有り難いことに、私の仕事は忙しかった。
飛行術の授業助手、スプラウト教授と共に薬草の植え替え、フィルチさんとの悪戯の後始末。放課後には熱心な生徒からの質問に付き合うことも多い。
古書店にいた頃とは比べ物にならない慌ただしさと賑やかさの毎日に、付けるべきは知識ではなく体力であったと一人愚痴てしまう。
「先生、ありがとうございました」
ソバージュヘアーを揺らし頭を下げたのは、分厚い本の似合う少女。闇の魔術に対する防衛術で共にピクシー妖精を捕獲して以来、すっかり質問タイムの常連となった彼女の名は、ハーマイオニー・グレンジャー。物語のキーパーソンからの思いがけない接触に心躍ったのは記憶に新しい。
一向に立ち去る気配のない彼女にどうしたのかと問うと、きょろきょろと周囲を気にする様子を見せる。やがて満足したのか、顔を寄せ、小声で話し始めた。
「みんな言ってます。エバンズ先生が来てくださって嬉しいって。教科を問わず質問に答えてくださるし、特に魔法薬学は…」
リリーの立場に遠慮をしたのか言い淀む彼女に、クスリと笑みが零れる。
実際目にしたことはないのだが、スネイプ教授のスリザリン贔屓は凄いらしい。ことグリフィンドール――もっと言えばハリー・ポッターのいるクラス――での痛烈な態度は、あの《本》の中でも目に余るものがあった。
尤も、ダンブルドアがこの件で彼を咎めることはない。かく言うリリーも、スネイプの贔屓に直接意見する気は更々なかった。
「ホグワーツで一番質問に行き難い教科、らしいね」
授業は厳しく他は優しく、それがリリーの決めた生徒との接し方だった。ホッとした様子で苦笑いを浮かべるグレンジャーはここからが本題だとグッと目に力を溜め、リリーの手を取った。
「先生、魔法薬学の授業にも来てください!」
しばしの間。
何度か瞬きをして、リリーは握られたままの手をそっと解いた。
「ごめんね。それは私が決められることじゃないから」
「……そうですか」
どれ程期待されていたのかは分からないが、グレンジャーが落ち込んでいるのは明らかだった。目からはすっかり強さが消え、澄んだブラウンは今やくすんでいる。
彼女の気持ちは分かる。スネイプ教授からの防波堤にでもなってほしいのだろう。しかし私に授業助手の決定権がない以上、どうすることもできない。そもそも私がいたところで彼は止まらないだろう。
それに殆どの教授方からは既に仕事の依頼があったが、スネイプ教授からは一度も声を掛けられたことがない。それは自らの領域に他人を入れさせまいとする彼の強い意思であり、生き方のようだった。
だが教職員としては、落ち込む生徒を放ってもおけない。
「何か出来ないか、考えてみる」
「期待しないで」とも加えてみたが、彼女の耳には届かなかったようだ。一瞬にして戻った輝きが、少女のあどけない笑顔を引き立てる。
「ありがとうございます!」
本日二度目の礼をすると、彼女は晴れ晴れとした顔で弾むように去っていった。
良い機会かもしれない。一度キチンと話してみたいと思っていた。駆け抜ける日々についつい先伸ばしになっていたが、スネイプ教授は《本》の最重要人物だ。読んだ者は彼に興味を抱かずにはいられないだろう。
《本》には彼の人生が詰まっていた。夢、恋、怒り、後悔。そんな単純な言葉では表せない、決して幸福だったとは客観視できない人生。《本》について相談した日のダンブルドア校長の様子からして、私の知る彼の過去は本物だ。
ミーハーな動機ではあるが、心に灯る浮わついた気持ちはロックハートのときと比べ物にならない。
リリーは勢いのまま階段を下り、枝分かれした地下牢を進んだ。
学生時代も必要以上には行かなかった地下。こんなに冷えた場所だったろうか。消灯時間はまだまだ先だと言うのに静まり返る廊下で、一人ぶるりと肩を震わせる。
短くない距離を歩いて、目的の扉をノックするべく軽く拳を握り、はたと気付いた。
