翌日アンブリッジの元に小包が届いたのを、リリーは確と見た。
何とか時間を作って三本並んでいたうちの一本の黒い羽根ペンをくすね、双子呪文で代わりを戻す。見た目はそっくりだが偽物に罰則用としての機能はない。アンブリッジならば不良品だと思ってくれるだろう。
ポッターは今日の罰則を避けられない。
羽根ペンすべてを偽物にしても良いが、腹を立てたアンブリッジが罰則内容を変えると私が後手に回るしかなくなってしまう。だからこそ、手を出す部分は慎重に選ばなければならない。
夕食を手早く済ませ、自室の階下へと下りる。そこは私だけの知る隠し部屋。地下牢のような石造りが剥き出しの冷たい空間は、ここ1ヶ月ほどで様変わりしていた。
と言っても陰気臭さは変わらない。醸し出す雰囲気はそのままに、ごちゃごちゃと物が増えた。一人掛のソファや《本》の入った金庫は隅に追いやられ、棚が増えた。中央に鎮座するのは両手いっぱいに広げても足りない大きなテーブル。その上には大鍋や天秤などの実験器具、材料瓶が出されたままになっており、出番を今か今かと待ち望んでいる。
リリーは羊皮紙に黒い羽根ペンを立て、ぐるりと円を描いた。
「痛っ!」
テーブルに乗せていた左手に刺すような痛みが走り、甲に羊皮紙と同じ円が浮かび上がった。
こんな痛みを生徒に与え続けるなんて、最低
すぐさまマートラップ触手液に手を浸す。ねっとりとした黄色の液体が甲の傷口に染み、じんわりと癒しをもたらした。綺麗に元通りになった左手を引き上げると、リリーは羽根ペンを自分のそれへと持ち換える。
さぁ、私の役目はここからだ
罰則用羽根ペンが何も解決しないうちに地下へと走る。今のところ得られたのは繰り返した実験により刻み込まれたままの円形のみ。脱狼薬調合の約束を忘れていたわけではないが、つい時間ギリギリまで粘ってしまった。
リーマスへ届ける分は既に騎士団員に一鍋分渡してある。今から行うのはすべて私のためだけに割かれる時間。本当ならもっとスネイプ教授の仕事をサポートしなければならないのに、私は自己満足に労力を使っている。遅刻は許されない。
彼の私室を前に胸に手を当て息を調える。盛りの過ぎた秋夜の心地いい空気が肺を満たした。全身で心音を感じながら身体をクールダウンさせてノックを二つ。開いたのは研究室側の扉だった。
「エバンズです。遅くなりました」
どことなく頼りない明るさの中で、中央のテーブルに灯った炎に照らし出されるスネイプがいた。チロチロと揺れる熱に当てられ、いつもより血色が良く見える。大鍋をかき混ぜるスネイプが目線だけを時計に向けた。
「問題ない。時間通りだ」
授業用の薬を煎じるスネイプの横でリリーが脱狼薬の準備に取りかかる。終える頃にはスネイプも大鍋の中身を瓶に移し不要な材料瓶を追い払っていた。
「よろしくお願いします」
「あぁ。ではまず――」
スネイプが不自然に言葉を止めた。材料瓶片手にナイフへと手を伸ばしていたリリーは何か不手際があったのかと手順書を覗き込む。
「それはどうした?」
どこを指すでもなく『それ』と言われスネイプを窺うと、彼の関心は一点に注がれていた。辿った先にはリリーの左手。邪魔にならないようにと捲った袖口は甲を晒け出し、奇妙な円形のみみず腫れを露出させていた。
「あー、引っ掻けてしまったんです」
スネイプの視線から逃れようとリリーが左腕を引く。が、それはスネイプによって阻まれてしまった。強引に掴まれたわけではない。掬うように手のひらが触れ合っただけ。ただそれだけでリリーは全身を絡め取られたように自由を奪われてしまった。
「どうすればこのような円形になるのか、お聞かせ願えますかな」
かさついたスネイプの指がぷくりと膨らんだ傷口をなぞる。触れるか触れないかの曖昧な刺激にリリーの背を不快さとは程遠い甘美な痺れが走った。リリーが咄嗟に左手を引くと、それは引き止められることなく手中に収まる。
