肩で息をしながらようやく解放された身体をぐったりとソファに預けた。触れ合う肌が離れそうになって、グイとリリーが引き寄せる。掴まれたスネイプの左腕が火照る色情の場で曝け出されたのは初めてだった。
「触るな」
視線に気付いたスネイプがぎゅっと眉間にシワを寄せる。リリーは微笑みだけを返して、指を絡め、そっと印の裏側へキスを落とした。
「何のつもりだ」
熱い
彼女の触れた場所が焼けるように熱い
けれど煮えたぎる大鍋に突っ込んだような復活の激痛に比べれば、なんと心地よく眩いばかりの安らぎを得られることか。スネイプは魅了され毒され口付けられた一点から腐り落ちてしまいたい衝動にすんでのところで抗った。
スネイプはグッと左腕に力を込める。力こぶを作るようなそれに交互に並んだ指を振り解く意思はない。寧ろ1ミリの隙間も許しはしないようにお互いの手のひらが擦り合わされた。
「それは私が聞くべきでは?」
「この状況に」とリリーが肩を竦めれば、ばつが悪いとスネイプがそっぽを向く。それはあまりにも短絡的な衝動の結果で、スネイプの中にも満足のいく答えは存在しない。
どちらともなく指を解き、お互いのローブを引き寄せて、二人は今度こそ身体を離した。
リリーがチラリとスネイプを見る。むっすりと何を考えているのか分からない表情でローブから杖を出すと、彼はリリーと自身へ向けて振った。汗ばんで情事を感じさせるすべてがさっぱりと清められる。
笑って、生きててほしい
この人を、死なせたくない
絡み合う熱の中で彼を感じる度に、リリーの中で初めて《本》に対する反抗的な気持ちが芽生えていた。
失ったものはもう戻らない。
ならば私が彼らにできることは、もう二度と同じ過ちを繰り返さないと誓うこと。クラウチ・シニアとディゴリーへしなかったことに、これからは目を逸らさず立ち向かう。
憑き物が落ちたように凪いだ心に灯った、蝋燭よりも危うい泡沫の火。リリーは消えてしまわないようにそれをそっと秘めたままの心で囲った。
「スネイプ教授。私、頑張ってみようと思います」
《本》の予言の遂行と反抗。
叶えたい未来へ向かいながら、望まぬ終わりを掠めとる。
私一人にどこまで出来るか分からない。それでも足掻く価値はあると思った。分不相応なりにやれることはやってやろう。
私は《本》に喧嘩を売る
「そうか」
すっかり身支度を終えたスネイプが無愛想に返す。今のリリーに生への稀薄さや自棄はない。決然と張った声にスネイプは焦燥感のようなジクジクと痛む胸のつっかえが和らいだのを感じた。
気怠さを感じさせない機敏で部屋を歩き出したスネイプにまだローブをかけただけの自分が恥ずかしくなって、リリーは慌てて服をかき集める。共に湖へと沈んだはずの服はからりと乾いていた。
ふわりと紅茶の豊かな香りが鼻をくすぐる。
「座っていろ」
スネイプ教授が何を考えているのかさっぱり分からない。抱いたのも、こうしてわざわざ魔法を使わず紅茶を淹れてくれるのも、まだ手に残る指の感触も。けれど疑問を口にして何かが変わってしまったらと思うと、固く引き結ぶことを選ぶ他なかった。
勝手に都合よく受け取ろうとする心に、ソーサーの白百合が「勘違いしないで」と釘を刺す。
翌日になって、ハグリッドにきちんとお礼を言って心配かけたことを謝らなければと小屋を叩いた。しかしそこに彼の姿はない。
「ハグリッドはわしの命で出掛けてしもうた」
用事のついでか私をつけてきたのか、ダンブルドア校長が白髭を風に靡かせ後ろに立っていた。遥か上に広がる濃く澄んだ夏空とは対照的なくすんだ冬空色のローブに身を包み、相変わらず掴み所のない笑みを浮かべている。
「そうでしたか。その前に話しておきたかったのですが、仕方ないですね」
眉尻を下げたリリーが形式的な笑みを浮かべ、三歩ダンブルドアへと近付いた。
「何があったのかは聞いておる。ハグリッドが心配しておったよ」
「…………」
「彼からの伝言じゃ。代わりの森番とファングの世話を頼む、とな。それときみの杖を預かっておいた」
「ありがとうございます」
一方的でも頼まれれば引き受ける。「お人好し」なリリーを生に繋ぎ止めておくためのハグリッドなりの気遣いだった。彼の置いていった温もりにほっこりと心からの笑みが溢れる。