さて、何と言おうか
「今日は良い天気ですね、ご機嫌いかが?」などと冗談の通じる相手だとは思えない。素直に授業の見学がしたいと言ってみようか。いや、邪魔だと追い返されるのがオチだろう。とは言え「仕事をください」では新手の物乞いである。
しかし仕事自体はあるはず。私に仕事を持ち込まない内の一人、魔法史のビンズ教授に比べれば、授業の下準備も調合中の生徒のフォローもやることは山積みだ。グレンジャーによればレポートの量も教科一らしい。
「随分とお忙しいようですな」
「――っ!?」
突如鼓膜を震わせた声に、分かりやすく身体が跳ねた。にらめっこしていたはずの扉はとうに開かれ、中には不機嫌さを隠さない真っ黒な男が立っていた。
「悪戯でも仕掛けに来たのかね?」
器用に片眉だけを上げながら、スネイプの視線は上から下へと走る。すべてを見透さんとする彼の目付きは、ダンブルドアとはまた違った居心地の悪さを感じさせた。
「いえ、こんばんはスネイプ教授。少しお時間よろしいですか?」
スネイプの陰険な視線に張り合うように、リリーは最大限の笑顔を作る。彼は眉間が一層深くなったものの扉は開けたままで、何も発することなく奥へと戻っていった。
思いの外すんなりと縄張りへ通されたことに面食らいつつも、慌てて彼の後を追い身体を滑り込ませる。
話を聞く気があるのかないのか、彼は羊皮紙の高く積まれた事務机へ腰を下ろすと、そのまま羊皮紙を手に取り羽根ペンを走らせ始めた。
向かいに立ち、こっそりと覗き込む。
どうやらそれはレポートのようで、まだ新学期も始まって間もないと言うのにご苦労なことだ。授業を実務中心で行う代わりに、レポートとして理論を補う他ないのだろう。と言っても、私の受けたスラグホーン教授の魔法薬学では、この時期にここまで羊皮紙が集まることはなかったと思う。生徒受けの悪いこのストイックさに好感を持ててしまうのが、私のレイブンクローたる所以かもしれない。
「それで?」
先に口を開いたのはスネイプだった。
忙しなく動くペン先を睨み付け、リリーの言葉を待つ。深く刻まれたままの眉間に反して、声色に責付くようなトゲはなく、かといって和やかでも決してない。
「お忙しいのですか?」
「常に」
切り出し方を悩む間にと、質問に質問で返した。それを意に介さず呆れたようなため息と共に吐き出されたのは、リリーの求めていたきっかけそのものだった。
「では、私に何かお手伝いをさせてください」
先程の少女を真似た笑顔を携え、ぐいと顔を寄せる。ピクリと眉を動かしたきりこちらを見ようともしないが、これが本題であるとは察してくれたようだった。彼は少し考えるような仕草を見せたあと、徐に立ち上がる。
「付いて来い」
座っていたにも関わらず既に数歩先を行くスネイプ教授に慌てて従った。
入り口からは棚で死角となる位置に、あるはずの壁はなく、案内されたのはどうやら研究室だった。扉は各々あるものの、ここは中で繋がっていたのか。
壁一面の薬品と中央に設置された机に並ぶ実験器具たち。充満した陰湿な空気を否応なく吸い込むが、埃っぽさのないことから常日頃使用されている場所なのだと分かる。
「明日使用する羽目になるであろう薬を調合したまえ。材料はこれですべて。必要のないものには触れるな」
しゃくるように示された位置には大鍋やナイフ、数種類の材料たち。何を調合すれば良いのかも告げぬまま、彼はさっさと隣室へ戻ってしまった。壁から覗き込まないことには、ここから事務机の様子は窺えない。
去り際の視線は宛ら試験監督のようで、これは試されているのだと思った。材料すべてを使用して煎じる魔法薬とその調合方法の知識、そしてもちろん技術も。監視の元でないのは大鍋を爆発させるような間抜けではないとの信用からか、はたまた単に彼が忙しすぎるだけなのか。
今はポジティブに捉えることにしよう
大鍋に触れるのは数年振りだが……大丈夫だ。昨日のことのように思い出せる。早速、と雛菊の根を刻むべくナイフを手に取った。
