117 閉心術


私とスネイプ教授の関係は元に戻った。

結局何が原因かは分からずじまいだが、元よりそういったことをすべて水に流して振る舞っていくのが私たちなのだ。不満はない。声をかければ返事があり、引き止めれば振り返り、お互いの顔を見て話す。

それで十分だった。






麗らかな春は駆け足で過ぎ、夏の香りが漂い始めた頃。

午後の授業を終えてすぐ、ウィーズリーの双子が派手にパフォーマンスを始めた。彼らも心配するべき存在ではあるが、彼らが会場を東棟の上階に決めたのには理由がある。私は人波に逆らって、アンブリッジの部屋へと向かった。

途中、同じ方向へ駆ける後ろ姿を見付けた。赤い差し色のローブにくしゃくしゃの黒髪。ポッターだ。アンブリッジの部屋がある廊下へ曲がるその背を見届け息を殺す。双子の引き起こす喧騒も、ここまでは届いて来なかった。

やがてパタンと扉の閉まる音がする。監視を逃れた煙突飛行ネットワークを利用してポッターがシリウスとコンタクトをとる間、リリーはここで見張り役を買って出ることにした。


20分も待たずして、バタバタと近づいて来る足音が聞こえた。リリーはわざとらしく大きな咳払いで一方的な合図を送る。今頃室中ではポッターが大慌てで暖炉から首を引き抜いていることだろう。予想通り姿を見せた管理人にリリーはさも偶然を装って話しかけた。


「フィルチさん、そんなに急いでどうされたんですか?」

「あぁ、エバンズ先生!アンブリッジ校長先生から書類を取ってくるよう頼まれたもので」


フィルチは1秒でも早く駆け戻りたいと足をグネグネ動かしていた。リリーはそれに気づきながらもわざと会話を引き延ばす。


「あぁ、あの騒ぎ。何が起こってるんですか?」

「双子です!ウィーズリー!アイツらがとうとう尻尾を掴ませました!」

「そうですか……。では早く戻らないといけませんね。引き止めてしまってごめんなさい。私はこれで」


ギラギラと歓喜にうち震える彼の目を真っ直ぐ見れず、リリーは曖昧に笑みを返す。遠ざかる彼女の様子など注視する気もないフィルチは意気揚々とアンブリッジの部屋へ飛び込んだ。

フィルチが部屋から出たのを確認して、リリーが部屋へと舞い戻る。ポッターがどこにいるかは分からないが、彼女にはまだしておきたいことがあった。

キイッと鍵の存在を忘れ去られた扉がすんなりと開く。――と、中に入ろうとした途端、見えない何かにぶつかった。


「……ポッター?」


返事はなかった。だがここでぶつかる透明の存在など他にいるはずがない。それに彼にならば見られても構わなかった。


「これはあなたと私だけの秘密だよ」


聞こえているかも分からない一方的な約束をして、リリーは迷うことなくアンブリッジの机の裏に回り込んだ。そこには杭と鎖で幾重にも固定された箒が三本囚われている。リリーは杖を構え、南京錠に向かって幾つか呪文を唱えた。

ジャラジャラと鎖の擦れる音がして、三本のうち同じ二本の箒がトサリと彼女の腕に収まる。ニヤリと笑うと、透明の存在に構うことなくその場を後にした。


幾つかの階段と廊下を足早に過ぎ、玄関ホールまであと少しとなったとき、リリーの腕から二本の箒が飛び出した。追いかけて持ち主の元へ無事に戻ったのを見届けて、彼女の緊張はようやく解ける。


「エバンズ先生は一体……?」


後を付いてきていたポッターが今は透明マントを脱いで隣に立っていた。割れんばかりの歓声の中、夕日に溶けるように去り行く二つの背中を見送って、リリーがポッターへ視線を移す。


