123 前進


寝た記憶もなく、目が覚めたら自室ではない場所にいたのはこれで何度目だっただろう。部屋は薄暗く天井は深い灰色の石造り。医務室でないのは明らかだ。そして私はこの場所に覚えがある。何度もスネイプ教授越しに溺れそうな視界でこの天井を見た。


私はあのまま泣き疲れて眠ってしまったのか……


「まるで、こども……」


声は昨日よりもひどくかさついていた。ゴロンと転がっても障害物は何もなく、私はここに一人で寝かされていた。一人では余るベッドの真ん中に、私はいる。

身体を起こしてサイドテーブルの水差しに有り難く手を伸ばした。ヒヤリと気持ちを鎮める冷たさが下っていく。そばには水気を切ったタオルもあった。泣いたわりにスッキリと瞼が軽いのは、どうやらこのお陰らしい。

世話をかけて情けないと思う心には、未だ穴が開いたまま。ポッカリと、嘲笑うグリムの形で抉れていた。

リリーは持ち主を思い起こさせる枕を抱きしめ、顔を埋める。

シリウスは頭で考えすぎるから弱いのだと言った。随分前に指摘してくれていたのに、私は結局直せないまま。ああだこうだと考えて、シリウスから目を離してしまった。

もう涙は出尽くしてしまったが、私はどん底だった。

それでも立ち止まるわけにはいかない。何度挫かれようと、もう失意に命を投げ出すわけにはいかないのだ。感覚のすべてを閉じて自分の心をだけを守るなんて私が許さない。


一番失いたくない人を守るために


どれだけの価値があるか分からないこの命、《本》に抗うと決めたときから使う場所は決めてある。


キィ、と何の前触れもなく扉が開いて、リリーが顔を上げた。


「起きていたのか」


スネイプの視線がリリーから抱きしめられた枕へと落ちて顔をしかめる。彼女は何事もなかったように枕を横へ置き、ぎこちなく笑みを浮かべた。


「おはようございます、スネイプ教授」

「それは朝にする挨拶だ。今は……午後2時。人のベッドは余程寝心地が良かったようだな?」


怒りよりは呆れを色濃く滲ませて、スネイプが片眉を上げる。ベッドに投げ出されたままのリリーの足を払い除け、そこへ腰を下ろした。


「申し訳ございませんでした」

「何にだ?」

「色々です。ベッドを占領してしまったことか、泣いてご迷惑をお掛けしたことか――」

「私を探さず魔法省へ乗り込んだこととか、か?」

「それも……はい」


膝を抱えた私からはスネイプ教授の横顔だけが見えた。彼は怒ることも深く問い質す様子もない。真意を探ろうとその表情を注視するが、彼はいつも通りの彼だった。


「どこでポッターの戯れ言を聞いたか知らんが、君らしくなかったな。ブラックの無事を確認する手段などいくらでもあっただろう」

「それは……」


言い澱むリリーにギシリと体重を移動させ、ようやくスネイプが彼女へ顔を向けた。


「責めているわけではない。闇の帝王の動きを伝えきれなかった私にも責任はある。あの方が巧みにポッターを誘い込んでいたことは分かっていた」

「ですが教授が何らかの対策を講じてしまえば、あなた自身に危険が及びかねませんでした!」

「私は魔法省へ乗り込もうとするブラックを引き止めきれなかった。ダンブルドアを待てと、一万ガリオンのお尋ね者が行くべき場所ではないと忠告もしたが、却ってそれがヤツに火をつけた」


スネイプはふっと顔を逸らし、目を伏せた。

後悔と言うよりは懺悔に近く、けれど悲しみに打ち拉がれているわけではない複雑な表情を垣間見せ、彼が大きく息を吐き出す。私は何も言葉をかけることができなかった。


「君が自分を責めることを私は止められない。だが君だけが背負うのは馬鹿げている。君が自分を責めるのなら、私も共に打ち沈んだ地の底で私を責めよう。そこに君一人でいる必要はない」


