116 挨拶


幸いにもポッターは言い触らしてなどいなかった。噂になることもなく、私が医務室にいたことすら知らない者が殆んどだろう。食事中、ポッターらが不安そうにこちらを窺う様子に気付いてはいたが、アンブリッジの目が光る手前、淡く微笑み返すのが精一杯だった。


「おはようございます、スネイプ教授」

「…………」


退院してから何度目かの朝、私は今日こそはと希望をもって挨拶をした。しかし返ってくる言葉はない。チラリとも見ないでまるで聞こえていないかのように振る舞われる。

私にとってはポッターやモンタギューよりもこちらの方が深刻だった。

今まで幾度となく中途半端に話を切り上げてきたが、それでも翌日には元に戻っていた。その都度水に流し、忘れ、大人の対応とでもいうのだろうか、私たちは上手くやって来ていたと思う。

でも今、それが崩れてしまった。

医務室での口論がこんなに尾を引くなんて。

避けられるのは初めてではない。リーマスをホグワーツに迎え入れると決めたあとも顔を合わせては貰えなかった。たしかあの時は地下で張り込んで無理矢理話をした。休暇ではない分、今は顔を合わせてはいる。

人の感情は複雑怪奇だ。リーマスのときはそれが気に入らなかったのだと分かる。でも今回は何が彼の気に障ったのか、とんと分からなかった。

私が生意気に言い返すことくらい何度もあった。モンタギューのことだって。スネイプ教授は真面目な教師ではあるが、スリザリン贔屓の甘い寮監でもある彼は、処遇の寛大さに喜びこそすれ不満はないと思ったのに。


「暗い顔だね」


リリーの隣にクッションを重ねながらフリットウィックが話しかける。自然と俯いていた彼女の顔も、彼の特徴的な背丈からすれば意識しなくとも目についた。


「まぁ、それは……」


リリーは横目で中央の玉座にふんぞり返る新たな校長を指し示した。まるで自分の落ち込みが彼女のせいであるかのように。事実、いくらかのもの憂いはアンブリッジの圧政によるものだ。

フリットウィックはリリーの視線の先を見やって苦笑した。そしてその奥にいるいつも同じ黒衣の同僚をも目に止める。自分が口に運んでいるものにすら無関心を貫く彼もまた、暗い表情に見えた。


「元通りが一番だよ」


積まれたクッションに座ったフリットウィックが囁く。リリーは「そうですね」とだけ答え、緩く口角を上げた。




夜の帳が下りた後、快適に保たれた温室は木花の悶々と誇る香りに包まれていた。リリーは最小限に絞ったランプをなるべく遠くへ置いて、仄かな灯りに浮かび上がる催眠豆を傷付けないようにプツリ、プツリ、と摘まみ採る。「催眠」と名の付くだけあって、収穫は闇夜が最適。だからこそ汁を浴び記憶を失う事故が相次ぐのだが、慣れてしまえば何てことはない。

そこから一歩外に出ると、今度は芝生の青い香りとヒヤリと爽やかな風が彼女を撫でる。ホホーッ、とどこかで愛を求めるふくろうの情熱が聞こえていた。

リリーは乱れる髪を押さえつけ、城内へと戻る。向かうは地下。スネイプの私室。

仕事として明確な理由があれば彼はリリーを無視しない。仕事相手としてギリギリのラインは保たれていた。

収穫したての催眠豆が入ったカゴを左手で握りしめ、コンコンといつものようにノックをする。しかし返事はない。すっかり覚えてしまった彼のタイムスケジュールでは、夕食後は私室にいることが多かった。無視されていないなら、職員室だろうか。

肩の高さで軽く握っていた右手を開く。するりと撫でた古い木目はひんやりとしていた。ザラザラと凹凸をなぞって、手の隣に額をつける。


「はぁ……」


木の扉一枚が、彼との心の距離が、とても遠い。諦めのような、もどかしさのような、苦しみが漏れた。


好きだ


ハッキリそう伝えられてしまえたら何か変わるだろうか。楽になれるだろうか。この気持ちに気付いた日より、もっと、もっとと心に強く焦げ付いてしまった。

《本》の登場人物ではない生身の彼を知り、描かれた以上の不器用な優しさや決意に触れた。深入りするべきではなかった。そうすれば、こんなに辛いこともなかったはずだ。

でもこの数年、私の毎日は輝いていた。青春のようだった。暗く一人ぼっちの迷宮の中にいても、彼が心にいたから、私は頑張ることが出来た。

そして、これからも。

たった数日、真正面から顔を見れなくて、視線も合わされなかっただけ。それがこんなにも堪えることだとは。ホグワーツへ戻る前の私が知れば、何かの呪いではないかと一笑したに違いない。