「お恥ずかしいドジの話なので勘弁してください」
リリーの心臓が突沸したようにバクバクと大きく揺れる。裏返ろうとする声を叱咤し苦笑いを湛えた。眉尻で参った弱ったと降伏を示して見せて、この場を切り抜けようと取り繕う。
傷はもう痛くない
それよりも辿った指の熱が消えなくて困る
手のひらを支えたかさついた長い指の柔らかさが残って困る
閉じ込めたはずの思いが口から飛び出してしまいそうで困る
ただ少し、手が触れただけなのに。触れられるなんてこと何度もあったはずなのに。それ以上のことだって。引っ込めた左手を大切に大切に抱え、右手で包み込んでぎゅっと胸に寄せる私のなんと甘酸っぱいことか。
スッと手が差し出された。
ダンスにでも誘うようなスネイプのそれは、もちろんそんな意図はない。かといってどんな意図を持つのか。リリーは首を傾げることでその真意を問う。
「手を」
スネイプが答えた。指先を数度曲げ催促すると、視線を泳がせたリリーの左手がおずおずと差し出される。指を絡め腰を引き寄せればすぐにでもステップが踏み出せそうだった。
「気を使われたくなければ、傷は作るな」
言外に自身を大切に扱うようにと滲ませ、スネイプは呼び寄せたハナハッカの香る軟膏をリリーの痛々しい甲へと塗り込んでいく。既に痛みはないのだろうとスネイプは判断していたが、先程手を引っ込められた手前、彼女を窺いながらの努めて慎重な手付きだった。
リリーは痛みに顔をしかめるでも、手を取られる不快さに歪めるでも、くすぐったさに身を捩るでもなく、神妙だった。ただ顔は伏せられスネイプにはその半分も見せていない。
私は右利きだ。だからこそ左手に傷を作った。私は大人だ。軟膏くらい自分で塗れる。利き手が空いているのだから尚更だ。
なのに何故かスネイプ教授はわざわざ手を取り薬を塗ってくれていて、何故か自分はされるがままになっている。とても奇妙な光景だった。
嫌なわけではない
寧ろ好ましい
ただリリーは羞恥よりも困惑が上回ってどうしても手放しで喜べなかった。スネイプの言葉に意識を向ける余裕もない。今にも口から飛び出んとしていた思いは甘酸っぱさと共に胃に下り凭れている。
「どうして――」
1分もなかった手の温もりが離れ、リリーの疑問が口を突いた。根拠のない不安に顔を上げきることができず上目で覗く。スネイプは指に残った軟膏を拭っていた。上がった片眉は先を促す合図だ。
「どうしてわざわざ塗ってくださったんですか?」
リリーはそう言えば、と思い出した。以前にも傷を作り、スネイプにハナハッカエキスを貰ったことがある。傷が残らないようにと心配してくれた。嫌われ役の板についた目の前の男はそんな優しさをもつ人物である。それは良く良く知っている。
その時は頬だった。左手よりも塗りにくい。でもあの時は小瓶を渡されただけだった――。
リリーは逸れていた思考と視線を止まったままの空間へと戻す。
そう、止まったまま。
スネイプはポカリと控えめに唇を開け、平素よりも見開いた目をして固まっていた。無音を貫く彼の表情を見たまま表現するならば、「しまった」とか「今気づいた」だろうか。
「教授?」
リリーが再び声をかけてようやく動き出した時間は、とてもぎこちのないものだった。鏡を見ているような困惑顔を二つ並べてテーブルへと向かう。
それが調合の手付きに出る二人ではなかったが、とうとうスネイプが彼女の問いに答えることはなく、いつもより言葉少なにマンツーマンの指導はお開きとなった。
「軟膏、ありがとうございました」
「……あぁ」
スネイプが黙り込んでしまった影響で言い損ねた礼をして、リリーがホッと胸を撫で下ろした。そしてスッキリとした朗らかな笑顔で恒例となった律儀な挨拶を残す。
「おやすみなさい、スネイプ教授」
「あぁ……おやすみ」
