103 鰓昆布


太陽が顔を出す日が次第に減り、毎朝校庭には霜が降りた。辛うじて緑の残る芝生を半透明のベールが覆い、雑にふりかけた粉砂糖のように白い部分が点在している。シャキシャキと踏み鳴らす度に霜が崩れ、駆け回るファングが楽しそうに耳を傾けていた。


今シーズン初のクィディッチ戦を目前に控え、城内はピリピリとした臨戦態勢が蔓延していた。去年はクィディッチが三大魔法学校対抗試合へと置き換わった影響で、今年はどこも相当力が入っている。

クィディッチに大して興味のないリリーからすればいい迷惑である。近頃は質の悪い悪戯道具や呪いが横行しているのだ。度が過ぎないように教職員全員で目を光らせているが、それでも選手の身代わりとなった生徒の医務室利用は後を絶たない。


リリーは悴む指と抱えたカゴを庇い、全身を使って巨大な樫の扉を開く。スルリとファングが先に入り、続いてリリーも身体を滑り込ませた。

玄関ホールでは朝食を摂りに来たグリフィンドール生とスリザリン生のいがみ合いが繰り広げられている。


「私なら職員室の目と鼻の先で杖は出さないでおくよ」


ぎょっと振り返った背の高い男子生徒が杖を隠す。それを見てがたいのいい男子生徒も杖をしまった。リリーはやれやれとため息をついて時計を確認する。


「朝食まであと10分もある。校庭を走って頭を冷やすか、大広間で温かいスープを待つか選びなさい」


語気を強め、リリーがピシャリと場を納める。お互いに悪態を吐きながら、ぞろぞろと二色が大広間へと吸い込まれていった。舌打ちや足の踏み合い、肩のぶつけ合いは可愛いもの。一方的な攻撃や度が過ぎない限りは放っておく。


「ファング、お待たせ」


生徒たちの気に嫌なものでも感じていたのか、大きな体に尻尾をピタリと沿わしていたファングの頭を撫でてやる。ゆったりと左右に揺れ始めた尻尾に淡く微笑んで、リリーは階段を上っていった。


辿り着いたのは医務室。ハッフルパフの六年生が寝ているベッドを通りすぎ、リリーは事務室の扉を叩いた。


「おはようございます、マダム。薬草をお持ちしました」

「ありがとう、助かるわ。これで1年は持つでしょう」


カゴの中をガサリと揺らしてマダム・ポンフリーが厳格な頬に感謝を浮かべた。リリーはマダムに一礼をして踵を返す。

早朝からわざわざ森へ入ったのはただの散歩のついでではない。霜の降りるこの時期に、霜が溶けない間にしか摘めない薬草がある。医療の場での活躍が多いその薬草は買うより自生しているものを使う方が効果が高まるのだと、仕事を引き受けたときにマダム・ポンフリーが力説していた。

温めた息をかけても冷えきった指先はなかなか感覚を戻してはくれない。リリーはもふもふと暖かな毛皮に身を包んだ相棒を見やり、羨ましげに目を細めた。




『朝食後、私の部屋へ来い』


リリーが大広間でトーストにかじりついていたとき、後ろを通り様にスネイプが耳打ちをした。魔法薬学の一限目は少数精鋭の七年生。リリーは授業を監督する必要がない。

ならば何故、と思いつつ、リリーは急いでマーマイトの香るトーストの耳を咀嚼した。




「――それで、何かご用でしょうか?」


スネイプの背中を見送り遅れること10分、リリーは地下へと下りた。呼び出した張本人は事務机に向かっており、彼女を目線だけで呼び寄せる。


「ハグリッドと連絡がついた。近々戻る」


羽根ペンをスタンドに戻し、スネイプが机上で指を組む。じっくりと品定めをするような目がリリーを捉えた。

彼女もダンブルドアから情報を貰ってはいるが、守護霊を用いない分、密にとは言えない。スネイプからこうして聞かされることも度々あった。


「彼は無事なのですね?」

「あぁ。だが何かあったのは間違いない。君は彼に薬を作っていただろう。それをまた――」

「用意しておきます」


リリーは力強く頷いた。


「任せる。場所はそこを使え」


スネイプは隣の研究室を指したが、リリーは黙って首を横に振る。訝しげに眉を寄せる彼に少し間を置いて、リリーが答えた。


「ダンブルドア校長が素敵な部屋を用意してくださったのでそこを使わせていただきます」

「そうか。材料は足りているか?」

「いえ、ですがすぐに」


早速、と踵を返した背をスネイプが引き止めた。リリーは振り返り小首を傾げたがスネイプの歯切れがどうも悪い。


「足りないものは何だ?」

「グリンデローの角です」


だからか、とリリーは思った。

自分が湖へ身を投げたことは記憶に新しい。もう迷惑をかける気は更々ないが、『あなたを生かすまで私は死ぬつもりはない』などと本人には口が裂けても言えない。

『信じることにした』と言った彼の言葉はこの件には適応されないのだろうか。歯切れの悪さはこの辺りにあるのかもしれない。

ダンブルドア校長が私の面倒までもをスネイプ教授に背負わせているのかと思うと、じくじくと申し訳なさに心が悴んだ。


「角を拝借するだけです。問題ありません」

「こちらの依頼だ。グリンデローの角については我々が用意しておく」


決定事項だと言い切って、スネイプは追い払うように手を振った。そうなればリリーも出ていくしかない。納得はいかないが、湖へ入りたいのかと聞かれれば答えは「NO」だ。リリーは廊下の冷気に今朝の霜を思い出し、ぶるりと身を震わせた。






