110 グロウプ


爽やかな風のある日だった。

リリーはハグリッドに呼ばれて小屋へと向かった。ファングの熱烈な歓迎に比べ、ハグリッドは深く沈み込んでいる。こうしてリリーを呼び出したもののまだ決心がついていない。そんな顔だった。


「ハグリッド?何か、あった?」

「いんや、何も……あー、ないこたねぇな、ウン。えー、つまりだ……一緒に来てほしい場所がある」


ハグリッドはリリーを禁じられた森へと連れていった。入る前にポトリ、ポトリ、と落ち始めた大粒の雨は鬱蒼と繁った木々に遮られ、それほど気にならなかった。

奥へ奥へとリリーも入ったことがないほど深くまで進んでいく。いつしか小道から逸れ茨の絡み合った道なき道を、ハグリッドは躊躇いなく進んでいた。いつしか雨は森の中にも降り注ぐほど強まっている。もっさりと敷き詰められた枝葉が受け止めきれなくなった水滴を下へと落とした。

リリーは黙って後についていった。ハグリッドがどこへ案内しようとしているのか、薄々気がついていた。枝やトゲでマントが引き裂かれようと、彼の歩みが速かろうと、鈍い痛みが身体のあちこちに赤い線となって現れようと、彼女は文句ひとつ言わなかった。

ただ防水呪文だけは自身とハグリッドにかけた。気づいた彼が礼を言って、リリーがにこりと返す。やり取りしたのはそのくらいだった。


「あー、先に話しといた方が良いかもしれん……」


ハグリッドは突然立ち止まった。リリーが急ブレーキをかけ、跳ねた枝をはね除ける。振り返った彼が見たリリーはボロボロだった。破れたマントや擦り傷が何本も引かれた頬。彼はぎょっとしてベストのポケットから水玉模様のハンカチを引っ張り出した。


「まさかリリーがこんな状態だとは!考え事しちょって、ちいとばかし歩くのが早かったな……」

「大丈夫だよ、気にしないで」


ハグリッドがぐいぐいとハンカチをリリーの頬へと押し当てる。強い力は傷を抉っているようなものだったが、痛みに歪んだ顔はハンカチの下へと消えていた。

どうせ帰り道でも酷くなる。そう分かりながらもリリーは傷を隠すようにマントへ修復呪文をかけた。ハグリッドの表情が幾分か柔らかくなる。


「それで、何を話してくれるのか聞いても良い?」

「あぁ、そうだ、そうだな。ウン……それで……」


ハグリッドはとても歯切れが悪かった。もごもごと口ごもりながら指先をくねらせている。リリーはただ待った。


鳥も鹿も見かけなかったこの場所で、突如としてドーンッと地響きがした。ハグリッドが何かに気付いた表情で駆け出す。茨も毒イラクサも彼にとっては些細な障害だったが、リリーはそうはいかない。ぐんぐん引き離されていった。しかし焦りはしなかった。どこへ向かえば良いのか分かっている。

ただ呻く地鳴りのような低い響きの元を辿れば良いと。


「ハグリッド!」


立ち止まった彼の背を見つけ、リリーは駆け寄った。彼は大きく手を振って目の前の小山を宥めている。無理矢理更地にさせられた森の一角でこんなにも大きい存在がいたというのに、リリーはハグリッドのすぐ側へ着くまでそれが巨人であると認識出来なかった。


「リリー、ちょっと待っちょれよ。今こいつは機嫌が悪い」


小山は座った巨人だった。松の木を片手で悠々と振り回し、ひん曲がった口は元々なのか機嫌のせいか判断がつかない。ブン、ブン、と右へ左へ振り子のように行き交う松を二人して避け回った。


「ハグリッド、彼も魔法が嫌い?」

「正直よう分からん。あいつは――グロウプって俺は呼んどるんだが――グロウプは英語が上手く話せんで、それがなくても……あー、まだ若い」

「ならまぁ、良いかな。エバネスコ(消えよ)!」


松の木が消えた。グロウプは突然なくなったおもちゃに怒るでも泣くでもなく、ただきょとんと握っていた手を見つめている。リリーは一先ず胸を撫で下ろした。

彼はまだ魔法に敵対心がない。

松がなくなって、より詳しくグロウプを観察することができた。丸い頭と折れたようにそっぽを向いた鼻、脱狼薬そっくりの色をした目。グロウプは未だ松の消えた手を不思議そうに見つめ、グーとパーを繰り返している。

しかしもう片方の腕は不思議なくらい動かない。ダランと下げられたまま、破れた布が絡み付いていた。


「ハグリッド、あっちの腕は?」


リリーが下げられたグロウプの左腕を指すと、ハグリッドの表情が分かりやすく曇る。


「怪我しちょる。何があったかは分からねぇ。ただ相当深い傷で……もし、良ければ……お前さんに診てもらえたらと。ほら、俺に薬を作ってくれたのもリリーだし、医務室の手伝いもしちょる」


