目が覚めて見えた光景は、自室ではない真っ白な天井だった。ぼんやりと本調子ではない思考回路の片隅で、人の気配を感じ取る。カーテンで区切られたベッド周りに人はおらず、声はその向こう側から聞こえてきていた。
「モンタギューでした、間違いありません」
「ドラコ、それは確かか?」
「はい。顔をしっかり見たわけではありませんが間違えようがありません」
「だがエバンズを襲う理由はなんだ?」
「モンタギューを連れてきますか?」
「いや、いい。確固たる証拠は何もない」
マルフォイとスネイプだった。リリーは回り始めた頭で自身の身に起こった事態を把握した。
気付いたら医務室。これで三度目だ。
リリーが片肘を付いて身体を起こすと、ベッドの軋みで気付いた二人がカーテンを開ける。
「エバンズ、身体を起こせるなら薬を飲め」
スネイプはベッドサイドテーブルのゴブレットを掴むと、リリーに押し付けた。ゆっくりと起き上がる彼女の背に引き寄せた枕を当て、支えを作ってやる。マルフォイはじっとカーテンのそばから二人の様子を窺っていた。
「自分に何が起きたか理解しているか?」
リリーがほっと息をつくと、スネイプは空になったゴブレットを取り上げサイドテーブルへと戻す。彼女はコクリと一度、首を縦に振った。
毒を飲もうとして、背後から襲われた。何か、呪いをかけられたのだろう。マルフォイの話からすれば、犯人はモンタギュー。私が心当たりあるのも彼だけ。
まさか襲われるとは予想も出来なかったが。どんな言葉がどれだけの傷になるかは人それぞれだ。どうやら私は相当匙加減を間違えた。
「これは誰にもらった?」
まず手始めにと、スネイプは修復された小瓶を取り出した。彼女が倒れたすぐそばで割れていた小瓶だ。零れた中身はまだ詳しく調べられていないが、それでも彼には毒であることくらいは分かる。
「分かりません」
リリーは力なく首を横に振った。僅かに泳いだ彼女の視線。スネイプはじっとその目を捕らえようと身を傾ける。しかし彼女は項垂れるように目を伏せた。
まるで見られたくない心があると言わんばかりに。
「相手を庇っているなら、これにどういうものが入っていたのか分かったということだな」
リリーは少し間を開けて、またコクリと一度頷いた。
関係のないものまでモンタギューのせいにしたくはない。だか自分で煎じたなどとは流石に言えなかった。
「心当たりはあるか?君が……背後から呪いで痛め付けられるに値するような」
「あります」
リリーが顔を上げ、重々しく口を開いた。これにはスネイプはもちろん傍観していたマルフォイまでもが目を見開く。
スリザリンでは彼ら以外のあらゆる人間が非難の対象となる。そんな中でリリー・エバンズは可もなく不可もなく、槍玉に挙がることはなかった。そんな彼女の告白にマルフォイは思わずベッドへと飛ぶように移動した。
「先生が一体モンタギューに何を!?」
マルフォイの行動にリリーは少し驚いて見せ、笑みを作った。
「私は心当たりが誰かは言わないし、その人と何があったかも言う気はない。言えるのは、悪いのが私だってことだよ」
そして険しく眉間に不満を寄せていたスネイプへと向く。
「これは大事になっていますか?」
廊下に人気はなく生徒の溜まるような部屋も近くになかった。しかしリリーは遠くまで響くような悲鳴を上げた覚えがある。
元を正せば自分が悪いのだ。悪意ではないがモンタギューへの対応には意図的なものがあった。至らない自分の言動で彼を巻き込んでしまったようなものだ。本来なら、こんな事態は起こらないはずだった。
「いや、知るのはごく少数だ」
スネイプの返答にリリーはあからさまに安心してみせた。
「ならば内密に。何もなかったことにしてください」
「これは退学も免れん事態だぞ!」
スネイプらしからぬ荒げた声。ベッド脇に手をつき肩を怒らせる彼は飛びかかる寸前の獣のようだった。
マルフォイはそんな寮監の姿に却って冷静になることができた。どんなときも自寮を贔屓し甘く監督してきたこの人が、見逃してくれると言うのに食って掛かる理由は何だ?訝しむマルフォイを他所に話は続く。
「だからこそです。私から殴りかかったようなもので、生徒が不利益を被る必要はありません」
「何故そこまで庇う!」
「何故そこまで生徒を罰そうとするのですか!」
とうとうリリーまでもが声を荒げた。力の入った強い目でただスネイプの漆黒だけを捕らえる。
「何事です!廊下まで聞こえていますよ!」