しかしこれ以上会話を続ける気にはなれず、杖を受けとるとリリーはダンブルドアの横を通り抜けた。
「きみの苦しみはわしにも責任がある。しかし軽くしてやることは出来ん」
「……端から期待していません」
リリーは振り返ることもせず、ふっと鼻で嗤った。嘲笑を示すような冷たい対応に、ダンブルドアの瞳が揺れる。「その代わり」と彼女が続けた。
「私は私の好きなようにさせていただきます」
「それできみの心が軽くなるのなら」
ダンブルドアは深く聞こうとしなかった。聞く権利などないと分かっていた。闇に焦がれぬ彼女なら、闇に与した過去を悔いる男を思う彼女なら、自分の見る未来とそう違わぬものを見ているに違いないと分かっていた。
「セブルスに怒られてしもうたよ」
「スネイプ教授に?」
歩き出す彼女を引き止めようと出した名前は効果が高かった。以外な人物の登場に怪訝に顔をしかめたリリーが振り返る。その様子にダンブルドアの目に慈愛が籠った。
「きみに何を背負わせているのかと問い詰められてしもうた。無論、言えることではない。わしからはな」
「……抱えるのは、私だけで良い」
これ以上、誰の荷も増やせない。ボソリと呟いたリリーの決意は風に拐われ、ダンブルドアに届くことはなかった。
「またご迷惑をおかけしたようで、重ね重ね申し訳ございません」
「セブルスはセブルスなりにきみを気にかけておるよ」
リリーは口角をきゅっと上げ、これで終わりだと頭を下げた。垂れ下がった髪を耳にかけ、踵を返す。
決意に満ちた危うげなその後ろ姿に、ダンブルドアはかつて愛する者を失い失意に暮れた男の姿を重ねていた。
ホグワーツから教職員の姿もなくなった頃、リリーはダンブルドアを引き連れ帰省していた。ドビーも二羽のワシミミズクもいない店は物悲しく、祖父を亡くしたばかりの頃に戻ったようだった。
「本当にわしで良いのじゃな?」
「もちろんです。あなた以上の適任者はいません」
リリーがにこりと微笑むと、ダンブルドアが頷きニワトコの杖を構える。彼を「秘密の守人」として「忠誠の術」を執り行うためにここへ来た。古の守りの術はいくら優れた魔法使いと言えど一人では行えないもので、リリーとルーピンがサポートとしてここへ来ていた。
何故リリーの家を守る必要があるのか。ルーピンは何一つ知らされていなかったが説明を欲したりはしない。今も黙って二人を見つめ、杖を構えるのみだった。
リリーの家を守ることにはリリー自身も疑問だった。彼女はホグワーツで暮らし休暇も碌に帰らない。ダンブルドアはリリーに『念のためシェルターを確保しておくべきなのじゃ』とだけ言った。
彼には何か懸念する未来が見えているのか、はたまた本当に念のためなのか、彼の真意を汲み取れる者など存在しないだろう。
それはきっと、とても孤独だ。
朗々と唱えられるダンブルドアの呪文に従って、リリーとルーピンが復唱を行う。守りが完成する頃、リリーは言い知れぬ疲労感に襲われ、大きなあくびをひとつ落とした。
「急いでホグワーツへ戻る必要もなかろう」
「あ、申し訳ありません……私のためなのに」
「なに、これは年寄りのお節介じゃよ」
「ダンブルドア校長もご自由にいらしてください」
パチンと茶目っ気たっぷりなウインクを残し偉大な魔法使いは帰っていった。ダンブルドアの言葉もありリリーは一泊する気でいる。ルーピンはどうするつもりなのかと彼を窺うと、彼は渋面を作っていた。
「リーマス?何かあった?」
「リリーは騎士団には入らないのかい?」
力強い目に見つめられ、リリーは笑顔を作ることも忘れその目に映る自分を見つめ返す。
「ダンブルドア校長は何か言ってた?」
「まだ何も。でもリリーに声がかかってない方がおかしいんだ。私もシリウスも君にはとても感謝している」
「ありがとう。でも私は騎士団に入らない。校長もお望みではないはずだよ」
ふいとリリーから視線を断ち切った。
「一体どうして……いや、任務は命懸けだから、無理強いは出来ない」
リーマスは私を臆病者だと思っただろうか。でも入るわけにはいかない。不安定な綱渡りの彼らの任務を取り返しのつかないものへと変えてしまう。
苦しさを押し込めるように歪んだリリーの横顔を、ルーピンもまた苦痛に眉を寄せ見つめていた。
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