「ただ頼れる先生でありたいだけだよ」




困惑したままのポッターを残し、ざわざわと興奮冷めやらぬ玄関ホールを離れる。リリーは自室へと戻った。

もうすぐポリジュース薬が完成する。逸る気持ちを抑え階下の隠し部屋へと下りると、どこからかくぐもった呻き声のようなものが聞こえてきた。

心当たりは一つしかない。


「シリウス?」


棚から包みを取り出しくるくると広げ、手のひらサイズの四角い鏡に話しかけた。


「リリー!スニベリーの野郎、閉心術の訓練を放棄しやがった!」


鏡いっぱいにシリウスの顔が映り、ぎゃんぎゃんと喚き立てる。リリーは思わず腕を限界まで伸ばし、鏡を遠ざけた。そうしたところで声量が変わるわけでなければ唾が飛んでくることもないのだが。


「落ち着いて、シリウス。言いたいことは分かったから」


ポンポンと飛び出すスネイプへの罵詈雑言は寛大な心で見逃すことにして、リリーは一先ず荒れ狂う後見人を宥めることに尽力する。


「ダンブルドアがいなくなった途端これだ!」

「理由もなく止める人ではないよ」

「彼がどれだけ閉心術を重要視しているか知っているクセに!」

「スネイプ教授も重々承知さ」

「アイツは信用ならない!ダンブルドアをどう丸め込んだか知らないが、私は初めからアイツを――」

「シリウス!!」


止まらないシリウスの不満にぎゅうっと押し潰される心が耐えきれなくなって、リリーはとうとうヒステリックに叫んだ。そしてすぐに深呼吸をして無理矢理自分を落ち着ける。


「それ以上は、止めて」


怒りか悲しみか、震えそうになる声を抑えながら続けた。シリウスはリリーの様子に不審さを感じ、ようやく口を噤む。


「私たちは同じ目的で集まってる。仲間割れは例のあの人の思う壺だよ」

「リリー、だが――」

「スネイプ教授には私からも言ってみる。期待はできないけど」

「あぁ、頼む。アイツは一体何を考えてるんだ?」

「私たちと同じ未来をだよ。私は、スネイプ教授を信じてるから」


シリウスはまだ言い足りない顔をしていた。グッと口角を引き下げ縫われたようなその口が再び開かないうちに、リリーはそっと鏡を伏せた。






翌日から、双子に続けと生徒たちの悪戯合戦が始まった。多くはアンブリッジやフィルチが対応する羽目になっていたが、手すきの時にはリリーにまで火の粉が飛ぶ。簡単に片付けてしまっては後々面倒を押し付け続けられかねないため、リリーも適度に苦戦している振りをしていた。

時折リリーのそんな場面に出会す教職員は、彼女の別の意味での苦労を悟り、労いの言葉やお菓子をこっそり与えた。

一方生徒の多くは申し訳なさと同情の目で彼女を見る。だが一部の、グレンジャーのような聡い生徒は教職員と同じ目をしてリリーに苦笑いを向けていた。






それから二度目の土曜日の夜。

リリーは久しぶりにスネイプの寝室で火照る身体を横たえていた。研究室の延長のようだった空間は今や熱に浮かされた男女特有の匂いに塗り替えられている。

気怠さに微睡んでしまいそうになる重い瞼を引き上げて、リリーは身体を捻った。視界が石造りの暗い天井からスネイプの無防備な広い肌色の背中に移る。

つい数分前まではこの背中にすがっていたのに、今は触れることすら許されない。

切ない胸の痛みにリリーが目を閉じると、ギシリとベッドの軋みが響き、杖を呼び寄せたスネイプが彼女を捉えた。


「どうした?」


リリーが瞼を震わせ淡く微笑む。スネイプは訝しみながらも杖を操り、次々に痕を清めていった。シーツを、自身を、そして彼女を。最後に部屋に充満する悶々とした空気までもを消し去って、杖を枕下へと滑り込ませた。

