109 プロデリック・ボード


新学期が始まって初めての火曜日。

リリーはスプラウトと並んで食い入るように日刊予言者新聞を眺めていた。自分の関与の結果を確かめるためだ。

リリーはクリスマス休暇中、アーサー・ウィーズリーに関するもの以外にも病院へ手紙を送っていた。それは匿名で、病院へというよりは癒者個人への警告。


『親愛なる癒師 ミリアム・ストラウト
ブロデリック・ボード氏は命を狙われている。至急対処されるよう、お願い申し上げる』


たったそれだけの文。しかし癒者がベッドへ行ったとき、チラとその事が頭に浮かべばそれで良かった。クリスマスの忙しさを終え再び彼の治療に向かったとき、鉢植えに目が止まれば良かったのだ。クリスマスに届いたものが悪魔の罠であると気付いてさえくれれば。

だから手紙には心ばかりの金貨を添えた。異質さが記憶に残るように。

ボード氏には神秘部にいたとき世話になった。無言者にありがちなむすっとした口数の少ない人だったが、それでも私に無言者としての振る舞いや仕事の仕方を教えてくれたのは彼だ。放っておけるはずがない。

しかし私には直接出向いて悪魔の罠を燃やすことが出来なかった。


『アズカバンから集団脱獄』


一面の大見出しは《本》と同じだった。《知っていた》私も、ずっと警告していたダンブルドア校長も、同じ苦虫を噛み潰す。

ギリと唇に鈍い痛みが走った。じわりと鉄を含んだ血の味がする。

二面、三面、と大きな見出しだけを拾いながら紙面を捲る。そして十面。ここだけはゆっくりと、呼吸を整えた。


『魔法省の役人、非業の死』


「――っ!」


言葉が出なかった。内容をよく読もうと思うのに、目が滑って文字を追ってくれない。活字が文章として頭に入ってこない。


ブロデリック・ボード……錯乱……脱走…………飛び下り……


何とか単語だけを拾い、彼に何が起こったのか、断片的な情報を拾い集めた。


結局、彼を救えなかった


私の手紙は確かに変化をもたらした。彼は悪魔の罠を回避している。しかし彼に回復してもらっては困る人間がいた。一度目のチャンスが消えたなら、二度目のチャンスを作るだけ。

成功するまで。

正に私の危惧していたものだ。

一つを変えても、根本をどうにかしなければ解決には至らない。方法が変わるだけ。私の知らない未来へ変わってしまうだけ。


「リリー、大丈夫なの?」


隣にいたスプラウトが口に手を当て青白い顔のリリーを心配していた。パサリとテーブルに投げ出されたリリーの日刊予言者新聞を覗き見て、再び彼女へと顔を向ける。

リリーは首を振るしか出来なかった。それが果たして横だった縦だったか、自分にも分からない。愛想笑いなんてとんでもなかった。ただ迫り来る波を、今にも皿に戻ろうとする朝食を、押し止めることだけに神経を費やした。

背丈を優に越える大波がさざ波へと治まり始めたとき、リリーは席を立った。隣で彼女の肩に手を置いていたスプラウトも、マクゴナガルと話し込んでいたダンブルドアも、同じ日刊予言者新聞の十面を見ていたグレンジャーも、皆一様に眉を寄せ、足早に去るリリーを見ていた。

スプラウトは腰を浮かしかけたが、彼女が大広間の出入り口でぶつかった人物を見て、再び椅子へと座り直す。朝食を摂りに来たに違いないその影は、リリーを訝しげに見つめたあと、彼女を伴い踵を返した。






スネイプは医務室より近い自室にリリーを連れてきていた。彼女は用意されたゴミ箱にすがりついて、吐くことも泣くこともできずにただ震えていた。スネイプはその背をそっと擦る。

スネイプが彼女のこんな姿を見たのは二度目だった。前回は屋敷しもべ妖精の記憶の中だったが、今回は目の前にいる。彼女に話す余裕がないのは明らかで、スネイプも黙り込んでいる今、部屋はリリーの荒い息遣いだけが充満していた。


その息遣いも次第に治まっていく。整えようとわざと大きく肩を動かし深呼吸に努めているリリーを置いて、スネイプが立ち上がった。やがて左右に色の違う液体を入れたゴブレットを持ち、彼女の前にしゃがみこむ。


