夢を見た。
ふわふわとした幸福感とピリピリとした使命感の狭間に漂う奇妙な夢だった。
夢の中で私は私だった。
それが夢だと確信したのは、私がスネイプ教授に杖を向けていたから。薄暗くどこか分からない細長い場所で、バチンバチンと呪文を弾き合う音がする。私の身体は傀儡のように勝手に動いていた。
嫌だ、やめて、スネイプ教授に攻撃したくない!
誰にでもなくそう懇願した。――その時。一瞬、ほんの一瞬だけ身体が自由になった。
夢で何が起こっているのか、筋道が示されるなんてことはそうそうない。私はスネイプ教授に杖を向ける理由がなくなって、ダランと手を下げた。
『スネイプ教授』
喉はカラカラで掠れていた。それでも確かに目の前の彼には届いていた。何故ならその瞬間、すごく驚いた顔をしたから。目をこれでもかというほど見開いていた。その後ろにふわりと飛び込んできた白髭はきっとダンブルドア校長だろう。私を見たような気がする。
夢の中の一瞬の出来事は、目の前が真っ赤に染まって終わりを告げた。
夢から覚めたとき、リリーは見知った天井の下にいた。見知らぬ天井で驚いた、なんてお話はよくあるだろう。だが彼女は見知った天井故に、愕然とした。
そこは医務室だった。
カーテンで仕切られたベッドの中にリリーは寝かされていた。一体何が起こったのだろうか。何故ここに?リリーのぼんやりとした頭ではなかなか意味のある思考回路を形成してくれない。
今何時だろう?
リリーはゆったりと回る頭でそんなことを考えた。腕を見たが時計をしていなかった。上半身を起こし、ぐるりと首をふくろうのように大きく回してみる。左には自分のローブが掛けられ、右のサイドテーブルには時計が置かれていた。
躊躇う理由もなく手を伸ばす。ボソボソと部屋の外から声が聞こえてきた。どこか争うようなそれは呼応するように室内からの囁きを誘う。
誰かいたのか……
「残念だが――」
「――ダンブルドアが知ったら――」
徐々に大きくなった声は荒々しく開いた扉によって突如鮮明になった。ドクンと心臓が脈打って、リリーは衝動的にベッドから飛び降りる。ヒタヒタと靴下越しに冷たい石畳を感じながら三歩でカーテンに辿り着いた。そして片手で胸元の服をぎゅうと握り締めバクバクと耳元でなり響く心音をやり過ごす。
そっと、カーテンの隙間から扉の方を覗いた。
バチッと音がしそうなほどの衝撃が頭の天辺から響いて一気に下へと駆け抜けた。スネイプと目が合ったのだ。
リリーの目はぐわっと見開かれ、口は薄く開かれたまま凍りつく。スネイプもまた同じような顔をした。しかし凍りついたままの可能なに対し、彼は瞬時に意識を手元の問題へと移す。
リリーは世界を遮断したい一心でカーテンを引いた。そうしたところで声は鮮明に届いてくる。ダンブルドアが医務室へ入ってきたのも分かった。
私ははこのやり取りを《知っている》。
これは第三の課題が終わり、例のあの人が復活を成し、ムーディの正体が明らかになった後に起こるものだ。
つまり、これは、今は?
リリーはここでようやく時計を見た。今がお昼でないなら、時計は真夜中を指している。全部、終わったのだ。いや、始まったのだろうか。
闇の時代が
リリーからは「今日」がすっぽりと抜け落ちていた。
自分に何があったのか。記憶がないと言うことは、こんなにも恐ろしいものだったのか。リリーは震える身体を抱き締めて、ぎゅっと身を縮めた。浅い息を何度も繰り返し、僅かな今日を思い起こす。
朝、地下牢教室で目が覚めた。煎じ薬を持ってハグリッドに会いに行った。大広間に向かう途中ムーディに会った。朝食をそこそこにムーディの部屋へ向かった。
記憶はここでぱったりと途絶える。
ムーディ――いや、クラウチJr.が私に何かをした
ゾゾゾと全身に鳥肌が立った。吐きそうな嫌悪感に全身を撫でられ、腕を掴む指に力が入る。
彼は私に何をさせた?
私は何をした?
話した?
まさか、《本》のことを?
