105 アーサー


リリーはここ数日寝不足だった。

クリスマス休暇を目前に控え憂いは募る一方で、行き場のない嫌悪が身を焼き、安らぎの水薬の世話にもなった。

私の計算が正しければ今夜アーサー・ウィーズリーが例のあの人の忠実な大蛇に襲われる。

私はそれを知りながら、警告はしないと決めた。

騎士団の任務が常に危険なものであることは誰もが理解している。今更「気を付けろ」なんて言ったところで意味がない。「奪いに来るぞ」も無意味だ。それが分かっているからこそ彼らは神秘部の前に見張りを立てた。

騎士団でもない人間が根拠も示せず人員を増やせと言ったところで誰が取り合うのだろう。それに敵に手を変えられては何が起こるか分からない。

幸いにも彼は深手を負うが命までは奪われないはずだ。しかしそれもポッターと周りの動き次第で変わってくる。刻一刻と流れ出る命は一分一秒でも早く助けを呼ばなければならない。

だから私は今こうしてグリフィンドール寮近くで待機している。何か動きがあればすぐにでも率先してポッターを校長室まで連れていけるように。

月明かりがぼんやりと吹き抜けの階段を照らし出していた。絵画もこぞって目を閉じ動きを止めている。

じくじくと、ウィーズリー一家の青白い顔が心に突き刺さる。だが後悔したところでもう遅い。

リリーは祈るように指を組み、じっと耳をそばだてた。


コツリ、コツリ


聞き覚えのある足音に、リリーはまさかと顔を上げる。気づいたときにはすぐ側まで迫っていた足音に逃げる間もなかった。


「ここで何を待っている?」


杖明かりと共にずんずんと近付いて来たスネイプは僅かな松明の下に立つと声を潜めた。目線だけで周囲を警戒し、人の気配がないと分かるとリリーと目を合わせるべく意識を向ける。しかし炎に揺らめく彼の漆黒に抉るような疑心はない。リリーはその目に自分と同じような憂いを感じ囚われてしまう。


「君の寝不足の原因はこれか」


リリーが心を開かずともスネイプにはそのくらいの判断がついた。尤も、読もうとすらしていない今、彼女の心がどうなっているのかスネイプに知る由もない。


「あの、スネイプ教授――」

「嘘を吐くくらいなら話す必要はない」


その口調は決して責めるような色を帯びてはいなかった。しかしそれが一層強くリリーを揺さぶる。


スネイプ教授は信じようとしてくれている

それなのに、私に言えることは何もない


リリーはぎゅっと口を引き結んだ。腕を組み壁へ寄りかかるように位置を変えたスネイプを覗き見る。彼は頻りに周囲を警戒していた。リリーの視線に気付くとピクリと片眉を上げる。「無理矢理聞き出す気はないが去るつもりもない」リリーは彼がそう言っているように感じた。

リリーは再び指を組み、無意味な祈りを捧げる。




その瞬間は突如訪れた。

「太った婦人」から飛び出してくる生徒を視認し、リリーはすぐさま影から飛び出す。


「ロングボトム!」

「エバンズ先生!あの、ハリーが、魘されて、それで――」

「落ち着いて。あなたはマクゴナガル教授を呼ぶんだ」


震えるようにロングボトムは首を縦に揺すり再び駆け出した。


「エバンズ――」


影に潜み成り行きを見守っていたスネイプが姿を現す。


「今は議論している暇はありません。信じていただけるなら、校長にすぐ向かうとお伝えください」


すぐに駆け出したい衝動を抑えリリーは強い口調でそう言った。そしてスネイプの返事も聞かず肖像画の元へと向かう。

予め入手していた合言葉を唱え、初めてグリフィンドール寮へと足を踏み入れた。温かな色調に静まり返った暖炉。ポッターらの部屋はすぐに分かった。


「僕は病気じゃない!」


リリーはそう聞こえた扉に飛び込んだ。


「ポッター、大丈夫?」


ロングボトムの姿もなければグリフィンドールの寮監でもないリリーの登場にポッター始めみんなが面食らっていた。しかし彼女にはその説明よりもしなければならないことがある。杖を振って嘔吐物を消しながらポッターの背を撫でた。

