る。


ダメだ。役目を、生きる目的を果たすまでは


途中、堆肥の匂いを纏ったスプラウト教授と出会した。スラグホーン教授はまだ温室だと聞いて、私も向かう。

既に《本》とは違った道筋を歩んでいる。スラグホーン教授は一人かもしれない。ならばここからポッターはどう動くのだろうかと様々なパターンを思い浮かべながら向かった温室。到着してすぐ、私の勘案は無意味だと分かった。


「先生、このくらいで良いですか?」

「あぁ、もちろん、もちろん。取りすぎるのは良くない……さぁ早く城に戻ろう。ハリー、君は外に居て良い時間じゃない……」


正面玄関が開いていて、ポッターを避けていたスラグホーン教授が彼と二人でここにいる。リリーは間違いなくポッターがフェリックス・フェリシスを飲んでいると確信した。

温室からの声が途切れ、軋みながら扉が開く。ポッターを急かすように出てきたスラグホーンはリリーに気付くと、これは幸い、とにっこりした。


「リリー!手伝いに来てくれたのかね?有り難いがこの通り、ハリーが手伝ってくれてね」

「ではこのカゴだけでも」


リリーが差し出すと、スラグホーンはドサリと抱えていた薬草を入れた。倣ってポッターも薬草を入れ、最後にぎゅっと押し込む。


「ではこのカゴは私が持って行こう。なに、ついでだ。君はポッターを送ってあげると良い」


スラグホーンはローブに付いた土を払うとチラリとポッターを見て、一刻も早く逃げたそうな顔をした。しかし逃がしたくないはずのポッターが行動を起こす様子はない。リリーはポッターにとって自分の存在も幸運に組み込まれているに違いないと悟った。


「あー、ですが私はハグリッドのところへ行かないと」


スラグホーンが首を傾げた。そしてポッターまでもが理由を知りたそうな顔をして、リリーは彼に手紙が送られていないのだと知った。


「アラゴグが――ハグリッドの飼っていたアクロマンチュラですが――とても大切にしていたのに亡くなってしまって、埋葬に立ち会ってほしいと」

「アクロマンチュラ?アクロマンチュラと言ったかね?」


スラグホーンの目が不思議に爛々と輝きだした。


「えぇ、アクロマンチュラです。禁じられた森でハグリッドが飼っていました。声を大にして言える話ではありませんが、二人のことは信用していますので、ご内密に」


ポッターはうっすらと微笑んで何度も頷いていたが、スラグホーンは顎に手を当て、リリーからの信用などどうでも良さそうな顔をしている。


「あの毒は非常に貴重だ。リリーも魔法薬学に執心しているなら分かるだろう、その価値が。もし……手に入る可能性があるとすれば……生きている間よりは死んだ直後の方が……」


スラグホーンの意識は既にハグリッドの小屋の方へ向いていた。遠くに見える小屋の灯りをその目に映し、ぼんやりと、ほとんど囁くような声だった。


「なら、教授もいらっしゃいますか?毒を譲ってもらえないかハグリッドに頼んでみましょう。アラゴグが役に立てるならと、きっと承諾してくれます」


《本》ではこっそり盗むようなやり方だったがそうしたくはなかった。する必要もないと思う。私の知るハグリッドはそんなことで気を悪くするような男ではないし、寧ろ喜んで採らせてくれるだろう。


「そうか、そうか、それは有り難い。あー、ならあっちで落ち合おう。私はこのカゴをワインにでも変えて……ネクタイも派手すぎるな……」


言いながら、スラグホーンはポッターのことなどすっかり忘れてバタバタと城へ戻っていった。


「ポッターも葬儀に参加していく?」

「はい、ハグリッドは友人ですから」

「じゃあ帰りは送るよ」

「ありがとうございます」


ここで去る選択肢など端からないといった表情で、ポッターが小屋へ向けて歩き出す。多少の変化をものともしない幸運に、ふわりと風にそよぐ癖っ毛を眺めながらリリーが微笑んだ。


スラグホーンがカゴに酒瓶とグラスを入れて戻ってきた頃には、リリーはハグリッドに毒液採取の約束を取り付けていた。ワインの隣にしっかりと大きめの薬瓶も入れられていて、苦笑いを隠せなかった。