パタンと閉まる扉を見届けて、スネイプはソファへと落ち着いた。調合へ向けていた集中力が一気に散らばりダラリと抜けた力をすべてソファへと流し込む。脱狼薬で染めた思考は彼女の言葉で軟膏へと掏り替わっていた。
自分は何故彼女の手を取り薬を塗り込んだのか。彼女が不審がったのも無理はない。幼子でもあるまいし。奇行そのものではないか。
目を閉じ手で顔を覆うと、遠い幽かな記憶の中で幼子の自分を思い出した。
就学前のまだ魔法使いとしての片鱗も見せていなかった頃、母がまだ泣かずに暮らせていたあの頃、私は小さな切り傷に薬を塗ってもらった記憶がある。
私を包む母の手は温かく、母の心そのものが伝わるようで、私はとても満たされた気持ちになった。慈しみと心配と愛情と温かなすべてが、手から手へと流れ込んできた。
そうか、母が私に与えた何かそういうものを、
私も彼女へ与えたかったのか
ストンと心に落ちた。
だがそれはものの見事に失敗している。ああいった行為はある一定の情や信頼関係を相互に抱いていてこそ成り立つもののはず。突発的な奇行で生じるものでは決してない。
スネイプはただただ深くため息をついた。
彼女が一体何をしているのか。また青白い顔をするのではないか。『頑張ってみる』と生への前向きさを見せた彼女を信じて良いのか。脱狼薬という負担を増やした自分の判断は間違っていたのではないか。
思案に余り、立ち往生したままのものが多々ある。
加えて闇の帝王が姿を取り戻した今、力や権力をも取り戻すのは時間の問題だ。ボロボロと、命がまるでザルに乗せた砂のように土へと還っていく。救われるのは、ほんの一握りだけ。
力に酔い愚かだった過去の私は煽りもしなかったが止めもせず無関心を貫いて、他者がどうなろうとピクリとも心が動かなかった。
だが今は、もう二度と目の前で溢れる様を見たくない
身勝手で偽善的だ。かつて自分が奪ったものを棚に上げて視界から遠ざけている。それでも、この気持ちに偽りはないのだと、何にだって誓ってやれる。
夏期休暇に入ってすぐの頃。動揺した青白い顔のハグリッドに抱えられ、肩を震わせていた彼女を見て血の気が引いた。ダンブルドアへの報告も投げ出しその足で小屋へと向かい、ハグリッドの話を聞いてゾッとした。
度々行っていた採集で大イカが彼女を湖底へ率いることや、グリンデローへの彼女の遠慮心を知っていた。それだけに私はハグリッドよりもはっきりと、彼女が死に近い場所にいたと分かった。
止める権利はなかっただろう。私にも死を願った時がある。自分は願っただけで実行にまでは移さなかった。移す勇気もなかった。だがそれを彼女は軽々と越えていったのだ。
ふつふつと沸いた怒りがどこで生じたものか分からない。衝動的に彼女を引き連れ、無理矢理抱いた。他にやり様はいくらでもあったはずだ。それでもあの時、あれが私の中で最も生を与えられる行為だった。
嘘偽りなく本心からエバンズを失いたくないと思う
義務感や庇護欲とは関わりなく救いたいと思う
彼女に対して抱くものだとか、自分の中での彼女の位置付けだとかは別にして、今はそれだけで十分なのではないだろうか。
リリーの息子を筆頭に生徒がいて、騎士団員がいて、そういった溢れるべきでないものの中に彼女がいる。
それだけで
沈思に耽る際閉じた瞼がとんと重くなっていた。その事実に気づくと意識が急速に微睡み始め、まだソファから離れられていないというのに指一本動かすことが出来なくなる。
『おやすみなさい、スネイプ教授』
やはり彼女の言葉は眠り薬のようだ。夏の間、気を張り続け浅い休息を繰り返していた身を絹のように包み込む。未だ気を抜くことは許されないというのに、あとひとつ大きく息を吐けばプツリと途切れてしまうだろう。
実際に救われているのはどちらだ
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