04

 そうと決まれば、財布を手にして家を出る。駅前の薬局で適当に安いハードワックスを見繕い購入する。家に帰って早速、封を切ってヘアセットに勤しむ。たぶんこんな感じで束をつくるように。
 ……うん、完璧に兄である。我ながら手先が器用である。ワックスなんか、今まで使ったことがないが、これは上出来なんじゃないだろうか。自画自賛しながら洗面所の三面鏡で自分の垂れ目とにらめっこしていると、母が優雅に登場して相好を崩した。
「あら〜、比呂にそっくりじゃない」
「似合う?」
「そうね、胸が貧相でよかったわね。これなら男の子として通るわね」
 一言余計な母である。しかし反論の余地はない。ぺったんこなのである。まな板なのである。一応、やわらかさはあるが、それは触ってみないと分からない。そして、誰も触ったことがないというむなしい事実も介在している。
「これ、制服よ」
 兄と背格好までそっくりな私に、その制服はきちんとフィットした。若干肩幅と腰回りに余りが出るが、それくらいは見逃してもいいだろう。それにしても、私立とあってなかなか洒落たデザインの制服だ。もしかしたら誰か有名なデザイナーに頼んだのかもしれない。水で薄めたようなスカイブルーの学校指定のワイシャツに、細かい水色のチェックが入った灰色のスラックス、ブレザーは薄い紺色で、ネクタイは黒地にブルーのチェックだ。鏡の前に立ってみる。けっこう似合っている。
「こうして見ると、比呂って可愛い男の子だったのね」
 飄々と言う母だが、兄が可愛い男の子であることを誰よりも過大評価しているのはほかならぬこの人である。
「では、私はいざ寮へ」
「入学までに汚い言葉使いを習得しておきなさい」
「分かった」
 言葉使い。そうか、私、もこれから三年間使えなくなってしまうのか。そう思うとやはり少しむなしい。俺。……馴染めそうにないな。
「俺、俺、俺……」
 ぶつぶつぼやきながら制服を脱ぐ。兄は果たしてどんな言葉使いしていたのだっけ、こちらに帰ってきたのが今年の一月の末なので、そんなに前でもないはずなのだが。けっこうちゃらんぽらんな喋り方をするタイプだったように記憶しているが……。
 脱いだ制服をハンガーにかけ、ベッドに寝転がる。
「亜衣、お風呂入っちゃって」
「はーい」
 引き続きぼやきながら風呂場に向かう。そこでひとつ感動する事実が発覚してしまう。髪の毛を洗うのが劇的に楽である。コンディショナーいらないかもしれない、と思いながら一応つけて流し、身体も洗ってお湯を溜めた浴槽に沈む。思わず、うう、と渋い声が出る。てゅるるるる、と巻き舌をしていると、隣家からどっと笑いが起こった。……まさかと思うが私の巻き舌が聞こえていたのではないだろうな。巻いていた舌を停止させ、ぶくぶくと口までお湯に浸かる。
 風呂から出て、洗面所の鏡で上半身を見る。ほんとうにぺちゃぱいである。完全に小さい男の子になってしまっている。色気のいの字もなければ胸もない。
 頭を振って水気を飛ばし、タオルで軽く拭き取る。まだまだ未練の残る今頃ゴミとなっているのだろう髪の毛を思いながら。三年間我慢して、また伸ばせばいいのだとは思うものの。それにしたって兄とまったく同じ髪型にすることはなかろうに、もうちょっと長くしてくれたっていいじゃないか。
「いいお湯でした」
 台所に向かい、冷蔵庫の牛乳を中身がわずかであることを確認し、パックのまま一気飲みする。
「はしたないね、女の子が」
「……男になれと言ったのはどこのどなただろうか」
「あら」
 おほほ、なんて白々しく笑いながら、母はリビングのほうへひょろりと姿を消した。まったくもって勝手な人である。小さくげっぷして、空になったパックをシンクに放り投げた。今日から男になるのだ、男子たるものダイナミックに生きねば。

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