9月も半ばを過ぎた頃、私の私室に今更リリー・エバンズが顔を出した。他の教員とはよろしくやっているようだが自分には必要ない。一切関わる気はなかった。だが今日に限って必要な仕事が重なり、気まぐれを引き起こす。
品行方正、教員からの信頼も厚く、首席卒業。彼女を悪く言う者はいなかったが、完璧な人間などいない。
途端に沸いた薄汚れた心が彼女を研究室へ押しやった。明確な指示は与えず、質問も許さず、ただ薬材料の広げられた机を指し示すだけ。これで少しは実力を量れるだろう。
スネイプはくつくつと込み上げる笑いを押し殺し、事務机へと戻っていった。
調合中は無心になれて良かった。もちろん集中出来る環境が整っていてこそのものだが、その点においてこの研究室は最高だった。
「次は20分かき混ぜる」
記憶の中の手順を口に出し、改めて確認する。少し離れた位置の砂時計を引き寄せひっくり返すと、さらさらと流れ始めた。
昔は腕をぱんぱんにして鍋の面倒を見続けたものだが、今は賢く魔法を使う。一定のリズムであれば右回りだろうが左回りだろうが効果に差が出ないと分かっているからこそ行えるのだ。
順調に撹拌されているのを見届けてから、リリーは棚に並べられた薬品に目を滑らせていく。スネイプの指示通り、触れはしなかった。
ニガヨモギ、バイアン草の根、何かの心臓。瓶にぎっしりつまった死んだゴキブリを見たときは流石にぎょっとしてしまったが、中には高価なものもある。あちらの薬戸棚にも色々と詰められているのだろう。彼の個人棚にはより高価なものも含まれているはず。最新の器具も合わせると、この部屋だけで価値はざっと――
ピピピ、と軽快な音で現実に引き戻された。優秀な砂時計に礼をして、鍋の液体が緑から紫架かるのを見届ける。
作成量から計算したベラドンナエキスを1、2、3滴垂らすと、今度は粘度だけが上がっていった。粘り気を確認するため自ら撹拌し、ここだ、と思うところで火を止める。
完成した魔法薬に劣化防止の呪文をかけ、小瓶に小量を掬いとる。試験監督への提出用だ。
自信満々にスネイプ教授の私室を覗き込めば、彼はまだ机に座ったままだった。未だに羊皮紙に釘付けで、大分減ってはいるものの、彼はそれを片付けてから更に調合するつもりだったのか、と時計と彼の顔を交互に見た。あと30分もしないうちに消灯時間ではないか。
「瓶を」
一段落ついたのか、上げられた顔と目が合う。差し出された手に小瓶を乗せると、粗探しでもするかのように色、粘度、匂いと次々に確認されていった。
「……合格だ」
忌々しげに呟かれた言葉にリリーの顔が自然と綻ぶ。褒められたような、勝ったような、なんともふわふわとした良い気持ちを胸一杯に堪能した。
「残りは大鍋のまま保存してあります」
時間も遅いし、今日のところはこれで帰ろう。寧ろ十分すぎる成果ではないだろうか。どこへ進むかは分からないが、これは大きな一歩だ。
「失礼します」と断ってから、リリーはクルリとスネイプに背を向けた。
「明日の1限」
背に掛けられた言葉にリリーは一体何のことだと、再びスネイプに向き直る。
「手が空いているなら、最後まで自分の薬に責任を持ちたまえ」
『最後まで』その言葉に数拍の間を置いてじわりじわりと頭が回転し始める。
これは、つまり、そういうことなのか。
「もちろんです。では明日、1限に。おやすみなさい、スネイプ教授」
明日の1限は何年生の授業だったろうか。薬からして三年生か四年生あたりだろう。まさか彼の方から授業助手の申し入れがあるとは驚きだ。この感動は初めて梟に甘噛みされたときのそれに似ている。
ふわふわした気持ちはいつの間にかドキドキへと変わり、軽い足取りが人気のない廊下に遠く響いていた。
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