翌日、スネイプは湖の畔に立っていた。魔法薬学がなく闇の魔術に対する防衛術は授業中。そういう時間を選んだ。

太陽は雲の気まぐれに付き合って出たり入ったりを繰り返している。校庭に敷き詰められた霜は溶けかけ、素足にその滴を纏わせていた。

スネイプは短く息をはいて覚悟を決める。

『我々』と表現したところで結局その役目は私に回ってくる。利用価値の見出だされていないグリンデローの角が市場に出回っているはずがなく、自ら潜るしかない。

躊躇うくらいならば調合ごとあのままエバンズに押し付けてしまえば良かった。彼女はダンブルドアに新たな部屋まで貰い、何やら仕事以外にも動き回っている。そこに生への希薄さや危なっかしさは見られない。

私は彼女を信じることにした。彼女が再び湖へ飛び込もうとも、彼女は必ず戻ってくると。

しかし問題はそこではない。

私だ。

厳格なタブーのように、私は湖へ入る彼女を許容できない。彼女が死を選ぼうとしたことを知ったときのあの背をつんざく雷のような戦慄が、今も尚こびりついて離れなくなってしまっている。


スネイプは脱いだマントとローブを岸に捨て、鰓昆布を頬張った。モグ、モグ、と硬く弾力のあるそれの粘り気に顔をしかめ、やがて呑み込む。手足にむずむずと掻き毟りたくなる衝動が走り、耳の下をナイフで切りつけられたかのような痛みが襲う。身体の変化をやり過ごすと今度は呼吸が苦しくなり、スネイプはザブンと湖へ飛び込んだ。






リリーは中庭にいた。

授業中のスプラウトに代わって届いた堆肥を受け取って、包装にも関わらず洩れ出る臭いに顔を歪ませながら温室へと運搬する。

その途中、湖の畔に黒い塊を見た。黒猫にしては大きいその塊は、しかし犬でもなかった。風を孕み膨らんだ様子から服だと分かった。近くに誰かがいる様子もなく、落とし物ならあとで回収しておこうとリリーは一先ずそこを通りすぎる。

温室に運んだ堆肥のいくつかを、ハグリッドの小屋へも運んだ。正確にはカボチャ畑のそばにある木箱の中だ。臭いが洩れ出ていないことを確認して手を洗う。離れたパドックから生徒の笑い声が聞こえていた。

戻った湖の畔にはまだ黒い塊があった。

サボっている学生が近くに隠れてやしないかと探りながら近づく。しかし人気はなく、ポツリと黒い塊だけ。

いよいよ分からないとその塊を持ち上げると、ばさりと二つに分裂した。それはマントとローブだった。魚の跳ねる水音を聞きながら、二つの布をくるくると回す。寮のカラーやシンボルのない引きずりそうなほど大きいそれは、リリーが何度も追いかけたものだった。


「盗む気なら、まず持ち主が見ていないか確認するべきだろうな」


リリーは肩を跳ねさせた。まさに彼女の思い至った人物の声がしたからだ。しかし辺りを見回しても彼はいない。気味の悪さにリリーの眉間がぐっと寄ったとき、パチャンとまた湖で魚が跳ねた。


まさか――


リリーが目線を落とし足元の湖を見ると、そこに黒髪をたゆたわせ目から上だけを水面に出した男の姿があった。


「スネイプ教授!」


彼がここで何をしているのか。リリーは聞かずとも理解した。グリンデローの角を用意すると言った彼の言葉を、てっきり購入の伝があるのだと彼女は受け取っていた。しかし何のことはない、彼が代わりに潜るということだったのだ。

リリーはマントとローブを置き、慌てて手を差し出す。湖から引き上げるつもりのそれには、彼の手の代わりに布袋が握らされた。


「それで足りるか?」


いつもの細長い指に水掻きのある様が興味深く、つい目で追ってしまっていた。リリーはハッと手元に意識を戻し袋を漁る。


「はい。ありがとうございます」

「なら行け。私は……あと10分出られない」


水を弾く腕時計に目をやりスネイプが言った。疎ましげに撫でる首元にはまだぱっくりと割れたままの鰓がある。リリーは迷いを見せたものの、ここにいても意味がないと悟り、再度礼を言ってから立ち去った。




スネイプは湖を出て真っ直ぐ地下へと戻った。服も髪も乾かしてはいるがどうも冷えが残り、ベタベタと湖水がまとわりついているような不快さがある。

私室の扉を開け、スネイプは固まった。

消して出たはずの暖炉はごうごうと部屋全体を暖めきっており、何やら色々混ざった匂いも鼻を騒がせる。辿った先のテーブルにはスープやホットワイン、ホットミルクに紅茶、趣向や組み合わせを無視したとにかく身体が温まりそうなものが並べられていた。


「お帰りなさいませ、セブルス・スネイプ!」


ひょこりと顔を覗かせたのは緑の目玉をもつ自由な屋敷しもべ妖精。彼の登場はこの奇妙なサプライズを作り出した黒幕が誰であるかを物語っていた。スネイプはふっと笑みを溢し、紅茶に口をつけてからシャワーへと向かった。







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