02

「……まさかとは思いますが」
「昔比呂の行きつけだったところでいいかな? 駅前の千円カット」
 なんてことだ。私の、不細工でもないが決して可愛くもないふつうな私の唯一の自慢の輝く黒髪のロングヘアの危機だ。母よ、もっと考えてくれたまえ、兄を連れ戻す方法とか、兄を連れ戻す方法とか、兄を連れ戻す方法とか。妥協しては駄目だ、人生は妥協の連続と言われているけれども!
 そんな叫びや悲鳴もむなしく、私は駅前の千円カットに押し込まれ、こんな感じにしてください、この子が泣いてもわめいても容赦なく、という注文に戸惑いつつも客の注文を断れない美容師の鋏によって、ああ、私の自慢の黒髪にメスが。
 数十分後、私の自慢のロングヘアは、見事に写真の中でジェニー(と思しき人物)と一緒ににこやかな笑みを浮かべる兄と同じ、ショートヘアにされてしまった。鏡を見て、一瞬私はあの写真の人物なのではないかと、私は兄なのではないかと錯覚するほど、美容師の腕は見事だった。二卵性の双子なのに顔のつくりはまるで一緒だし、髪質も同じなのかもしれなかった。
 家に帰ってきて部屋に閉じこもり、店でぶすっと不機嫌な表情をつくることで我慢していた分私は本気で泣いた。ああ麗しき我が黒髪よ、美しいロングヘアよ……。もっと本気であたりをはばからず泣きわめけば、美容師も思い留まってくれたかもしれない。なぜ抵抗しなかった、私。嘆いていると、部屋のドアが四、五回ほどノックされた。顔を上げると、許可もなくドアを開けている母と目が合った。
「いつまでもめそめそしていないで、現実を受け止めなさい」
「なんで私が比呂の代わりにならにゃいかんのじゃ! 比呂を引きずってでも連れ戻せばよかったでしょ!」
 あっけらかんとしている母は、そりゃあ自分にはダメージがないのだからそんなきょとんとした顔をしていられるのだろうけれど、私には実害しかないのだから、もっといたわってほしい。怒鳴りつけると、母はそこで初めて困ったように腕を組んで頬に右手を当てた。
「それが、さっきは言わなかったけど、比呂が失踪したらしくて」
「ちょっと待ってそれってまさか」
「ジェニーと一緒に」
「駆け落ちか! 妹にすべての苦行を背負わせて自分はのんきに駆け落ちごっこか!」
「ごっこじゃないわ、音信不通になっちゃったんだもの。それよりご飯よ」
 ため息をついた母のあとをのろのろと歩いてついていく。なにが「それよりご飯よ」だ。それよりって、今兄の失踪以上に大事なことはないだろう。
 美味しそうな揚げ物の匂いがする。大好きなトンカツのようだが、今日ばかりは喜べない。妙にすうすうする首筋を引っ掻いて、もう何度目かの嘆きを反芻する。ああ、私の美しい黒髪……。
 だいたい母は、兄にとことん甘いのだ。兄は甘え上手と言うか、人を食ったような性格でとにかく年上の人間を手玉に取るのがうまいところもあるのは大きいが、兄と私が対立したときや喧嘩の際は必ず兄の肩を持つ。双子で顔も同じだけれど、性格は全然違うし、兄と母はそういう意味で似ているのだと思う。
 ちなみに、私の高校はどうするのか、という問題は即座に解決された。ふつうの公立高校を受験し合格した私は、まだ入学取り消しができたのだ。入学金も未払いだ。だから、このまま放っておけば何の問題もないということ。まるで私が男子校に通うように、運命の歯車がどこかで密かに回っている感じだ。それも、果てしなく悪い方向に向けて。

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