リリーは居ても立ってもいられなくなり、ぎこちなく腕から剥がした指をカーテンにかける。視線の先でスネイプが左腕を晒していた。
こちらに向くようにして立っていたダンブルドアと視線がかち合う。彼はスッと目を細め、リリーの足を止めた。「そこにいろ」そう言われたような気がした。
ダンブルドア以外は彼女に気がついてもいない。スネイプとは既に目が合っていたが、今はリリーを気にする素振りはなかった。
リリーは深く息を繰り返しながら口角泡を飛ばす彼らの議論に耳を傾ける。じっとりと汗ばんだ手が熱を奪われ冷え始めていた。騒然としたやり取りは医務室全体に広がり空気をピリピリと震わせているのに、リリーの周りだけは静寂が幅を利かせているようだった。
彼らの話はリリーの知るものと大差なかった。ファッジ魔法大臣は例のあの人の復活を認めようとしなかったし、クラウチJr.は吸魂鬼のキスを受けた。そして不死鳥の騎士団の再発足。
ダンブルドアが次々に指示を与え、医務室から数人を送り出す。そしてシリウスとスネイプに声をかけた。
「――妥協するとしよう。握手をするのじゃ。結束してことに当たらねばならん。きみたちは同じ陣営なのだから」
しかし二人が動く気配はなかった。ダンブルドアが再びリリーに目を向ける。リリーは呼ばれたのだと思った。
そのブルーの瞳に誘われるままカーテンからするりと抜け出す。ダンブルドアの視線と近づく彼女に気付いた人々が、眉をピクリと上げ戸惑いの声を洩らした。
リリーは真っ直ぐシリウスの側に立つと、その手を掬い上げた。拒まれることなくついてきた手を緩く握り軽く引く。シリウスが一歩二歩と彼女に付き従った。何をされるのかと眉を潜める彼にリリーは微笑みだけを返す。
スネイプに手が届くまでの距離になると、今度はスネイプの手も掬い上げた。黒衣に隠されているが数分前には晒されていた左腕だ。
リリーの背後で誰かが息を呑んだ。ポッターか、ウィーズリーか、はたまたグレンジャーか。振りほどかれない手に、スネイプがされるがまま誰かと手を繋いでいる事実に、困惑を隠しきれていない声。
リリーの親指がそれぞれに繋がれた二人の指をするりと撫でる。
「既にお伝えしたはずですが、お二人にはお二人にしか出来ない役目があります。未来にとってなくてはならない力です。敵の敵は味方。今はそれで。お願いシリウス、スネイプ教授」
最後に二人の目を見ながら名前を呼ぶと、ピクリと両手の中の指が跳ねたのを感じた。リリーはその反応に満足してゆったりと手を下ろし、彼らを解放した。
しかしその手を離せばスネイプ教授は、焦がれてやまない彼は、再び闇へ身を沈め心を引き裂かれながら一人孤独に戦わねばならない。そう思うと、下ろした手をギリギリまで離すことが出来なかった。
どちらともなく腕を伸ばし、スネイプとシリウスは握手をした。
「シリウス、きみは昔の仲間に警戒体制を取るよう伝えてくれ。しばらくはリーマスの家に潜伏するのがよかろう」
シリウスが医務室を出ていった。
「さて、セブルス。きみに何を頼まねばならぬのか、もう分かっておろう」
「はい」
「もし準備ができているなら……やってくれるのなら……」
「何なりと」
スネイプは最後にチラリとリリーを見て、医務室を出ていった。
「リリー、きみは部屋で待っていてくれ。少し遅くなるかもしれんがわしから訪ねよう。聞きたいことだらけじゃろう」
リリーは頷くと医務室を出た。
消灯時間をとうに過ぎた廊下はそれでなくとも打ち沈み、安穏とはかけ離れた異質さを孕む。コツリ、コツリ、と運ぶ足は自然と地下へ向いていた。リリーがそれに気付いたのは玄関ホールへと続く大階段に差し掛かったとき。自分ではない誰かの靴音が聞こえた。
スネイプ教授……
彼は真っ直ぐ前だけを見据え、いつもの大股を素早く動かして先を急いでいた。そして大きな樫の扉を開き、闇の中へと溶け込んでいく。
私には止める術も権利もない。ただこうして見ていることしかできなかった。泣いてすがっていいのなら、それで事態が好転するのなら、私は躊躇わずにそうするだろう。
しかし、そうではないのだ。
リリーは拳を握り爪を手のひらに食い込ませる。ピリッと走る痛みがひどく心地好かった。
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