「白湯と、安らぎの水薬だ」


リリーがチラリとスネイプを気にする余裕を見せた。彼はゴブレットを掲げながら「どちらを飲みたい?」と言外に問う。

リリーは白湯のゴブレットに手をかけた。

スネイプの眉間がぎゅっと狭まる。どう考えても今の彼女に必要なのは安らぎの水薬だ。


「両方、いただきます」


判断を委ねておいてムッと不満を露にした男にリリーは淡く微笑んで、がぶりと一口白湯を含んだ。どろどろとした気持ち悪い痛さがスッと流れ落ちていくような気がした。


安らぎの水薬を飲み終えると、リリーはゴミ箱を手放すことができた。スネイプの厚意に甘えてソファで休む。彼から隣に座ってきたのはこれが初めてだった。しかし自然な動作でなされたそれを気にするだけの気力を、彼女はまだ回復していなかった。


「ブロデリック・ボード氏が亡くなりました」


ポツリとリリーが打ち明ける。


「神秘部で、彼は私の教育係でした」


スネイプは相槌もせず、ただ隣にいた。


「死なせたくなかった……私は……私、だけが……!」


それ以上は言葉にならなかった。するべきでもない。

ただ少し言葉にしただけで、リリーの目からは次々と涙が零れ落ちた。止めるべき堤防もない涙腺は弛んだまま。

彼女は顔を伏せポトリ、ポトリ、とローブに染みを作っていく。


不意に、リリーの身体がグラリと揺れた。トンと何かが肩を押し、支える力もない彼女の身体はゆったりと傾く。そして柔らかくも硬くもないクッションへと倒れ込んだ。


ふわりと洗い立てのローブの香りがした

そこに混ざり合うように漂う、夜に何度も求めた香り

トクトクと早歩きの心音


そのどれもが水薬よりも安らぎをもたらしてくれると感じるのは、煎じた目の前の彼に失礼だろうか。


スネイプは自身の胸板に額を押し当てたままぎゅっと縋るようにローブを握りしめている彼女を見つめ、さ迷わせた両手を左手は肩に、右手は背に回した。遠い記憶を掘り起こし、スネイプはトン、トン、と子供をあやす親のように右手をリズム打たせる。


リリーは涙が止まっても尚、スネイプの不器用な気遣いから離れようとはしなかった。彼もまた、引き剥がそうとはしない。

僅かな布ずれとお互いの呼吸を聞いていた。


しかしずっとそうしているわけにもいかない。

突如響いた始業ベルに二人して肩を跳ねさせ、今日初めて目が合った。リリーはどんな顔をしていいか分からず気まずさににこりと笑みを作ったが、スネイプはそれが気に入らないとばかりに空気を尖らせる。


「私は授業へ行くが君は今日1日休め。ここへドビーを呼ぶ」

「いえ、でもっ!」

「議論している暇はない。ドビーと、一緒に、自室へ、戻れ」

「……はい。ご迷惑をお掛けします」


スネイプはリリーが握り締めシワになったローブを伸ばす。杖を振って涙の染みも消した。教室を開けていない今、廊下でうようよ溜まっている生徒を想像して内心舌打ちをする。

扉に手をかけたとき、慌てた声のリリーに呼ばれて振り返った。そこには無理矢理にではない、はにかんだ彼女の笑顔。


「あの、ありがとうございました」

「シリウス・ブラックのときの借りは返したぞ」




ドビーは5分と経たずに現れた。手を繋ぎ、何度も仰ぎ見る彼に微笑んで、リリーは誰にも会わずに自室へ着いた。今日引き受けるはずだった仕事への断りをドビーへ頼み、彼女は一人部屋に残される。

安らぎはリリーの心を冷静にさせた。

今日の後悔はこれきりで封印しよう。人一人の命を救うことが如何に難解で重大か。ボード氏のことは無駄にしない。これで決心がついた。


私は運命の日、シリウスを救うために神秘部へ行く


私が行くことで戦闘が悪化し更なる傷を増やすかもしれない。けれどそれはシリウスの未来と天秤にかけるまでもないことだ。


死は治すことができないのだから







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