今日ここに呼ばれた理由はこれかと、リリーは納得した。しかしどうにか出来るかは別問題だ。巨人を見るのも初めてだし、ハグリッドが困り果てた問題を解決できる自信があるとは言いがたい。

それでも匙を投げるには早すぎる。


「俺にはあれで精一杯だった」


『あれ』と呼ばれたのは不器用に絡まった布のことだった。どんな怪我であれ、処置中は痛いだろう。きっと不機嫌だったのも、怪我が痛むから。


「診てみるよ。話はあとでゆっくり聞くから」

「あぁ、そうだな。もちろん、話す」


リリーはグロウプに歩み寄った。構えてはいないが手にはしっかりと杖を握ったまま。彼の視界を避けて、まずは左腕の様子を窺う。

血のベッタリと着いた布はとても嫌な匂いがした。ただの人なら意識を保てないほどの出血だ。リリーが杖を振って布を取り去ると、ぱっくりと割れた傷口が見えた。砂やら枯れ葉までが付いて、どう見ても不衛生だ。生憎の雨に晒しても、立てないほどの嵐でも来ない限りは落としきれない。

マグルの戦争では負傷兵の衛生面が原因で亡くなる者が後を絶たなかった。しかし今相手にしているのは巨人だ。とても頑丈である。彼らの個体数が減るのは治りを待たずに殴り合うからで、衛生面は大した問題ではない。

が、

リリーはしばし迷って、杖を傷口へと向けた。

なるべく傷を刺激しないようにはした。それでもこびりついた汚れを取り去る痛みは相当なもので、グロウプの注意が一気にリリーへと向く。何か呻いて、傷のない右手を痛みの原因へと伸ばした。


「リリー!」

「――っ!」


リリーはすんでのところで幹のような太い指を躱した。しかし風を受けたマントが舞い上がり、彼の指へと引っ掛かってしまった。

ヒョイ、と意図も簡単にリリーが宙に浮く。


「グロウプ!やめろ!は・な・せ!」


リリーの足先でハグリッドが跳ね、靴に指先が掠めた。幸いグロウプは座っている。高さは然程ない。マントを脱げば今すぐにでも降りられるし、リリーの手には杖がある。

しかしリリーはどの脱出方法も取らなかった。


「グロウプ、降ろして」


もし彼にも《呪い》が有効ならば、言葉でどうにかできるのではないかと思った。だが既に自分はグロウプに攻撃とも言える行動をしているし、成功する可能性は高くない。

迷うような間を見せたグロウプに、リリーは根気強く声をかけた。杖で自分を指して、次に地面を指して、ジェスチャーも付けた。

何度目かのチャレンジで、とうとうグロウプはリリーを離した。ひゅっと落ちる彼女をハグリッドが受け止める。


「ありがとう、ハグリッド。グロウプも褒めてあげて」

「グロウピー、いい子だ!それでいい!」


言われるまでもないと、ハグリッドは満面の笑みでグロウプに手を振った。


「ハグリッド、私の煎じた薬、今持ってる?」

「あぁ、もちろん!出来るなら使ってもらおうと思っとった」


ハグリッドが残り半分ほどの薬瓶をリリーに渡した。左腕へと向かう彼女をグロウプの大きな目玉が追う。


「動かない」


リリーは予めぴしゃりとグロウプに言い聞かせた。それを理解したかどうかは行動を起こしてみないと分からないが、少なくとも傷口に薬を撒く前に捕まることはなさそうだった。


「ごめんね、グロウプ。これもきっと私のせい。ごめんなさい」


リリーの謝罪は誰に届くこともなかった。


ハグリッドにグロウプのことを打ち明けてもらいたいと思っていた。そして今こうして叶っている。それなのに、全く嬉しくない。

私は誰かの役に立てているだろうか。自分にしか分からない悪化と、傷と、尻拭い以外に、何か出来ているだろうか。私の行動は、ちゃんとプラスに働いているのだろうか。

頑張るとか、後悔はこれきりだとか、自分にまで格好つけて、実際は毎日不安だし後悔を引きずっている。


「ごめんね……」


グロウプの左腕へ傷薬を撒くと、彼の嫌がる声が耳をつんざく。痛みに耐え、ミシミシと木を握り締めている。リリーは彼の傷口がボコボコと盛り上がり、瘡蓋を剥がした後のような出来立ての皮膚になるのを見届けて、杖先から包帯を出した。

彼の大きな身体に薬の量は足りていなかったが、あとは彼自身の治癒力で問題ないだろう。

ハグリッドが感謝の言葉を並べるその場所へ、貼り付けた笑顔で歩く。鉛のような足はぎこちない。


私は弱い。

何より心が弱い。

今ぐちぐち考えているのも、スネイプ教授の前で泣いてしまったのも、してはいけないことなのに。


割り切った、はずなのに


強くなりたい







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