何故彼はこの優しさを隠して生きねばならないのだろう


リリーは目頭が熱くなるのを感じてグッと膝に押し当てた。昨夜のような狂うほどの痛さではない。じんと胸に広がる彼の優しさが渇いた心に染み渡る。


「泣くのに飽きたら出て来い。アンブリッジから解放されたドビーが君のために昼食を用意している。それが何故かここへ持ち込まれた。早く片付けたまえ」


再び頬を濡らし始めたリリーに昨日の陰りがないと分かると、スネイプはそう言って立ち上がった。


「すぐ――すぐ行きますっ」


顔を上げたリリーが乱暴に目元を拭いベッドから飛び下りた。扉を開けて待っていてくれるスネイプに、にこりと心からの笑みを浮かべる。


「ありがとうございます」


スネイプは鼻を鳴らすだけの返事をして、後ろ手に扉を閉めた。

ソファテーブルに並べられた小さな友の気遣いにリリーが顔を綻ばせる。スネイプが杖を振ると料理からほくほくと食べ頃の印が立ち昇った。

振り返って再度礼を言うリリーに気紛れでクッと口角を上げるだけの笑みを作れば、彼女は大層驚いて見せたあとふわりと笑った。

スープに浮かぶコーンを掬いとるリリーを確認し、スネイプが事務机へと視線を走らせる。そこには毒の入っていた小瓶とポリジュース薬の残るスキットル、そして形見の意味合いも孕んでしまった彼女へと返されるべき杖。

料理に舌鼓を打つ彼女を曇らせかねないそれらに、今暫くはとスネイプは彼女の抱える問題を引き出しへ滑り込ませた。




食事を終えたリリーはスネイプの勧めもあって真っ先に校長室へと向かった。

昨日のちょうど今頃も、私は校長室の前にいた。その時の校長室は簡易的な名前ばかりの場所であったが。24時間前がすごく遠い過去のように思える。


「フィフィ フィズビー」


ダンブルドアが去る前の合言葉でガーゴイルたちは道を開けた。螺旋階段に運ばれ着いた先では既に扉が開け放たれている。


「フォークスが騒がしくての」


穏やかに佇む老齢の魔法使いはこの部屋の一部かのようにピッタリと空間に溶け込んでいた。まだ鮮やかな羽毛の生え揃っていない不死鳥を撫で、いとおしげに喉を擽っている。


「立ち話もなんじゃ、座るとしよう」


話は決して短くはならない、とダンブルドアが古びた椅子を上質なものへと変える。自分は事務机と揃いの背凭れが立派な椅子に落ち着いて、リリーのためにと紅茶も用意した。


「さて、まずはきみの無事を喜ぼう」


ふわりと香るリコリスの甘さは地下では振る舞われることのないハーブティー。リリーは礼を言って口を湿らせる。


「シリウスの死は本に書かれていました。ですが私はそれを阻止したかった」


震える声をなんとか押し止めて、リリーはダンブルドアを窺う。彼が気遣って穏やかな話題から話し始めてくれたことには感謝をするが、彼女はさっさと吐き出してしまいたかった。

真正面に見る彼の顔はいつもの聡明な笑みを消し、しかし悲しみや痛みで陰ることもない。使い込まれた頼もしい杖腕が、ティーカップを優しく持ち上げていった。


「それできみは、あそこにいたのじゃな」

「はい」


ダンブルドアはただ、道理がいったと頷いた。


「きみが魔法省へ来ていたことは、極秘事項として知る者の――リーマス、セブルス、ハリーじゃが――彼らの口を止めておいた」

「ありがとうございます」

「わしの愚かさも、間違いも、きみは知っておるのじゃろうな」

「予言の本を読まなかったこと、後悔していらっしゃいますか?」

「後悔はない……とは言い切れぬ。あのときこうしておればと悔やむのは、未来ある者の特権じゃと、わしは思うことにしておる」


私の後悔を肯定し、自分にも言い聞かせているようだった。そうは見えないだけで、ポッターとの話が尾を引いているのかもしれない。


「自分のしていることが果たして正しいことなのか。分からなくなるときがあります」


ダンブルドアがゆったりと頷いた。彼もそうなのだと共感するようなその動作に、リリーは言葉を続ける。


「予言がなくとも、この先闇の力が増大していくことは明らかです。尊ばれるべき命が、次々と失われていく。私はそれをただ黙って見ていたくはありません。でも私の身体は一つで、杖は一本で、予言を告げるのはリスクが高すぎる!……私だけが、すべてを救う可能性があるのに。……私にはその力がない……」


