92 後悔


今日から夏休みだ。しかし事情を知る者にとっては休んでいる暇などない。一分一秒も惜しいだろう。水面下では戦いの火蓋が既に落とされているのだから。

騎士団発足、仲間集め、情報収集、二重スパイ。各々が慌ただしく動き始める中、リリーは一人ぼんやりと校庭へ向かった。学生時代に一人で過ごした湖の畔へ。

陽を燦々と浴びてしゃんと伸びた夏草を容赦なく踏みつける。花を散らせ茎を折り、それでもこの雑草たちは明日も変わらずそこで誇らしげに背を伸ばす。


私はどう動くべきだったんだろう


バーテミウス・クラウチ・シニアも、セドリック・ディゴリーも、知っていたのに私が見捨てた。考えることを放棄して目を伏せた。

彼らにはもう明日が来ない。

すべては《本》の予言のため。

寸分違わぬ未来のため。


本当に?


シリウスに杖を渡したり、リーマスに肩入れしたり、ハグリッドに薬まで創った。私の行動はとても寸分違わぬ未来を望む者のそれではなかったはずだ。なのに、目の前で消えていく命からは目を逸らしていた。


自分の身の振り方を見つめ直す時が来た


騎士団へ、という思いもあった。必要としてもらえるならどこへだって飛んでいこう。でも、それをしてはいけない。私が入ることは、騎士団にとってマイナスでしかないのだ。クィディッチ・ワールドカップの時のように、悪影響を引き起こす。


予言ですらない、

私のせいで、


誰かが死ぬ


秘密の部屋が開いた年。犠牲の悪化に怯え、休暇をとってホグワーツを離れても、意味はなかった。ダンブルドア校長に引き止められ、世界の新たな歴史作りに関われると不謹慎にも心踊った。

愚かな、なんと醜い。

正式に辞めれば意味はあるだろうか?


或いは、いなくなれば――


気がつけば、湖の縁ギリギリを歩いていた。少し前傾になっただけで湖面が私を写し出す。生きる活力も執念も失った憐れな女の顔を。


いっそのこと本当にそうしてしまおうか?


湖の中の女がニコリと微笑んだ。

それで良い。それが正解だったんだ。何故こんな簡単なことに最初から気付かなかったんだろう。考える必要も苦悩もない世界がそこにある。悪化もなくなれば一石二鳥じゃないか。

私はローブから取り出した杖を足元へ捨てた。迷いが足を引っ張らないように。


バシャンッ


鼻に入った水がツンと痛む。ローブは瞬く間に水を吸い、あっという間に背まで沈みきった。ゆっくり、ゆっくり、瞼の裏の世界で私はベッドに沈む夢を見る。

私は幸福に包まれていた。

これで良い。これが良い。

もうなにも考えなくて済む。それはとっても幸福なことだ。


幸福だ


何度か優しく湖底へ導いてくれた大イカが、私に触手を絡め出す。そしてグリンデローの角を採取したときのようにズブズブと遠慮なく引き寄せ始めた。しかし私は何の準備もしていない。泡頭呪文も変身術も鰓昆布も、私を繋ぎ止めるものは何もない。

ゴボリと一際大きい空気が洩れ出した。


「――っ!」


突然背後から波を感じて、リリーはガシリと足首を掴まれる。大きな、足首を簡単に指を回せてしまえる手。大イカに対抗するそれは、ぐんぐんとリリーを水面へと引き連れていく。


嫌だ!

嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ!!!


逃れたいのか沈みたいのかはたまた浮かびたいのか。リリーは手足をバタつかせ、ただもがき、闇雲に暴れた。

沈む優雅さに比べ、浮上は醜く忙しない。


湖面から顔を出した途端、酸素を渇望して目一杯肺を膨らませる。意思に反して身体が生を貪り始めた。べったりと纏わりつくローブの気持ち悪さに吐き気がする。ペチャッグシャッと鈍い音がして、ズリズリと背が柔らかな夏草を擦った。

掴まれたままの足首も、引きずられた背中も、どこもかしこも痛い。


痛い


再び、ツンと鼻の奥が痺れた。

吐き出した息は震え、まるで初めて呼吸した赤子のようにワンワンと泣き声をあげる。堰を切った感情の濁流は自分でも判別のつかないほど混ざり合って、一纏めに飛び出した。止めどなく流れる涙をジリジリと照りつける太陽に晒す。

ドシドシと質量のある足音の持ち主に話しかけられても、すっぽりと腕に抱えられても、リリーはまだ泣いていた。力加減の苦手な彼の壊れ物を扱うような腕の優しさに泣いた。獣臭さの染み付いた服に顔を押し当て、涙か鼻水か涎か分からないものすべてを擦り付け泣いた。