感情の昂りに呼応して、ジワリジワリと視界が浸水していく。溺れてしまわないうちにここを離れようと深く細く息を吐ききった。

そして扉に背を向ける。


「何か用か」


スネイプ教授だった。

彼との距離は僅か3メートルほど。バッチリと、先程の憂いが吹っ飛ぶほどにしっかりと目が合った。足音もさせず戻ってきていた部屋の主に驚いて、溜めただけの涙がポトリと一滴溢れ出す。


あぁ、何てことだ

この一滴さえなければ何とでも言い訳できたのに


リリーが返事を決めかねた一瞬で、スネイプは彼女との距離を一気に詰めた。彼がぎゅっと眉間を寄せる。零れたものなどなかったようにリリーが笑みを作ると、一層眉間を深くし、彼は手を差し伸べた。

乱れたシーツの中で何度も感情の混ざらない涙を拭ってきた手。リリーはつい甘えそうになるのをグッとこらえ、背を扉に付けるほど身を引いた。そうすれば、彼は深く追ってこない。

それが暗黙のルールとなっていた。






翌日には元通り。

すべてを忘れ、記憶に蓋をして振る舞う。それがいつしか私とエバンズとのルールとなり、都合の良い関係を構築してきた。


エバンズが襲われた翌日、彼女は何事もなかったかのように朝食の席にいた。

彼女は『心当たりが誰かは言わない』と言ったが『モンタギューではない』とは言わなかった。私の知る彼女の性格からして、無関係な生徒の名前が挙がったなら真っ先に否定するだろう。

ならば犯人は間違いなくモンタギューだ。

しかし彼女は『なかったこと』を望み、モンタギューもまた、沈黙を貫いた。七年間スリザリンでそれなりの地位を築いてきた男だ。ドラコに見られたことも承知の上だろう。エバンズの許しを幸いに平静を装っていた。

被害者も犯人もいないなら、事件は起きようがない。

気が済んだのか恐れたのか、モンタギューが再び不穏に立ち回る気配を見せないのなら、今はエバンズを尊重する。カッとして口論にはなったが、『なかったこと』が彼女の負担を軽減させるなら、それでいい。部外者である私に出来ることなど何もなかった。


エバンズの一件に連なって、別の厄介なことも起きた。私が医務室へ上がった隙に、好奇心の塊で傲慢な英雄気取りのポッターが、憂いの篩に移した私の記憶を覗き見ていた。

いつかはこの日が来ると、来なければならないと準備していた。闇の帝王が自身の内にいるポッターに気付いた今、あの方は閉心術の継続を望まれない。ダンブルドアのいない間に起こったのは非常に都合が良かった。

だがしかしどれだけ覚悟していても、自分で蒔いた種だとしても、許容しがたい存在に、秘匿したくて堪らない記憶を見られることをどうして耐えられようか。

その上憎しみしか湧いてこないあの顔に、

過去の安らぎを思い起こすあの緑の瞳に、

同情を浮かべられたことが堪らなく激情を煽った。


そんなことを考えながら勝手に足に運ばれた職員テーブルで、私はエバンズの言葉に気付くのが遅れてしまった。目を向けたときにはもう彼女は顔を伏せ、チラリと見えた横顔が、私の返すべき言葉を喉に貼り付けさせた。