目的が達成されるとスラグホーンは葬儀に相応しくないにこやかさになってしまっていたが、アラゴグの葬儀に三人も駆け付けてくれたことにいたく感激したハグリッドがそれに気付くことはない。


埋葬が終わると今度は小屋で酒盛りが始まった。ポッターは呑まなかったがリリーは少しワインを貰って英雄オドを語る歌を一緒に口ずさむ。途中、ポッターに肘を突かれ、残り少ない酒瓶に補充呪文を唱えた。


1時間ほどそうして過ごし、ハグリッドがうとうとし始めた頃、リリーは席を立った。こういった場での所用は限られてくるため、誰も口を挟まない。小屋の外へ出ると回り込むと、窓のそばに身を隠す。そしてそっと聞き耳を立てた。


「ある春の日だった……目が覚めると水の入った鉢が置かれていてね。そこには花弁が浮かんでいた。忘れもしない、百合の花弁……君のお母さんだよ、ハリー。……私が近付くと花弁は沈み、小さな魚へと変わった……それはそれは、とても美しい魔法だった……」


スラグホーンの柔らかな語り口調にリリーの頬も自然と綻ぶ。

一生敵わない人ではあるが、エバンズと関わってしまえば嫌えるはずがないのだ。彼女はそういう魅力のある人だった。当時は邪険にしていたが、今の私があるのはあの日々にエバンズが私と関わってくれたから。殻に閉じ籠って勉強ばかりだった私に、外を見せようとしてくれた。


「その魚にフランシスと名付けて、私はとても大切にしていた。しかしそれは……ある日忽然と消えた。君に印が付いた日だ。……ハリー、君が何を欲しているのか私には分かる。だがしかしそれを与えてしまうことが、私にとってどんな意味を持つか――」

「先生、勇気を持ってください。僕の母のように。実はあの日、母は死ぬ必要なんてありませんでした。でも僕を守ってくれた……退けと言われても退かなかったんです!」

「ハリー……」

「先生はリリー・エバンズの敵を取りたくはないんですか?」

「もちろん、ハリー、そうしたいが――」

「情報を、記憶をくださるのはとても勇敢なことです、先生」


長い沈黙だった。スラグホーン教授が素面でポッターに幸運がなければ私が戻らないことに不自然さを感じるほどの時間が流れた。


「……どうかハリー、これを見ても私を悪く思わんでくれ……」


奥底に溜まった僅かな勇気を絞り出すようにして、スラグホーンが言った。

リリーは叫びたい気持ちを押し殺し、グッと歓喜にうち震える。


勝った


私の存在が悪影響を及ぼそうとも幸運はその私をも引き込んで、それを上回った。ズレなど些細なことのように上手く転がして見せた。フェリックス・フェリシスさえあれば、1年後、被害を最小限に食い止められるかもしれない。

今年度の私の行動は、無駄にならずに済む。


次こそは、今度こそは


不意に小屋の扉が開く甲高い音がした。リリーは慌てて立ち上がる。今戻ったばかりの様相でポッターの前に出た。彼は何も言わずただにっこりとリリーに笑いかける。


「ポッター、そろそろ寮に戻る?」

「はい。二人は寝てしまいました」

「そっか、送るよ」

「いえ、僕にはこれがあるので」


ポッターは透明マントを取り出すと、頭だけを出して羽織った。


「じゃあ二人の介抱は任されるよ。もし誰かに見つかったときは、私の名前を出して良いから。おやすみ、ポッター」

「おやすみなさい、エバンズ先生」


ポッターが頭まですっぽりとマントを被った。彼の姿は見えなくなったが、じっと目を凝らしてみれば小屋からの灯りに照らされ時折靴が見え隠れしていた。


彼は随分と逞しくなった。

身体つきだけではない。心も変わった。取り巻くものも、その多くが変わった。しかしエバンズ譲りの優しさや共に困難へ立ち向かってくれる友。変わらないものは確かに存在する。

私は何度も彼に不要な怪我を負わせてきた。命の危機にも晒した。

それなのに私は、彼が旅に出る間、私の影響から逃れるほんの少しの間、自分のためだけに生きようとしている。フェリックス・フェリシスに願いを託して、当の自分は最愛の人だけを見る。

小屋の窓から洩れるこの灯りのように、真っ直ぐスネイプ教授へ降り注ぐ光を届けたい。エバンズのような太陽にはなれないから、せめて、柔らかに先を灯す手元のランプに。







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