私にとっては変わらない夏休みだった。「忠誠の術」で家を隠したことを除くならだが。ファングと森を散歩して薬草を摘んだり、魔法薬の研究に勤しんだり、シリウスがくれた「実践的防衛術と闇の魔術に対するその使用」を読んで練習したりもした。
《本》の予言に喧嘩を売ると決めてから、初めて形を成したものがある。守護霊の呪文だ。神々しさすら感じる銀色の光は私の目の前でセストラルへと姿を変えた。
確かめるまでもなくそれが異端なものであると分かる。《本》が現れた時点で、或いは母が亡くなったその日から、私はそうだった。セストラルが往々にして忌避されるのは濡れ衣からだが、私は本当に死を運ぶ。
新学期を2日後に控え、職員室では有志で議論が交わされていた。有志で、というのは議論に飽き飽きとしている教職員が投げやりになってきているからである。
「魔法省がホグワーツに干渉するなど許されるべきではありません!」
何度言ったかしれない台詞を鼻息荒く繰り返すのは副校長も兼ねるミネルバ・マクゴナガルだ。彼女はこれ以上の侮辱はないといった様子で、お気に入りの三角帽子を机に叩きつけて抗議と憤慨を最大限に訴える。
「わしとて思うところはある、ミネルバ。しかしこれはもう決定したことじゃ」
一方彼女の怒りを一身に受け止めているのはホグワーツの校長アルバス・ダンブルドア。彼は眼鏡の奥の澄んだブルーを彼女に見せつけることで沈静化を試みているが、どうにも上手くいっていない。右手は何度も自慢の長い白髭へ伸び、彼女の肩への代わりと言わんばかりに撫で付けている。
「闇の魔術に対する防衛術ならセブルスがいます!彼はもう何年も希望しているではありませんか!そろそろ就かせてやっては如何です!」
呼ばれた黒衣の男がピクリと眉を動かした。期待に震えた眉を理性で押し止めているような顔で目の前のやり取りを傍観している。
「今はまだその時ではない。それに次は魔法薬学教授探しをすることになる」
「魔法薬学ならばリリーにも務まるはずです!」
突然話に放り込まれたリリーは眉どころか肩を跳ねさせ上司である二人をキョロキョロと見比べた。マクゴナガルの指は真っ直ぐ渦中を指しているが彼女もダンブルドアもお互いしか見ていない。リリーは苦笑いを浮かべ目玉だけを隣のスネイプへ向けると、彼もまたリリーを見ていた。
「この3年間彼女を一番贔屓にしていたのはセブルスです!よほど優秀でない限り他人をそばに置くような男ではないとご存知でしょう!」
『贔屓』と聞いてリリーは首を傾げたい衝動に駆られた。自分は押し掛けていた記憶しかない。彼に呼ばれることもあったが多くはリリーが一方的に日課のようにして押し掛けただけ。
だが間接的に自分が優秀であると言われ、自己評価はともかく、リリーは喜びが頬から滲み出すのを抑えることが出来なかった。
「セブルスもリリーならば魔法薬学に推薦しますね?」
リリーは奥歯を噛み締め、努めて澄ました顔で今度は頭ごとスネイプへ向けた。今や議論に参加していない者も含めすべての目が彼に向いている。議論の行方よりも偏屈な彼がリリーをどう評価するかに興味があった。
もちろんリリーもそのうちの一人である。任せてもらえている以上、仕事ぶりに一定の評価を得られている自信はあった。先程マクゴナガルも言った通り、認めない人材を自分の領域に入れるなどしない男だ。
何か言われたところで仕事ぶりが変わるわけではない(現状手は抜いていないので良くしようがない)。だがこれは士気に関わる。
「校長は決まったこととおっしゃったはずでは?思うに……この議論は時間の浪費と言えますな」
「その通り。ミネルバ、我々は至急生徒たちへ新学期を報せる手紙を送らねばならん。話は終了とする」
ダンブルドアがパンッと手を打つと、途端に時間が流れ始めた。集まっていた人たちがばらばらと散らばり解散となる。
まただ。2年ほど前にもスネイプ教授からの評価を聞こうとして失敗したことがある。彼はまた、サラリと躱してみせた。
期待する言葉の片鱗も聞けずガックリと項垂れてリリーが一人不貞腐れていると、後頭部をペチリと叩かれた。こんなことをする人物の心当たりは一人しかいない。大して痛くもない頭を擦りながらリリーが顔を上げる。
「いつも変わらぬご贔屓をありがとうございます、スネイプ教授」
「精々優秀な部分を見せていただきたいものですな」
顎先だけでリリーに「来い」と指示をして、スネイプがローブを翻した。慌ててリリーが後を追う。
「優秀な部分、ですか……頑張ります」
「君はミネルバの話を聞いていなかったのか?普段以上は期待していない」
リリーは数分前のマクゴナガルを思い返して自然と足が止まった。構わず歩き去っていくスネイプの後ろ姿を見つめ、詰まる息と変化球で胸に投げ込まれた温もりに瞳を潤ませる。