傷痕一つ残されていなかったリリーの手のひらに、再びもどかしく心を乱す不快感を突き立てる。涙だけは流すまいと唇を噛み締めた。

すべてを救うなど、夢物語であることくらい分かっている。それでも決心がつかなかった。

私は狡い。

ダンブルドア校長に背中を押してもらうためにここに来た。私が背負うべき荷を、彼の肩にも僅かばかり乗せようとしている。自分一人で抱え込むつもりだったのに。もう十分すぎるほど彼は抱え込んでいるのに。それを分かりながらも彼は引き受けてくれるに違いないと。


「わしも騎士団も、みな出来る限りの対策は練ってきた。それでも零れてしまう者がおる。わしは縁遠いすべてを捨て置いて、ハリーを選んだ。……これはわし自身を肯定したいがための言葉だが……リリー、きみもそうして良いのじゃ」

「人を愛するが故の愚かな行動だとしてもですか?」

「愛は時として破滅をもたらす。しかし同時に、愛は何にも変えがたい強力な武器となろう」


休暇に入れば、ダンブルドア校長はその愛によって杖腕に破滅を抱えてしまう。私が忠告すれば回避できるだろうか?――いや、きっと変わらない。危険だと、越えるべきではないと分かりながらも、校長はその一線を指に通してしまうのだから。

それにたとえ回避できたとしても、私がその選択肢を選ぶことはない。


『人を愛するが故の愚かな行動』


世界にとって命は等しく公平だ。しかし私にとっては、明確なものがある。それが愚かだとしても、譲れはしない。

校長がポッターを愛しく見守ってきたように、私はスネイプ教授の盾となる。そのためには、未来は《本》の通りに進んでくれた方が都合が良い。

私はこの偉大なる恩師を、みんなの希望の象徴を、


救わない


「ダンブルドア校長――」

「時代が変わるときが来た。古きは新しきのため、老いは若きのため、何ができるかの?」


ダンブルドアは穏やかに微笑んでいた。自慢の顎髭を撫で付けながら、半月眼鏡の奥で柔らかなブルーがリリーを包み込んでいる。そこには陰りの欠片も見つからない。


なんという精神力なのだろう


ダンブルドア校長もスネイプ教授も。彼らの計画は誰にも暴かれることなく終える。一体どこまでが校長の計画なのだろうか。

スネイプ教授に自分を殺させるまで?

それとも、例のあの人がスネイプ教授を殺すまで?


私がそうはさせない


一体《本》は何故何のためにどうして私を選んだのか。そんなことはもうどうだっていい。私は《本》のお陰で自分の役目を見出すことができた。生きている意味を知った。


何て幸せなのだろう


何も見つけられず得られずに生を終える者の多いこの世界で、私は命をかけて遂げたい役目を見つけたし、命をかけて愛する人に出会えた。


『幸せは、他人に侵されず自分の内で見つかるもの』


スネイプ教授、あなたの仰る通りでした。

ここ数年の苦痛はすべて《本》によってもたらされたもの。でも《本》は私に教授という幸せと出会わせてくれた。


「ダンブルドア校長、すべてが終わったら、是非私の話を聞いてください。本の予言が何を示し私が何を為したのか、お話ししたいのです」

「もちろんじゃとも。楽しみにしておるよ」


そのときは、二人真白の美しい世界にいるだろう






リリーが校長室を去り、ダンブルドアは一人事務机に肘をつく。指を組んで「ほぅ」と息を吐き出した。


「ダンブルドア。あれは、彼女の様子からして、察するに――」


声はダンブルドアの遥か上から降ってきていた。ギシリと椅子を引き、並んだ肖像画へと向き直る。


「分かっておる、エバラード。わしもあなた方の仲間に入れていただく日が近いようじゃ。それまでにやり終えたいことは山ほどある。忙しくなりそうじゃの」

「ダンブルドア!そんな悠長にっ!」


ダンブルドアが片手を上げると、部屋には再び静寂が戻った。寝息の一つもない痛いほどの無音に、ダンブルドアは耳を澄ませる。







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