ポッターは騎士団員ではないリリーに話すべきか迷い、隣で狼狽える親友を見た。しかし彼が何のことだか分からない様子で首を傾げると心を決める。


「ロンのパパです。蛇に襲われました。すぐに助けにいかないと!血が、重態で、夢じゃありません!」


リリーはじっとポッターの目を見た。彼女に開心術の心得もなければする必要すらない。ポッターを信じるも何もリリーは《知っている》。


「校長室へ行こう。そこでもう一度話が出来るね?」


ポッターが何度も頷いて、リリーはそばに落ちていたガウンを彼にかけた。


リリーがポッターとウィーズリーを引き連れ談話室まで下りたとき、マクゴナガルを連れたロングボトムに出会した。


「説明は後です。教授も一緒に校長室へ来て下さい。ありがとう、ロングボトム」


月明かりから隠れるような影にスネイプの姿はなかった。




「フィフィ フィズビー」


リリーが唱えると入り口を守っていたガーゴイルたちが飛び退いた。四人を乗せた階段がぐんぐんと上昇していく。樫の扉の前についたとき、中からは二人分の話し声がしていた。どちらもリリーのよく知る人物だ。

会話を遮るように打ったノックで扉が開かれる。中にはダンブルドアと話し込むスネイプの姿があった。


「おぉ、来たか。それで用というのは?」

「アーサー・ウィーズリーが危篤です。先ずは彼の生命の確保を。話はそれからにしてください」


リリーはダンブルドアだけを見据え強く要求した。後ろでマクゴナガルが息を呑む音が聞こえる。ダンブルドアは数秒の間をもって壁にかけられた歴代校長の肖像画へと向き直った。




リリーは用意された椅子を断り扉のすぐ近くに立っていた。口に手を当て足をトントンと何度も繰り返し床に打ち付けながら、話し込むダンブルドアらを見つめる。リリーにとって彼らの会話は興味をそそられるものではなかった。


「ダンブルドア!」


壁から男の声が響いた。一斉に向いた視線にたじろぐこともなく、重傷者が運び出された経緯を語る。それが終わらないうちに今度は魔女の咳き込む声が主導権を握った。


「男は聖マンゴ病院へ運ばれました……ひどい状態のようです……ですが私は彼の手が動いているのを確と見ました!」


ぐらり、リリーの身体が揺れる。

踏ん張るべき床が、足が、突然消えたかのようだった。咄嗟に手を伸ばすがみんなを遠巻きに見ていたため頼るものがない。30センチと離れていない背後の扉を無視して、身体が前へと傾いていく。


「エバンズ!」


リリーにとってはいつの間にか、スネイプが隣にいた。伸ばされた彼女の二の腕をしっかりと掴み、もう片方の腕は腹部を支えるように回されていた。

ギイッと椅子を引きずって、焦ったマクゴナガルが立ち上がる。スネイプに支えられながら何とか足を踏ん張り直したリリーは心配かけまいと彼の手を離した。


「ありがとうございます、スネイプ教授。あーごめんなさい、大変なときに」


誰ともなしに謝って、リリーは眉尻を下げた。


「エバンズ先生は部屋で休むのがよかろう」


ダンブルドアの言葉に頷いたのはスネイプで、扉を開けると押し込むようにリリーを急き立てる。最後にもう一度謝って、リリーは螺旋階段へと足を進めた。

てっきり一人で戻ると思っていたのに、すぐ後ろにはスネイプ教授がついてきていた。


「あの、話はいいんですか?」

「私がいる必要はないだろう。それに……」

「それに?」


間をとるスネイプをリリーが促す。


「アーサーが無事だと分かったから、気が抜けたのではないのか?」


校長室への入り口を守るガーゴイルを通り抜け、二人は廊下を進む。スネイプの灯した明かりを頼りに階段を踏みしめた。


スネイプ教授はどこまで気付いているのだろう


聞きたい衝動に駆られたが、自分にメリットがあるとは思えなかった。墓穴を掘りかねない。


『嘘を吐くくらいなら話す必要はない』


ここでの沈黙は肯定に他ならないと分かりながらも、スネイプ教授と別れるまで黙りを決め込んだ。







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