飛び込んできたのは医務室の主、マダム・ポンフリーだった。患者の一挙一動に反応し敏感に駆けつける彼女はどうやら席を外していたらしい。足音に怒りを滲ませベッドへと歩み寄る。
スネイプはベッドへついていた手を離し、瞬時に身体を起こした。少しのばつの悪さと不完全燃焼による憤激にぎゅっと口を引き結ぶ。
「医務室を引き受けると仰ったのはあなたですよ、スネイプ教授!それを患者と口論するなど、言語道断です!出ていっていただきます!」
ピシャリとマダムが言い切って、伸ばした人差し指を唯一の出入り口へと向ける。スネイプは眉間を寄せ抗議してみるが、彼女には通用しなかった。最後にリリーを一瞥して、ゴブレットを引っ掴むと無言のままローブを翻す。
マルフォイは彼の背を追うべきかと足先をきゅっと滑らせ、確実に虫の居所が悪い男に触れるべきではないとリリーに向き直った。マダムも静観していただけのマルフォイまで追い出そうとはしない。
「薬は飲んだようね。でも今日はここで過ごしてもらいますよ。口論する元気があっても駄目。さぁ、寝て」
マダムはリリーの背にあった枕をあるべき位置へ移動させた。そしてゆっくり彼女の肩を押し、ベッドへと寝かせる。慈愛に満ちた母のように柔らかにポンポンと肩へ手を置き、事務室へと消えた。
「ここへ運んでくれたのはマルフォイ?」
「はい」
「どうもありがとう」
リリーは再び身を起こそうとしたがマルフォイに制され有り難くスプリングを軋ませる。寝転んだままの状態でにこりと微笑んだ。
「処置はマダム・ポンフリーとスネイプ教授がされました」
「スネイプ教授も?」
「マダムが力添えが必要だ、と」
リリーはゴブレットを持ち帰ったスネイプの姿を思い出した。
あれはマダムではなくスネイプ教授が調合したものだった。それほどまでに強力な呪いだったのか。
リリーはふっと時計を確認した。針は夕食が終わったばかりを指していた。そして自分がここへ運び込まれる直前、やろうとしていたことを思い出す。
「スネイプ教授は補習中だったでしょ」
「あっ」
マルフォイが洩らしたのは肯定だった。「しまった!」とばかりにぱかりと開いた口からもどかしげな声を出す。
予想外の展開にはなってしまったが、目的は果たせていそうだ。自分がするはずだったことを代わりにしてくれた人間がいただけの話で。モンタギューをこの件から離したはずが結局彼は関わっていて、数奇な偶然を面白いとさえ思う。
「ポッターの前でエバンズ先生が呪いを受け医務室に運ばれたと……あいつがペラペラと吹聴しているかも……」
「その時はその時。マルフォイが見た後ろ姿に名前を付けなければ、それでいい」
せめてモンタギューがやったことと広まらなければ良い。
マルフォイは報復どころかすべての許しを見せるリリーに理解しかねると顔をしかめ、首を縦に動かした。彼女は満足げに微笑む。
「あ、そうだ。フィルチさんの部屋の上階にキャビネット棚があってさ。片割れはダイアゴン横丁にあるらしいんだけど、壊れててね。入っちゃうとどっち付かずになって危ないんだ。見回りするなら、触ってる子を見かけたときは止めてあげて」
リリーが彼の「I」バッジを指し示しながら微笑んだ。マルフォイは引き受ける義理はないと思いながらも、コクリと頷く。
「少し休むよ。今日はありがとう」
「いえ。では、失礼します」
マルフォイはカーテンをきっちりと閉め、医務室からも出ていった。
彼は当たり前のように私を医務室へ運び、自寮の上級生でも庇うことなく真実を告げ、理解しがたいと思っても私の意思を尊重し気にかけてくれる子だ。気の合わない者には冷たく、高飛車で、プライドの高いところもあるが、根っこの部分には善が息づいている。
だからこそ彼は、とても苦しむことになる。
父親が捕まり、予言は失われ、彼は代わりにツケを払わされる。一人苦しみ、窶れ、涙を流しながらも、誰にもすがることが出来ずに。
「ごめんなさい」
か細い謝罪が虚空に溶ける。
私は《知り》ながら、彼を救う選択肢を取ることができない。《本》の中軸に深く関わる彼の苦しみを防いだなら、未来がどう変わってしまうのか。例のあの人が新たにどんな手を打ってくるのか。
こわい
「ごめんなさい」
涙は出なかった。
指を組み祈るように額へ付ける。リリーはただ虚空を見つめ、自らの咎で心を鞭打ち続けた。
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