リリーはいつものようにベッドから抜け出して、散らばった衣服を身に付けていく。そして身支度を終えると控えめにベッドへ腰かけた。

そのまま寝ることにしていたスネイプが、彼女の常ならぬ行動に身体を起こす。そして先程の自身の問いかけへの返事を待った。


「スネイプ教授……」


ベッドでは彼はセブルスであったし、彼女はリリーであった。ここでは用いられなかった呼び名にスネイプはピリリと纏う空気を引き締める。そしてこれからの話題に未だ何も身に付けていない自身が不躾な気がして、せめてとナイトローブを呼び寄せた。


「もう閉心術の訓練をされる気はないんですよね?」


ピロートークにはなり得ない重苦しい話題だった。

リリーとてこんなタイミングで言うものではないとは分かっていたし、もっと早くに聞いているはずだった。ただ訓練を辞めるに至った経緯とその後を思うとどうしても切り出せず、今やっと、言葉に出せたのだ。それでも流石にこんな場で、ポッターの名前だけは口に出せない。


「ない」


スネイプの眉間にはくっきりと嫌悪が刻まれていた。


「分かりました」


誰に聞いたのかと責めだしかねない表情に、リリーは苦笑いで頷く。そして「ついでに」と、ここしばらく気にかかっていた彼の言葉を問いかけた。


「教授は以前、私は心を閉ざしてしまえると仰いましたよね。閉心術士として、私の閉心術をどう思われますか?」


リリーの目は真剣そのもので、スネイプはとてもついでに聞いたとは思えなかった。じっと彼女と目を合わせ短く息をつくと、数年前に見たきりの彼女の心を思い起こす。


「君の心は真っ白すぎた。読み取れるものが無さすぎて、何かを隠しているのが明白だ。本当に隠したいものだけを封じ込められないうちは、閉心術士としては未熟だな。それに――」

「それに?」

「言っただろう。君は嘘が上手くない、と。開心術の心得がある者は瞳の揺れや指先の動きひとつからも嘘を見抜く術を持つ」

「そう、ですか……。ありがとうございます」


また一つ、課題が明確になった。

私は予言への積極的な介入を決めたが、いつまでもダンブルドア校長の庇護下にいられるとは限らない。かと言って「忠誠の術」で守られた家に籠る気もない。身に付けるべきことは山積みだ。

スネイプ教授は「何故聞くのか」と問いただしたいのを耐えているような表情をしていた。思いながらもそうしないのは、それが彼なりの信頼の示し方なのだと私は解釈している。


「もう訓練をしないとは言ったが、もし君が望むのなら、君になら……」


スネイプらしくない歯切れの悪さにリリーは僅かに微笑んで、首を横に振った。

教授はこうして手を差し伸べてくれる。理由も分からないことに力を貸そうとしてくれる。


『セブルスはセブルスなりにきみを気にかけておるよ』


夏にダンブルドア校長にそう言われた。それが痛いほどに伝わってくる。もうずっと、態度でそれが伝わってきている。

でもうっかり、打ち明けられない秘密を、私が今まで関わってきた物語を見られてしまったら。《本》についてダンブルドア校長に打ち明ける私を、トム・リドルの日記を拾う私を、初めてシリウスに接触した日の私を、ポリジュース薬を作る私を、見られてしまったら。

恋心がバレるなんて易しいものではない。

頼るわけにはいかなかった。


「ありがとうございます。でも習得したいわけではないので、お手を煩わせるつもりはありません」


この嘘も、見抜かれているのだろう。バレると分かって、私が言っていることも。でも断れば、スネイプ教授は引き下がるしかない。事実彼は、「そうか」とだけ発してきゅっと口を縫い付けた。


「おやすみなさい、スネイプ教授」

「おやすみ」


そう答えた彼の表情は未だ不満げで、言いたいことがあると言わんばかりの目をしていた。でも相手は例のあの人も欺いてしまえる優秀な閉心術士。私に見せつけているのだ。真っ直ぐなその漆黒を。

私はにっこりと人好きのする笑顔で目を逸らし、寝室を出て扉を閉めた。







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