キィ、という音がして間もなく、リリーは再び地面に降り立った。足裏に触れる固い感触がひどく懐かしく感じる。

ゆっくりと沈めるように肩を押されてされるがままになると、そこに椅子があった。家捜しするようなガサゴソ音がして、タオルが何枚も身体に掛かる。おまけに顔にまでタオルを押し付けられ、ようやく泣き声を抑えられた。


「ハグリッド、ありがと」


リリーはやっとのことでそう喉から絞り出した。

いなくなってしまいたかった。助けを求めてはいなかった。それでも今、大好きな友人に、リリーは感謝を述べた。

木々の囁きほどの小さな声だったが、ドスドスと小屋を歩き回る音が止む。困って考え込む唸り声は掛ける言葉を探しているようだった。


「今、紅茶淹れっから待っちょれよ」


時折何かが割れるような音をさせながら、ハグリッドが歩き回るのを感じる。肩を震わせ未だ止まらぬ涙をタオルに押し付けて、息を整えるため深呼吸を繰り返した。


バンッ


壊れるほど乱暴に扉を開ける音がした。弾かれたようにリリーが顔を上げると、真っ黒な塊がいる。歪む視界に突如現れたソレはまるで地獄からの使者のようだった。やっぱり自分はあのとき死んでいて、これは湖で見た夢の続きなのでは。


「何をしている」


耳に馴染む低い地を這うような声。あの世での登場人物はみんな大好きな人の姿をしているのだろうか。なんて気の利いたシステムなのだろう。折角だから優しい母に会いたい。ふわりと心が少し軽くなった。


「スネイプ先生!あーその、エバンズ先生が湖に落ちなすったもんで。あーそれで……気が動転しちまっとるから――」


モゴモゴと話す声を遠くに聞きながら、リリーは未だ止まらぬ涙をタオルに押し付けた。ヒクヒクと身体がしゃくり上げ、妙な呪いにかかったように何度も跳ねる。


「――来いっ!」


ギリッと右腕に痛みが走った。バサバサと身体に掛けられただけのタオルが床へと流れる。


痛い

痛い?

ならこれは、現実じゃないか……


天文台塔から突き落とされたような絶望感。再びどっと押し寄せる津波に耐えることもせず、ボロボロと目から溢れだす涙をタオルに染み込ませていく。


リリーは無理矢理引き立たされていた。絡まりそうになる足をなんとか耐え、大股で容赦なく闊歩する男に付き従う。背後にハグリッドの声を聞きながら、草を踏み、石畳をペタペタ鳴らし、冷たい階段を駆け下りた。

トロールが殴り付けたような大きい音で扉が開き、閉まった。放り投げるように腕を離され、グラリと揺れる身体を硬いものに打ち付ける。


痛い

何もかもが痛い


リリーは背に当たるソファを伝い、床へとへたり込んだ。冷えた石畳が濡れた服を伝い急速に身体を冷やしていく。


「何をしていた」

「…………」

「死ぬ気か、馬鹿者!」


そうだ。私はそうするつもりだった。今頃幸福だけの世界で、何も考えず誰にも影響をもたらさず無に帰す予定だった。

けれど用意した返答は喉に詰まり口から出てこない。

ヒク、ヒク、とリリーのしゃくり上げる声だけが部屋に響く。膝を抱えひしと掴んで離さないタオルに顔を埋め肩を震わせていた。


「こちらを見ろ」


ゆるゆるとリリーが首先だけで拒否を示す。


「私を見ろ!」


スネイプは無理矢理リリーからタオルを引き剥がした。タオルを追って伸ばされた手を絡めとり、空いた手で彼女の顎をグイと掴み上げる。湖水と涙でグシャグシャになったリリーの顔が絶望に歪み、喘ぐように口で息をした。

吸い込まれるように彼が口付ける。


リリーにはスネイプの行動が理解できなかった。

ぬるりと侵入し口内を蹂躙し始める感触に甘い雰囲気も気分も何もない。流されまいと目を見開いたまま彼の肩を押して胸を叩く。床とソファが逃げるなとリリーの身体を押し返した。


「な、に……をっ!」


唇と唇の隙間からやっとのことで発した抗議にスネイプと目が合った。10センチにも満たない距離で開かれた漆黒には小汚ない女の間抜け面だけが映っている。あまりにも滑稽な自分の姿にリリーの手がピタリと止まった。

ゆったりと焦らすようにスネイプが瞬きをする。再び現れた漆黒の瞳には、ジリと焦がれるような熱が宿っていた。


あぁ、溺れる――


リリーから鼻にかかった息が零れる。そのすべてを掬い取るように、スネイプの長い指がリリーをするりと撫でた。







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