分かりにくい彼は『普段通りで良い』と言っていて、マクゴナガル教授の『優秀でない限り他人をそはに置かない』と言った言葉を否定もせず、今こうして私を呼び寄せてくれた。
日頃褒めるだとか感謝だとかを口にしない彼がひと度示してくれるその思いは、トロールの振りかぶった棍棒より大きく私にズドンと響く。
本人に直接確かめたところではぐらかされてしまうに違いない。黙って彼の背を追った。舞い上がる心で滑り込んだ彼の私室。振り向いた漆黒に感情のまま頬を緩めれば、怪訝に潜めた眉で咳払いをされた。
「遊びに呼んだのではない」
ため息混じりにソファを指され、リリーは瞬時に頬を引き締める。摩れた皮にギシリと音を立てれば、目の前に湯気のたつティーカップが差し出された。遊びではない、と言ったわりにリラックスタイムのような空間で、リリーは当惑しスネイプとカップを交互に見つめる。
「仕事でもない」と付け足して、彼女を一瞥したスネイプが紅茶を嗜み始めた。彼女も倣ってソーサーの白百合と久々の再会を果たす。最後にここで紅茶を飲んでからもう2ヶ月が経とうとしていた。
「脱狼薬の調合を再開する」
スネイプが紅茶に温められ熱の籠った息と対照的に不本意極まりない声色で告げる。リリーは何度か瞬きをして、話を呑み込んでから頷きを返した。
「いつからですか?」
「月初めだ」
「それはまた急ですね」
「私のせいではない。君に騎士団の情報を秘匿する必要はないと指示されたから言うが、もちろん飲むのはルーピンだ。騎士団は満月前の人狼の手を借りたいほど忙しい」
指示したのは他でもないダンブルドア校長だろう。スネイプ教授は二重スパイをこなしながら複雑な脱狼薬の調合までもをこなしていたなんて。多忙すぎる彼の毎日に胸が痛む。そしてその一端を肩代わりできることに少なからず喜びを感じた。
ポッターの知る範囲での騎士団の情報は予め《本》で知っている。加えて重要な情報はダンブルドア校長からも直接伺っているが、こうしてスネイプ教授からも話を聞くと自分も騎士団の一員なのではないかと錯覚してしまいそうだった。
「では在庫を確認し次第、買い出しへ行きます」
「あぁ。だが誰か連れて行け。これもダンブルドアのお考えだ」
「……では、ドビーを」
あぁ、ついにホグズミードへ行くにも迷惑をかけてしまう日が来てしまった
一瞬過った大きな友は任務でここを離れたまま。彼はどこまで進んだだろうか。煎じた専用の傷薬は持っていってくれていた。ならば少なくとも軽微な怪我は心配ない。
「……良いだろう。このことが魔法省から来る人間に見つかることのないよう注意しておけ。面倒だ」
間を空けたスネイプの返答にリリーは意識を目の前の彼へと戻した。
「では早速取り掛かります」
「待て。本題はここからだ」
浮かしかけた身体を強ばらせ、リリーがソファへと座り直した。何を言われるのかと喉を鳴らし、薄く開いたままの唇で息をする。
「私の任務を知っているな?」
リリーはコクリと首を縦に動かした。スネイプが考えている以上に彼女は彼の任務を《知っている》。そのぎこちない振る舞いにスネイプが目を細めた。ゆっくりとした彼の瞬きひとつまで見逃さぬよう、リリーは彼を脳に焼き付けていく。
「そう気を張るな。ただの保険だ」
「保険、ですか?」
「私がいつまでも脱狼薬を煎じ続けられるとは限らない」
「そんなっ!」
テーブルに手を付き身を乗り出したリリーをスネイプが片手で制した。グッと奥歯を噛み締め叫びそうになるのを耐えながら、再び座り直す。スネイプが続けた。
「私が行っているのはそういうものだ。だが馬鹿にするな。私が下手を打つ可能性を危惧しているわけではない。脱狼薬を煎じるタイミングで何らかの召集があれば、私は闇の帝王の元へ馳せ参じることを最優先にする」
「はい」
「だから、君に脱狼薬の調合を叩き込む。……潰れている暇はないぞ、覚悟しておけ」
一つ一つ選びながら付け足された言葉は私を気遣ってのものだとすぐに分かった。ハグリッドもスネイプ教授も、彼らの手に届く範囲で私を緩く生に繋ぎ止めようとしてくれる。もうあんな馬鹿はしないと言っても信じては貰えないだろう。私は態度で示すしかない。
「はい!」
心配をかけてしまっていることに恥じ入りながらも、心配してくれているという喜びがそれを上回ってしまい、だらしなく上がる口角を隠して顔を伏せた。
「遊びではない」と再度忠告するスネイプ教授を覗き見れば、いつもは下がったままの口角が満足げに歪められていた。そしてまた私はぽかぽかとした日だまりに緩んでしまう頬を隠さなければならなくなるのだ。
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