私が足を止めたのは一瞬で、彼女を見たのも一瞬で、恐らく誰にも気付かれなかっただろう。

私はその時、何かが崩れる音を聞いた。

私が打ち崩した音を。

たった一瞬の、取るに足りない出来事。昔の自分なら気に止めることもなかった。そんな刹那の出来事が、こんなにも尾を引くことになろうとは。


このまま放っておく気には不思議となれなかった


彼女はそれからも何度となく私に声を掛けてきた。私はその度に喉を震わすべく息を吸い込むが、しかしどれも言葉にならず吐き出すだけ。

私はすべてにおいて口を噤んだわけではない。最低限の仕事はやり取りできた。ただ挨拶だけが、「おはよう」と「おやすみ」だけが、舌縛りの呪いに掛かったかのように内に引っ掛かって出ようとしなかった。

それがどうにももどかしく、奇妙で、滑稽だった。苛々とした鬱憤をいつか彼女にまでぶつけてしまうような気がして、次第に距離を取るようになっていった。


そんな日のある夜のことだった。

マクゴナガルと騎士団についての内密な話を終え地下へ下ると、私室前にエバンズの姿があった。松明に揺れ照らし出される彼女は、扉に手と頭をつき動かない。また何か抱え込んでいるのでは、苦しんでいるのではと思うと、勝手に足が動いていた。

だが残り数メートルの距離になって、そうではないと分かる。彼女は呻くことも呼吸を乱すこともなく、ただそこにいた。左手にはいつもの採集用のカゴ。


「何か用か」


私の言葉と彼女が振り返ったのは同時だった。彼女が僅かに目を見開き息を呑む。そして、瞬きをした。

ホロリ

そんな表現の似合う滴が、彼女の頬を伝っていった。

彼女の涙を見るのは初めてではない。しかし今この瞬間に流れたものだけは、私のせいだと感じた。数歩進めば、彼女が身を固くする。

一滴。それきり止まった涙に眉を潜める。誤魔化す笑みを作った彼女に眉間への力は増える一方で。

乾いてしまう前に、と伸ばした腕は空を掴む。するりと彼女が身を躱した。今まで何度も彼女の残像を握りしめてきた。深追いすることなく、それがルールのようになり、後には何も残らない。


だが、


スネイプは再び手を伸ばした。避けていたことも忘れゆっくりと距離を縮めて、追い詰めるように。しかし恐る恐ると。

細められた彼の漆黒に困惑と不安の翳りを見たとき、リリーはそれ以上身体を引くことが出来なくなった。彼との間にあった扉一枚の隔たりが、今は彼女の背を押している。

細くかさついた長い指が、やわやわとリリーの頬を撫でた。


「私のせいか」

「……いいえ」

「君は心を閉じてしまえるが、嘘が上手いわけではない」


涙の痕が消えても、触れ合う素肌に体温の境目がなくなっても、スネイプが離れることはなかった。おろおろと逃げるリリーの目を追って、彼が身を屈める。

覗き込む彼の眉尻が下がっているのを、リリーは初めて見た。目が合ったのも、暗黙の了解が破られたのも、頬に留まり続けるかさついた指も、驚きの連続だった。

必要以上の働きを続ける心臓に耐えきれなくなり、リリーはグッと左腕に力を入れる。忘れ去られていたカゴを胸の前へ持ち上げ盾を作ると、頬が解放された。スッと冷える頬に切なさを叫ぶ心を叱咤する。


「もう、大丈夫です。ご迷惑をおかけしました」


その真意を見極めるようにスネイプの目がじっとリリーを追う。


「催眠豆をお持ちしただけですので」


カゴを押し付けるように渡され、スネイプは渋々視線を手の内へと向けた。つやつやと松明に浮かぶ催眠豆は熟れすぎず若すぎず、収穫期の粒ばかりが揃えられている。いつしか認めていた助手の仕事ぶりに彼の頬が僅かに緩んだ。


「おやすみなさい、スネイプ教授」


これが最後のチャンス。

明日も明後日も彼女はここにいるというのに、何故かそう感じた。縋るような彼女の瞳もまた、そう語っている。私が始めてしまったこのぎこちない空気は、たった一言の挨拶で換気が出来てしまう。


何故こんなにも簡単な一言すら発せずにいたのか


ふつりと、糸が切れたようだった。


「おやすみ」


ただ挨拶を返しただけだと言うのに、あんなにも顔を綻ばせて笑う人間を見たのは初めてだった。

ただ挨拶を返せただけだと言うのに、こんなにもホッと清々しさが胸を通るのも、初めてだった。







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